04│2018年01月21日 降誕節4  最初の弟子たち

週    句

あなたの上には、主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
イザヤ書 60:2
説  教    「わたしについて来なさい」:梅田 環

最初の弟子たち
エレ1:4~10、使9:1~20、マコ1:14~20、詩100:1~5。

イエスは、「わたしについて来なさい。……」と言われた。二人はすぐに網を捨ててしたがった。……ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもイエスのあとについていった。
マルコによる福音書 1:17?20

 神に召されてあることを「召命」と言います。教会の教職などが神からの召命によるものだと考えられていました。しかし、マルティン・ルターは、教会の教職に限らず、一人ひとりが召命を受けており、社会での働きも神から受けた使命であると語ります。「ベルーフ!」。
 イエスに招かれた人々に求められたことは「イエスに従う」ということです。イエスの歩みは、神の言葉を語るだけでも、神の掟を守っているかどうかを監視することでもなく、神の言葉を実践する、ということであった。飢えている人にパンを与え、病の人を癒し、孤独を感じる人のそばに行き、救いを告げた。イエスの足は孤独な人の隣人となるために駆け、イエスの手は傷ついた心や体に触れ、イエスの口は慰めを語り、イエスのはらわたは隣人への憐れみによってちぎれるような痛みを感じた。
 神は、イエスを通して全ての人を救うと約束された。そのために、イエスは全身全霊をもって働かれた。その救済という神の働き、すなわち、イエスの働きに、わたしたちキリスト者は招かれている。神の恊働者となるよう求められている、ということです。
 イエスは隣人のために知恵と力とをもって全力を尽くすことを教えられた。それを、日々の働きの中で実践するようにと、求められた。神は、出会う人々を恐れるな、わたしが共にいると励ましてくださる。どうしてよいか分からないときは、必ず、なすべきことは何かを、知らされると言われる。神の約束を信じて与えられた使命を果たしたい。

2018.01.28(日)の礼拝の週報

03│2018年01月14日 降誕節3  イエスのバプテスマ

週    句

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。
ヨハネによる福音書 1:17
説  教    「あなたはわたしの愛する子」    :梅田 環

イエスのバプテスマ
出14:15~22、Ⅰヨハ5:6~9、マコ1:9~11、詩36:6~10。

すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
マルコによる福音書 1:11

 イエスのバプテスマを通して示されたメッセージは〈愛と喜び〉!バプテスマのヨハネの〈悔い改めと節制〉とは、随分、印象が違う。イエスのバプテスマの際、神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた。それはイエスにだけ与えられた言葉ではありません。イエスを介して、わたしたちにも与えられた神の言葉です。しかし、わたしたちは、これを受け入れられず、勝手に条件を探すのです。条件をクリアすることなしに、神は「わたしの愛する子」などと言われるはずはない(!)と、思っているからです。
 イエスは、公生涯を始められるまで、ガリラヤのナザレにおられた。ナザレはガリラヤの人々から軽蔑されていた町です。そこに住んでいるだけで差別を受けるのです。人の世には、出自、外見、指向、思想などを理由に差別されるということがあります。その時、人は「神から愛されて〈いない〉」というメッセージを受け取るのです。イエスは「そこから」出て来られた。「から」と言う接続詞は分離/出発を意味します。イエスは自分を否定する声から解放された。力となったのは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という確信。
 わたしたちも、自分自身の存在を脅かすメッセージがあふれる社会に生きている。しかし、神は、イエスを通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、語りかけてくださり、神の似姿として創られたわたしたちを祝福してくださっている。
 わたしたちも存在を否定する場から出発し、神の解放のメッセージを宣ベ伝える者となろう。

2018.01.14(日)の礼拝の週報

02│2018年01月07日 降誕節2  エルサレム訪問

週    句

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
ローマの信徒への手紙 8:14
説  教    「三日の後、イエスを見つけた」   :梅田 環

エルサレム訪問
ゼカ8:1~8、Ⅰテサ2:1~8、ルカ2:41~52、詩89:2~15。

三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているのを見つけた。
ルカによる福音書 2:46

 クリスマスが過ぎた今、わたしたちは、お生まれになったイエスさまがどこにおられるのかと、探したたり、考えたりすることを、やめてはいないか。クリスマスという一大イベントが終わった途端、現実に引き戻され、日常生活に忙殺される日々を送っているのではないか。さらに、「神はどこに!」と、問う現場にいてさえ、神を探し求めることを、簡単に、諦めてはいないか。むしろ、手に入れやすい慰めを得ようと、自分に都合の良いものに頼ろうとしてはいないか。
 イエスを見失ったイエスの両親は、ひどく苦しみ、必死になってイエスを捜した。かけがえのないものを必死に探す両親の姿に、わたしたちは人々を訪ねるイエスの原型を見る。イエスの歩みは、失われた者を探す旅だったのです。
 すべての人に、神から、かけがえのない価値が与えられています。貧しくても、病の中にあっても、その価値は変わることがありません。しかし、その価値を失わせようとする世の闇は深い。イエスは闇を照らすために、そして、一人ひとりのいのちと価値を回復させるために来られた。イエスも、その両親のように、失われた価値を探して、必死になってくださった。
 「神はどこに!」と、わたしたちが問うのは、わたしたちが自分の価値を見失っているときだろう。そのような時、わたしたちを、必死に探し続ける方がおられることを思い起こしたい。わたしたちが必死になって神を求め、イエスを一生懸命に探す時、わたしたちの価値を取り戻すために、傷だらけになったイエスに出会うであろう。

2018.01.10(日)の礼拝の週報

01│2018年01月01日 降誕節  言の受肉

週    句

全てを、主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
コロサイの信徒への手紙 3:17
説  教    「言は肉となって……」  :梅田 環

言の受肉
イザ52:7~14、ヘブ1:1~6、ヨハ1:1~14、詩2:1~12。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネによる福音書 1:14a

 ヨハネ福音書には、マタイ福音書やルカ福音書のような降誕物語は記されていません。また、マリアやヨセフといった降誕物語の中心人物はだれも登場しません。他の福音書では「マリア」という一個人の名前が挙げられ、神の子を宿した女性として讃えられています。しかし、ヨハネ福音書に、神の子の母は登場しません。ヨハネ福音書は言います。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。
 人となられた神の言葉は、マリアという特別な女性に与えられたのでもなければ、ベツレヘムという遠い町にお生まれになったのでもありません。今、生きているわたしたちのもとに来られ、わたしという存在が神の子を宿す器とされたのです。
 しかし、神の子がその住まいとされたわたしたちは、立派な器ではない。もろく、はかなく、弱い存在です。荒れた部分、闇の部分があり、そこには、自分と相容れないものは排除したいという暴力的な思いさえあります。この弱さをもったわたしたちの中に、救い主は来られた。それも、わたしたちと同じ弱さをもった肉なる存在として。そして、神の言葉で、わたしたちの弱さや傷に触れ、癒してくださる。
 また、わたしたちが自己中心的な考えに陥り、他を排除しようとするとき、わたしたちを対話と和解と共生へと導く知恵を与えてくださる。なぜなら、神の言葉の受肉は個人的な事柄に留まるのではないからです。「わたしたちの〈間〉に宿られた」と記されているように、わたしと隣人の間に立ち、わたしたちを繋ぎ合わせる橋としてお生まれになったのです。

2018.01.10(日)の礼拝の週報

53│2017年12月31日 降誕節  東方の学者たち

週    句

主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。
詩編 103:8
説  教    「ヘロデのところへ帰るな」:梅田 環

東方の学者たち
イザ49:7~13、黙21:22~22:5、マタ2:1~12、詩72:1~7。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と、夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書 2:12

 イエスはベツレヘムでお生まれになりました。ベツレヘムとは「パンの家」という意味で、豊かさを象徴しています。ヘロデ統治時代は、様々な事業が行われ、活気にあふれ、経済的には繁栄していたようです。しかし、それを享受したのは一部の人々で、その他多くのユダヤ人たちは、精神的な飢えと渇きによって、抵抗運動へ向かわざるを得ませんでした。
 ヘロデは、自分に対して異を唱える者を、弾圧し、自分の地位を危うくさせる者は、たとえ家族であろうと幼子であろうと、容赦なく抹殺しました。一見、豊かな町に見えても、虐げられた人々が存在していたのです。人々を支配していたのは恐怖であり、豊かな「パンの家」には貧しい人々を生かすパンはなかったのです。
 そのような中で、幼子イエスと出会った異邦の賢者たちがいました。彼らは、イエスとの出会いによって、ヘロデの道とは違う道を通る決意をします。イエスとの出会いによって、神から与えられた命がどれほど価値のあるものか、そして、それがすべての人に与えられていることが、明らかになったからです。
 ヘロデの世は、ある条件を満たさなければ「価値あるもの」とはされない世でした。権力者を脅かす者の命は奪われ口が塞がれました。しかし、神からの命は条件付きではないことがイエスを通して示されるのです。メシアとの出会いは人を変えます。王の命令をものともせず、「別の道を通る」人間を創るのです。恐れを捨て去り、幼子となったメシアに出会う旅に出かけよう、わたしたちも!

2018.01.10(日)の礼拝の週報

52│2017年12月24日 降誕前1 告知

週    句

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピの信徒への手紙 4:4、5
説  教    角を上げる〈99%〉    :梅田 環

告   知
サム上2:1~10、ロマ1:1~7、ルカ1:39~56、詩113:1~9。

ハンナは祈って言った/「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。……
サムエル記上 2:1a

 女性は「こうあるべき」という声に苦しむ。ハンナ、エルカナ夫妻には子供がいなかった。エルカナにとってそれはそれほど問題ではない。しかし、ハンナは「子供を産むべき」という重圧に心を引き裂かれていた。一方、マリアは、思いがけない妊娠により、婚前女性に求められる条件から外れてしまったことに、不安を隠せない。あるべき形から外れてしまうと、共同体の中では、汚れた者、神に祝福されていない者としてのレッテルが貼られ、居場所を失う。
 しかし、ハンナとマリアは、高らかに解放の歌を歌います。これまで、涙を流していたハンナが、また、居場所を失いエリザベトのもとに身を隠していたマリアが、顔を上げて歌うのです。堂々として積極的な姿に、いったい彼女たちの身に何が起こったのだろうかと、驚かずにはおれません。彼女たちは、神が目を留めてくださったこと、聖霊によって力が与えられたこと、神の守りが約束されていることを喜び、感謝するのです。
 「わたしは汚れていない!」という喜びの声が聞こえて来るようです。神は、わたしたちの「こうあるべき」という規範を覆す方であることを、彼女たちは証しします。この神に出会ったからこそ、彼女たちもまた世の規範を乗り越え、新たな命を生きる者となったのです。
 しかし、今なお、わたしたちはハンナとマリアに「謙虚さ、従順さ」を求め、自分の意見を言わずに、ただ神に従うイメージを押し付けているのではないか。隣人に対しても「こうあるべき」と迫っています。彼女たちの歌を共に歌うことによってイエス(自由)と出会おう。

2017.12.26(日)の礼拝の週報

51│2017年12月17日 降誕前2 先駆者

週    句

主のために、荒れ野に、道を備えよ。見よ、主なる神は、力を帯びて来られる。
イザヤ書 40:3、10
説  教    預言者(先駆者)の務め  :梅田 環

先 駆 者
イザ40:1~11、Ⅱペト3:8~14、マル1:1~8、詩85:2~14。

慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ。……
イザヤ書 40:1〜2a

 神の言を退け、神に背き続け、ユダ王国はついに滅亡し、民の指導者たちはバビロンに連行され、捕囚の民として生きざるを得ませんでした。長期間にわたる捕囚の末、解放が告げられたものの、帰還する人々を待ち受けていたのは、荒廃した故郷でした。彼らの希望は打ち砕かれ、疲れ果て、歩く気力も失い、暗闇に座す状態であった。まさに彼らの心そのものが「荒れ野」の状態でした。自業自得だ、当然の報いだ、神に背いたのだから、と自己を責め、非難もされる。しかし、そのような人々を、神は見捨てられないのです。
 「慰め」という言葉には「苦しみや悲しみにいる人に優しく接する、一時的に楽しませる」という含意(がんい)があります。しかし、神の慰めは、そのようなその場しのぎ、気の紛らわし、でもなければ、現状に甘んじることでもありません。それは、苦しい現実を積極的に受けとめて歩もうとする力を与えるものなのです。それは、現実を変革する力にもなります。その慰めの言葉を、エルサレムの心に染み通るように語れ、と神は預言者に求めます。
 神の慰めの言葉とは、荒れ野に神は来られ、あなたがたと共にいる、そして、そこから救い出す、という約束です。「慰め」という言葉は、ヘブライ語では「激しい息使い、深く息を吸い込むこと」を意味するそうです。息、つまり命、が与えられるということです。
 荒れ野を住まいとしていた人々は、生きる気力を失い、死んだような状態でした。そのような彼らの心に神が触れた時、彼らは、深く息を吸い込み、再び生きる者となるのです。

2017.12.16(日)の礼拝の週報

50│2017年12月10日 降誕前3 旧約における神の言

週    句

身を起こして、頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
ルカによる福音書 21:28
説  教    向き合おう、神の言に!  :梅田 環

旧約における神の言
エレ36:1~10、Ⅱテモ3:14~4:8、マル7:1~13、詩19:8~11。

この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から……
エレミヤ書 36:7

 南王国ユダがバビロニアの圧迫に苦しんでいたときのこと。ヨヤキム王はエレミヤを通して語られた神の言葉を聞こうとはしなかった。王の考えとエレミヤの考えとが違っていたからです。バビロニアに従うべきとするエレミヤの考えとは逆に、王はエジプトの軍事力に頼り、大国の庇護のもと、バビロニアに対抗しようとします。王は、自分の意見に反対するエレミヤに、神殿への立ち入りを禁じます。それでも、エレミヤは弟子のバルクに神の言葉を書かせ、それを聞くようにと促すのですが、王は聞きません。それどころか、神の言葉を捨て、火にくべてしまうのでした。
 わたしたちは、神の言葉によって、慰めを受け、平安を与えられ、元気付けられることが、しばしばあります。いや、むしろ、それを期待して、聖書を読むことが多い。しかし、聖書には、耳の痛いことも書かれています。自分にとって都合の悪いこと、自分の利益を失わせることも、書かれています。
 聖書は、わたしたちの心の向きが間違っている時、心の向きを変えよ、と迫ります。しかし、自分の考えは正しいと信じて疑わず、他の意見に耳を貸さない時、わたしたちは、ヨヤキム王のように、神の言葉を捨ててしまっているのではないでしょうか。神の言葉は「あなたの心はどこにあるのか」と尋ねています。
 テモテへの手紙4章2節には、「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、励みなさい」とあります。「励む」とは、「逃げずにそこに留まる」ことを意味します。向き合おう、神の言(ことば)に!

2017.12.09(日)の礼拝の週報

49│2017年12月03日 降誕前4 主の来臨の希望

週    句

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書 9:9
説  教    より意識的に生きよう! :梅田 環

主の来臨の希望
イザ51:4~11、Ⅰテサ5:1~11、マル13:21~37、詩82:1~8。

わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心に置く民よ。/人に嘲られることを恐れるな。/罵られてもおののくな。
イザヤ書 51:7

 アドヴェント(到来、待降節)。教会の新しい暦は始まった。この時を、わたしたちは、希望に溢れて、迎えているだろうか。今、世界を見渡すと、希望よりも不安の方が勝っているように見えます。
 イザヤ書51章は第二イザヤと呼ばれる無名の預言者が活動した時代です。バビロン捕囚によってイスラエルの人々は故郷を失い、心の拠り所であった神殿も失いました。それでも、神への信仰を奮い立たせて来ました。彼らを支えていたのは、エルサレムへ帰るという希望でした。いよいよ帰還が現実のものとなりました。イスラエルの人々は喜びと希望に満ちあふれているはずでした。しかし、彼らを待ち受けていたのは、廃墟となったエルサレムと、民の離散という現実でした。この現実に彼らは疲れ、希望を失いました。次第に、現実を直視しなくなり、神に信頼を置くことも、御心を尋ね求めることも、しなくなりました。神に背を向け、自己憐憫に陥った人々に、神は呼びかけます、「心してわたしに聞け。わたしに耳を傾けよ」と。目覚め、身を起こし、神が示す希望を見よ、語りかけるのです。
 人生のどん底で、助けも期待できず、望みも叶わないとき、わたしたちは考えることをやめ、変革の声を上げることを諦めてしまいます。しかし、神は、求めます、自分にしか向いていなかった顔を上げ、自分の声しか聞かなくなっていた耳を神に傾けよ、と。神は、約束されます、生易しいものではないわたしたちの現実を、闇が覆いつくそうとしている現実を照らす希望の光を与える、と。
 わたしたちに求められているのは、より意識的に生きること!

2017.12.02(日)の礼拝の週報

48│2017年11月26日 降誕前5 王の職務

週    句

腰に、帯を締め、ともし火をともしていなさい。
ルカによる福音書 12:35
説  教   「主の霊が激しく降る」   :梅田 環

王の職務
サム上16:1~13、Ⅰテモ1:1~12、マル10:17~31、詩89:20~30。

兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降(くだ)るようになった。
サムエル記 上 16:13

 ダビデは油を注がれて以来、主の霊が激しく降るようになりました。神は、人間の持っているものを利用するのではなく、必要な者を与え、職務にふさわしく、訓練されます。「固く支え」「勇気を与え」育てるのです(詩89:22)。
 ダビデのこの後の歩みを思うと、霊が降るとは、いかに神に向かって行くのかが、激しく問われたということであろうと思います。問題が起こる度に、神は彼を揺さぶり、あなたは何を考えているのか、と問い、ダビデもそれに応えて、神に向かっていかなければならないのです。その関係を、神の方から作ってくださったのです。
 そのように問い掛けられる時に、わたしたちの内には、神に向かう何ものをも持っていないことを思います。「主は心によって見る」(サム上16:7)と言われても、ダビデの心がどうであったのか、純粋か、誠実か、柔和か、何も書かれてはいません。そのようなものを見て、選ばれたのではなく、わたしたちの内には、主の目に適うものはないと知っている神が、なおわたしたちたちの心を探り、捕らえてくださる、ということなのでしょう。
 ダビデに降った聖霊は、わたしたちにも降ります。言葉に表せないうめきをもって執り成しつつ、わたしたちの心を神の方へと向かわせ、新たな職務へと召し出します。わたしたちは、自分に欠けているものを見て悲しむのではなく(マル10:21~22)、「何でもできる」という神にゆだねることによってのみ、その召しに答えることができるのです。その神を信頼して、与えられた職務を果たしたいと思います。

2017.11.26(日)の礼拝の週報