49│2017年12月03日 降誕前4 主の来臨の希望

週    句

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書 9:9
説  教    より意識的に生きよう! :梅田 環

主の来臨の希望
イザ51:4~11、Ⅰテサ5:1~11、マル13:21~37、詩82:1~8。

わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心に置く民よ。/人に嘲られることを恐れるな。/罵られてもおののくな。
イザヤ書 51:7

 アドヴェント(到来、待降節)。教会の新しい暦は始まった。この時を、わたしたちは、希望に溢れて、迎えているだろうか。今、世界を見渡すと、希望よりも不安の方が勝っているように見えます。
 イザヤ書51章は第二イザヤと呼ばれる無名の預言者が活動した時代です。バビロン捕囚によってイスラエルの人々は故郷を失い、心の拠り所であった神殿も失いました。それでも、神への信仰を奮い立たせて来ました。彼らを支えていたのは、エルサレムへ帰るという希望でした。いよいよ帰還が現実のものとなりました。イスラエルの人々は喜びと希望に満ちあふれているはずでした。しかし、彼らを待ち受けていたのは、廃墟となったエルサレムと、民の離散という現実でした。この現実に彼らは疲れ、希望を失いました。次第に、現実を直視しなくなり、神に信頼を置くことも、御心を尋ね求めることも、しなくなりました。神に背を向け、自己憐憫に陥った人々に、神は呼びかけます、「心してわたしに聞け。わたしに耳を傾けよ」と。目覚め、身を起こし、神が示す希望を見よ、語りかけるのです。
 人生のどん底で、助けも期待できず、望みも叶わないとき、わたしたちは考えることをやめ、変革の声を上げることを諦めてしまいます。しかし、神は、求めます、自分にしか向いていなかった顔を上げ、自分の声しか聞かなくなっていた耳を神に傾けよ、と。神は、約束されます、生易しいものではないわたしたちの現実を、闇が覆いつくそうとしている現実を照らす希望の光を与える、と。
 わたしたちに求められているのは、より意識的に生きること!

2017.12.02(日)の礼拝の週報

48│2017年11月26日 降誕前5 王の職務

週    句

腰に、帯を締め、ともし火をともしていなさい。
ルカによる福音書 12:35
説  教   「主の霊が激しく降る」   :梅田 環

王の職務
サム上16:1~13、Ⅰテモ1:1~12、マル10:17~31、詩89:20~30。

兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降(くだ)るようになった。
サムエル記 上 16:13

 ダビデは油を注がれて以来、主の霊が激しく降るようになりました。神は、人間の持っているものを利用するのではなく、必要な者を与え、職務にふさわしく、訓練されます。「固く支え」「勇気を与え」育てるのです(詩89:22)。
 ダビデのこの後の歩みを思うと、霊が降るとは、いかに神に向かって行くのかが、激しく問われたということであろうと思います。問題が起こる度に、神は彼を揺さぶり、あなたは何を考えているのか、と問い、ダビデもそれに応えて、神に向かっていかなければならないのです。その関係を、神の方から作ってくださったのです。
 そのように問い掛けられる時に、わたしたちの内には、神に向かう何ものをも持っていないことを思います。「主は心によって見る」(サム上16:7)と言われても、ダビデの心がどうであったのか、純粋か、誠実か、柔和か、何も書かれてはいません。そのようなものを見て、選ばれたのではなく、わたしたちの内には、主の目に適うものはないと知っている神が、なおわたしたちたちの心を探り、捕らえてくださる、ということなのでしょう。
 ダビデに降った聖霊は、わたしたちにも降ります。言葉に表せないうめきをもって執り成しつつ、わたしたちの心を神の方へと向かわせ、新たな職務へと召し出します。わたしたちは、自分に欠けているものを見て悲しむのではなく(マル10:21~22)、「何でもできる」という神にゆだねることによってのみ、その召しに答えることができるのです。その神を信頼して、与えられた職務を果たしたいと思います。

2017.11.26(日)の礼拝の週報

47│2017年11月19日 降誕前6 救いの約束 モーセ

週    句

わたしたちは、皆、キリストの裁きの座の前に、立たなければなりません。
コリントの信徒への手紙 二 5:10
説  教   「あなたたちの神となる」 :梅田 環

救いの約束/モーセ
出6:2~13、ヘブ11:17~29、マル13:5~13、詩77:5~16。

そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。
出エジプト記 6:6

 わたしたちは、困難に遭うと、神を深く知るのですが、モーセも、助け出される経験を通して、契約の神を知るようになると言われました(出6:7)。この契約とは、互いに義務を果たし合うことで成り立つ相互の協約ではなく、神が一方的に恵みを持って臨んでくださる、という約束です。アブラハムらになされた契約を思い起こしたゆえに、救い出してくださったのでありました。「購う」とは代価を払って取り戻すという近親者の義務でしたが、奴隷であったイスラエルを救い出す神さまの業を意味する言葉となっていきます。
 神の言葉を取り次ぐモーセには、神さまへの反発が人々から向けられました。「わたしの名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる」と、イエスさまが弟子たちにいわれた通りです(マコ13:13)。「唇に割礼のない」とは、包皮がかぶさったように、言葉が滑らかに出ない口下手と言う意味か、聖別されていないと言う意味かとも言われます。それを、気にし、言うことを聞かない民をどうしたら信じさせることができるのか、と悩むのですが、そのモーセに基を与えたのが、今日の個所です。
 このモーセの姿は、神の召しに「はい」と答えつつも逡巡するわたしたちの有様を表しています。詩編77編において、詩人が「御手は変わり、わたしは弱くされてしまった」と、弱音を吐きながらも、御業を思い起こすことで、讃美へと至る姿は、モーセに重なります。
 忍耐強くモーセを導いた神が、わたしたちをも導き、「あなたたちの神となる」と言ってくださいます。

2017.11.26(日)の礼拝の週報

46│2017年11月12日 降誕前7 神の民の選び アブラハム

週    句

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
コリントの信徒への手紙 二 6:2
説  教    ただひとりのかた  :片山 寛
(ルカによる福音書 11:1〜13)

神の民の選び/アブラハム
創15:1~18a、ヤコ2:14~26、マル12:18~27、詩105:1~15。

日が沈み、暗黒に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。
創世記 15:17

 古代の人々は、得体の知れない諸霊(神的諸力)に取り巻かれ、脅かされて生きている、と信じて生きていました。それに対して、アブラムの神は、自らを名乗り、意志を知らせます。更に、土地取得の約束は何によって知れるのかとの問いに、契約締結の祭儀をなすことで、約束をしたわたし(神)を信じよ、と言います。わたしたちが、主の晩餐の式を通して、それを定めた主を信じることに通じます。
 獣を裂き、契約のしるしとして、その間を通るのは、契約を守らなければ、自らが裂かれるとの意味、と言われますが(エレ34:18)、獣が裂かれた様は、契約破棄と共に神との関係が破棄され、自ら——神との関係の中で生かされている自ら——の根拠を失う、それゆえに、命を失うということを表しているように思います。神と人は本来一体であるべきにもかかわらず、その関係を裂くことになる、との表現のように思うのです。
 神を裏切ったわたしたちが裂かれるべきところを、代りにキリストを遣わし、その身を裂くのですから、決して人を罰して終わりとするのではなく、神も痛みを覚える、そのような契約関係でした。
 アブラムが受けた約束が成就するのは、何世代も経た後ですが、それも神の計画で、苦難の中にあっても、約束の中に置かれているということは大きな支えだったでしょう。その神の導きは「驚くべき御業」として(詩105:2)語り継がれていきます。「主の僕アブラハムの子孫……主に選ばれた人々」に対し、アブラムを選び、その民を導き、贖い出した神だから、「主の御力を尋ね求め、御顔を求め」ましょう。

2017.11.13(日)の礼拝の週報

45│2017年11月05日 降誕前8 堕落

週    句

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ローマの信徒への手紙 12:21
説  教    あなたの心はどこに?   :梅田 環

堕   落
創4:1~10、Ⅰヨハ3:9~18、マル7:14~23、詩51:3~11。

主はカインに言われた。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」
創世記 4:9

 「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言われるように(マル7:21)、わたしたちは、理性では抑えきれない罪を、持っています。嫉妬もその一つで、自分でも持て余し、そういう感情を生じさせた者のせいにして、自分を正当化したいのです。
 殺人を犯した兄に、「弟はどこか」と神さまは問いかけます(創4:9)。が、神さまは全てをご存知ですから、そう尋ねつつ、本当は兄カインを探しておられるのです。「弟を殺すほど憎んだあなたの心はどこにあるのか」。そう尋ねられても、わたしたちは自分のことを直視できません。人を妬み、八つ当たりしたことなど認めたくないのです。しかし、「知りません」と答えるとき、次の罪を犯します。殺された人がいるのに、自分が殺したのに、知らないことにするという罪です。殺したいほどに怒り、憎み、苦悩して来た自分をも「知らない」と言って切り捨てたのです。神さまが「ああそうか」と言って、引き下がってしまったら、彼はそこに置き去りにされてしまします。正当化しきれない自己を抱え、神の問いにしらを切り、善人と見せかける人生を送ることになります。その生は、神に生かされているとは言いがたく、「死にとどまったまま」です(Ⅰヨハ3:14)。
 彼は自分が殺されてもおかしくないことを自覚していますが、神はだれも彼を撃つことのないようにされました(創4:15)。彼にも救いが備えられているのです。彼が死ぬべきところを、イエスさまが代りに死なれ、命を捨て(Ⅰヨハ:16)、罪から清めてくださるのです。
 わたしたちが自分の罪を思うことができるのは、罪を共に背負ってくださる方がいるからです。

2017.11.04(日)の礼拝の週報

44│2017年10月29日 降誕前9 創造

週    句

初めに神は天と地を創造された。
主がお前に求めておられるのは、正義を行い、慈しみを愛し、神と共に歩むことである。
創世記 1:1 / ミカ書 6:8
説  教    造られしものよ、高らかに歌え!   :梅田 環

創   造
創2:4b~9,15~25、黙4:1~11、マル10:2~12、詩19:1~7。

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう。」
創世記 2:18

 降誕前節(降誕日までの9主日を逆算)は創造からキリスト誕生までの神の契約の歴史を振り返りつつ、準備する期間です。
 人は、命の息を吹き入れられて、生きる者とされました。が、生きる場として与えられた園は、人の思いがそのままに満たされる場ではなく、人には、善悪の知識の木からは取って食べるなとの戒めが与えられました。人は、神さまから命の息を吹き入れられたことに応答し、神の言葉に主体的に従うように、と期待されたのでした。
 神は、「助ける者」を造り、人が複数で存在するよう、定められました。男・女の順に造られたため、性差の優劣が論じられますが、「御心によって万物は存在」したのであり(黙4:11)、人間そのものに上下の差があるのではありません。「二人は一体となる」とは、「一つの肉となる」という言葉です。「肉」とは人間の実存のことで、人格的な共同体性を表した表現と言われます。この箇所は結婚の基とされ(マコ10:6)、結婚に神の祝福があることを想い起こさせられます。
 しかし、結婚を望みつつもかなえられない場合もあり、また、死別などの事情から独居の方もいるでしょう。そのような場合にあっても、全てのものは人と共に生きるように造られたのですから、この箇所に準じて、ふさわしい助け手が与えられるよう願いますが、究極の「助ける者」は人となられた神、イエスさまです。
 「人が独りでいるのは良くない」とは、本質的に、人間は独力では生きられないことを表しています。イエスさまによって贖われる生において初めて、造られたことを喜ぶことができるようにされるのです。

2017.10.28(日)の礼拝の週報

43│2017年10月22日 聖霊節21 天国に市民権をもつ者

主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。
エレミヤ書 17:14
説  教   「小羊が我らの牧者となる!」 :梅田 環

天国に市民権を持つ者
イザ33:17~22、黙7:9~17、マタ25:1~13、詩36:2~10。

玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
黙示録 7:17

 ヨハネ黙示録は、迫害下の教会を励まし、慰めを与えるために、記されました。十字架の主が勝利者であり、その主の忠実な僕もまた勝利を得るゆえ、信仰を貫くように、と励まします。
 群衆が手にするナツメヤシは勝利のしるしで、歓喜を表します。主のエルサレム入城のおり、その枝を持って迎えた群衆のように、喜びつつ礼拝するのです。ここでは、信徒たちが天上界に入れられた、と伝えるだけですが、それこそが神と小羊の終末的支配を表しています。「救いは……神と、小羊とのもの」(黙7:10)との讃美を持って宣言し、告白します。彼らがどこから来たかは、主がご存知ですとのやり取りは、エゼキエル書37章3節を想起させます。
 彼らは「小羊の血で洗って白く」された者、すなわち、十字架により罪赦された者であるゆえ、神に仕える者とされます。神が彼らの上に「幕屋を張る」とは神が宿ることで、「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」とヨハネ福音書が語るのと同じ語です(ヨハ1:14)。終末には、神殿を必要としない神(および小羊)が人と共に住み、そこが「安らかな住まい、移されることのない天幕」(イザ33:20)とされるのです。地上の権力者の栄光は一時で、彼らへの恐れも過去のものとなるのです。
 この終末の幻は、今を生きるわたしたちをも励ましています。「信仰」という、人のものを分けてもらうわけにはいかない油を保ちつつ(マタ25:13)、終わりの時に向かっていきたいと思います。

2017.10.22(日)の礼拝の週報

42│2017年10月15日 聖霊節20 信仰による生涯

週    句

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
ヨハネの手紙 一 4:21
説  教   「走り抜こう、イエスを見つめ」    :梅田 環

信仰による生涯
ヨシュ6:1~20、ヘブ11:17~22、マタ21:18~32、詩31:22~25。

自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者でありまた完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙 12:1c〜2a

 信仰を持って生きかつ死んだ先達の名が列挙されています。イサク、ヤコブが将来の来るべきことを信じて子孫のために祈り、年老いたヤコブが杖で体を支えつつ礼拝したことを記し、信仰を最期まで貫いたことを伝えました。22節の「脱出」とは出エジプトのことで、イスラエルの救いの原体験として語り継がれて来ました。
 信仰により、紅海をわたることができ、エリコの城壁が崩れ、イスラエルに神さまの存在を見出したラハブが救い出されたことに触れ(ヨシュ6:1~20)、神さまはそれぞれの信仰ゆえに導いて来たということを思い起こさせるのです。
 ヘブライ語聖書(旧約のこと)が語るように、彼らにも罪があるのですが、それにもかかわらず、神の導きを証しする者として、用いられて来たことを思いますと、この書簡の根底には、大祭司キリストが執り成してくださるという福音が響いているのです。「御目の前から断たれた」と、絶望した者が嘆き祈るとき、その声を聞いてくださる神さまの慈しみがあるのです(詩31:23)。だから、「考え直して」(悔い改めて)、従う者となるように、と勧めるのです。
 続く12章では、多くの証人に囲まれているのだから、忍耐強く走り抜こう、と、著者は呼びかけます(ヘブ12:1~2)。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ」走ることこそ、11章の結論です。迫害の厳しい時代にあって、すでに、先達がこれに耐えて来たのだから、あなたがたも、最期まで忍ぶように、と勧めます。

2017.10.15(日)の礼拝の週報

41│2017年10月08日 聖霊節19 労働の意味

週    句

世に打ち勝つ勝利、それは、わたしたちの信仰です。
ヨハネの手紙 一 5:4
説  教   「落ち着いて仕事を」    :梅田 環

労働の意味
コヘ3:1~13、Ⅱテサ3:6~13、マタ20:1~16、詩90:1~17。

……主イエス・キリストに結ばれた者として、命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事を……。
テサロニケの信徒への手紙 ニ 3:12

 当時、再臨が近いゆえ、働くのは時間の無駄で無意味だと考える者がいました。パウロは、再臨の教えを自分に都合良く解釈していることに対して、警告し、彼らを避けなさいと命じます。食事を与え、世話をして、甘やかすようなことはするなという意味です。それは、彼らを更に怠惰にさせ、正しい信仰から遠ざけることになると考えたのでした。
 パウロは、テント造りの仕事をしていたと言われ、援助を受けずに苦労して働きました。自分の教えが生活に表されるよう言葉と行いが一つになる生活を、自ら示し、信徒にも求めたのですが、それは、異なった教えに振り回されずに戦うために役立つものでした。苦労して働くことは、霊的な生活を損なうことではなく、むしろ、両者を結びつけるべきであることを示したのでした。
 「働きたくない者は、食べてはならない」(Ⅱテサ3:10)とは、働けない者のことではなく、上記の再臨理解のために、働けるのに働くことを欲しない者のことで、「働かざる者、食うべからず」という冷たい訓示ではありません。
 「働かず、余計なことをしている」は語呂合わせで、無益なことをしているという意味で、「落ち着いて仕事をしなさい」と命じます。再臨を待つ者は、神が各自に託した仕事に専念するように勧めるのです。神さまは、「労働者を雇う」主人であり、(労働者が)「その労苦によって満足するのは、神の賜物」だからです(コヘ3:13)。「たゆまず善いことをしなさい」との勧めに従って、歩みましょう。

2017.10.08(日)の礼拝の週報

40│2017年10月01日 聖霊節18 新しい戒め

週    句

もの皆があなたに目を注いで待ち望むと、あなたは、時に応じて、食べ物をくださいます。
詩編 145:15
説  教   「神に倣う者となれ」?! :梅田 環

新しい戒め
出20:1~17、エフェ5:1~5、マタ19:13~30、詩119:33~40。

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
エフェソの信徒への手紙 5:1

 パウロは、苦難に耐えることにおいては、「わたしに倣うように」と模範を示して来ました(Ⅱテサ3:9)。そう教えられた者は、キリストが苦難を耐え忍ばれたことに倣うべきことを学び、「主に倣う者となっていきました(Ⅰテサ1:6)。倣うべきはパウロではなく、神なのだ(!)という「新しい戒め」を明確に打ち出したのが、「神に倣う者となりなさい」という勧めでした。
 その基は、キリストがわたしたちを愛して、ご自身を神に献げてくださったことにあります。わたしたちは、罪に死んで新しい命に生きる者、神の子とされたのだから、「神に愛されている子供」として、新たに生きよ、と言われているのです。
 「愛によって歩みなさい」とは、「愛において生きよ」という言葉で、まず自分自身が愛の内にあることが命じられています。そのように生きることで、言葉と行いが生まれてくるように、と願ったのです。
 3節以下は、内面に潜む欲望に関するもので、これらの言葉を口にするのは、どこか楽しくもあるのですが、それを制するように、と十戒においても教えられています(出20:1~17。肉の体を持つわたしたちには難しく、「だれが救われるのだろうか」(マタ19:25)と言わざるを得ないのですが、その体が贖われることが、神の子とされることなのです(ロマ8:23)。親が子を見捨てることがないように、「神に愛されている子供」とされされたわたしたちのことを、神さまは見捨てることなく、導いてくださいます。うめきつつも、待ち望みつつ、神の愛のうちを歩んでいきたいと願わされます(詩110:40)。

2017.10.03(日)の礼拝の週報