19│2020年05月03日 復活4 弟子への委託

週    句

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:17
説  教 「弟子への委託」

弟子への委託
イザヤ62:1~5、黙示3:14~22、ヨハ21:15~25、詩118:1~12。

ペトロからすれば3度もイエスから「わたしを愛しているか」と訊ねられて悲しくなるのは当然、同情もしたくなります。しかし、かつて主イエスが逮捕される際、ペトロは3度イエスのことを知らないと拒絶をした、イエスの3度の問いはそのことに関連づけて読まれることでしょう。いわゆる国語の問題で17節に線が引かれ「なぜペトロは悲しくなったのでしょうか」との問題が出されたとすると、私たちはどのように答えるでしょうか。登場人物の心情に思いを寄せてみても答えは一つではありません。イエスを拒絶したあの日あの時の出来事を思いだした、という見方もあり得ることでしょう。
この箇所で主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と、羊飼いの職務をペトロに委託します。D.ボンヘッファーは良い羊飼いについて「自分の飼う羊の群れのために狼と戦う。……彼は自分のすべての羊を名ざしで知っており、羊を愛している。彼は羊の困窮と弱さを知って」おり、他方悪い羊飼いについては「暴力をもって羊たちを支配し、群を忘れて自分の事柄のみを追求」すると指摘します(『キリストに従う」)。
良い羊飼いとしてペトロを召し出し、その働きへと派遣する主イエス。そこに資格審査は伴いません。あの日あの時イエスを裏切り、イエスを拒絶したペトロをそのままに招き遣わされる。このイエスの愛と赦しを受けるからこそ、「羊のために命を捨てる」良い羊飼い(ヨハネ10.11)である主イエスから託された、良い羊飼いとしての務めにペトロは踏み出していくことができたのではないでしょうか。暴力をもって支配し、自分の事柄のみが追求されることがまかり通る世にあって、主イエスが一人一人を召し出し、「わたしに従いなさい」と語りかけてくださる。その主の愛と赦しに満ちた招きに応える者とされていきたいのです。
「礼拝と音楽」より

2020.05.03(日)の礼拝の週報

18│2020年04月26日 復活3 復活顕現2

週    句

私は良い羊飼いである。私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書10:11、27、28
説  教  「主が立っておられる」   :柳野知加

復活顕現2
イザ61:1~3、Ⅰペト1:13~25、ヨハ21:1~14、詩145:1~9。

イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。             ヨハネによる福音書21:13
ヨハネ福音書は20章までが一つのまとまりとして完成した後、補遺という形で21章が付け加えられたと言われています。ティベリアス湖にて、ペトロをはじめとする弟子たちが主イエスと再会した場面。復活の主はエルサレムで、またガリラヤでその姿を現された、2種類の伝承があったとされますが、福音書は多様な形で主の復活顕現を描き出しています。イエスの指示による大漁は狭義の「伝道」の意味として、「パンを取って弟子たちに」(13節)という言葉は6章と共に聖餐に関連づけてしばしば読まれると思いますが、ここではまた別の視点で見てみたいと思います。ガリラヤ地方、湖は弟子たちの幾人かにとってはかつての生活の場、生業の場でありました。「わたしは漁に行く」というベトロの言葉は、かつて何度も繰り返されてきた言葉だったことでしょう。不漁に見舞われるということも少なからずあったことも想像します。それは彼らの日常の場面そのものでありました。イエスに従った後も、5000人の「共食」物語、湖の上を歩くイエスとの出会いと、奇跡の場面ではありますが、イエスと共に歩んだ日常の日々の場面としてガリラヤ地方と湖が出てきます。復活の主イエスはこの日常の場面にその姿を示されました。そして食事を共にする。一人一人の生の現実、日常の歩みの中に主イエスは共におられ、その日々の中から一人一人が新しく生かされていく。復活の主との出会いを通して私たちが与えられる力がここにあります。その力に満たされた一人一人が喜びに溢れ、「あなたの輝き、栄光と威光驚くべき御業の数々をわたしは歌」う(詩編145・5)ものとされていくのです。
「礼拝と音楽」より

2020.04.26(日)の礼拝の週報

17│2020年04月19日 復活2 復活顕現1

週    句

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えて下さった。
ペトロの手紙Ⅰ 1:3
説  教  「聖霊を受けなさい」    :草苅祐子

復活顕現1
出エジ15:1~11、Ⅰペト1:3~9、ヨハ20:19~31、詩118:13~25。
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさ
い。だれの罪でも、あなたがたが許せば、その罪は許される。」               
                  ヨハネによる福音書20:22

ちょうどこの主日を迎える頃、岩手県盛岡市は桜の開花日となります(19年は4月18日)。
その中で見る復活の主がその姿を現された出来事。その際に弟子たちが「ユダヤ人を恐れて、…家の戸に鍵をかけていた」(20:19)ということ、トマスが釘の跡を見、指と手をイエスの手の釘跡やわき腹に入れてみないと「決して信じない」と言った様はヨハネ福音書が担われた時代の教会の状況や、初代のキリスト者たちの状況を簡潔に表現していると言われます。イエスを十字架の出来事によって喪失したという絶望感、裏切ってしまったという後ろめたさ、自分たちに危害が加わるのではないかという危機感…。そしてトマスはイエスが弟子たちの前に姿を現された時にそこにいなかったことから来る、拗ねたような感情を露わにします。私たちはこの弟子たちの姿を不信仰だと批判することはできません。様々な負の感情を抱く姿は私たちの姿でありますし、トマスに至っては同情や親しみさえ覚えるものであります。
そのような負の感情を抱き閉じこもり、また疑いの思いをぶつける弟子たちに対して、復活の主はその姿、御傷を示されるのです。そして「あなたがたに平和があるように」と人間の思いを遙かに超えた赦しと招きを与え、弟子たちを派遣されます。復活の主の赦しを与えられ、弟子たちはそこから歩み出します。新しい出会いが与えられ、痛みや悲しみ、恐れや絶望、疑いや迷いの心から、喜びと希望へと変えられていく……、それはまるで春が訪れ新しい生命が息吹き芽生えるかのようです。
「礼拝と音楽」より

2020.04.20(日)の礼拝の週報

16│2020年04月12日 復活1 キリストの復活

週    句

わたしは一度死んだが、見よ、世々限りなく生きて死と陰府の鍵を持っている。
黙示録1:18
朗読劇 復  活 ~《ガリラヤ》へ行かん~

キリストの復活
イザヤ55:1~11、Ⅰコリ5:6~8、ヨハ20:1~18、詩30:2~13。

『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神
であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』
               ヨハネによる福音書20:17
ヨハネ福音書における主の復活の出来事において、いくつかの方向の転換を見ます。イエスの墓の外に立って泣いているマリア。彼女はイエスの墓穴の方を向いていたことが窺えます。その方向は十字架の上で息を引き取られたイエス、イエスの死の方向です。「主が取り去られました。どこに置かれているのか分かりません」と繰り返される言葉もその方向を示すものでしょう。しかしそこにイエスが語りかけるのです。
マリアはその声に振り向きます。十字架の死を迎えたイエスの方を向いていたマリアが、復活し生きた姿を示される主イエスの方を向いていきます。「わたしにすがりつくのはよしなさい」とのイエスの言葉について、多様な理解の中から「方向の転換」という視点で考えれば、人間的な関係から、神と人との関係に移行したことを表すものと理解されます。復活の主に出会ったマリアは、最初「ラボニ」と呼びかけます。かつてマリアも弟子たちも日常的にイエスに対して用いていた呼称でしょうが、それが弟子たちの所に行った際には「わたしは主を見ました」と変化していきます。
十字架の死からの復活、様々な喪失感に溢れ涙するマリアはその視線の方向が変えられ、彼女は弟子たちに主の復活を告げる証人とされていきました。またこれまでの主イエスとの関わりから、新しい交わりへと導かれ「主を見ました」との信仰の告白へと導かれていきます。  
出会う一人一人の生の現実を大胆に転換させる。これが主の復活の出来事に秘められた力ではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.04.15(日)の礼拝の週報

15│2020年04月05日 降誕1 十字架への道

週    句

人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3:14、15
説  教  「十字架への道」      :佐野静樹

十字架への道
創22:1~18、ヘブ10:11~25、ヨハ18:28~40、詩64:2~11。

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの
世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。
ヨハネによる福音書18:37b
イエスの逮捕?尋間に至る過程の中には多くの人間の感情が渦巻いています。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるよられように、イスラエルの王に」(ヨハネ12・13)との歓呼の声から一変、裏切りや憎悪、企て、疑念、そのような言葉が当てはまる様が描き出されていきます。エルサレム入城からこの場面に至るあまりの変化は読む者に戸惑いさえ与えるのではないでしょうか。
「変化」といえば、別の変化をしている人物がいるように思います。それがイエスご自身です。イエスは、弟子たちと度々集まっていた場所、ユダもその場所を知っていたキドロンの谷の向こうの園へと赴かれます。ユダの裏切りをすでに予告されたイエスの姿を思えば、自分の姿が見つけられるようにとそこに姿を現されるかのようです。そこに「心騒ぐ」と、内なる葛藤を吐露しながら受難の道を歩んでこられたイエスの姿は見られません。むしろ迫り来る苦しみを御自ら引き受けられようとしておられる主の姿を見ます。
人間が有する負の側面、闇の支配を思わずにはいられない状況の中で、神の子としての姿を示される主イエス。その主の姿を前に、人間の企てや悪の力は無力化されていきます。降誕日に分かち合った「闇は光に勝たなかった」(聖書協会共同訳)との言葉がここでも明らかにされます。闇に支配されているようなこの受難の出来事の中で神の御業が進んでいく様を心に刻んでいきたいと思います。              「礼拝と音楽」より

2020.04.06(日)の礼拝の週報

14│2020年03月29日 降誕2 十字架の勝利

週    句

人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書20:28
説  教  「十字架の勝利」      :草苅隆幸

十字架の勝利
イザヤ63:1~9、コロ2:18~15、ヨハ12:20?36、詩22:23?32。

光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。
               ヨハネによる福音書12:36

「今、わたしは心騒ぐ」。十字架の出来事を直前にしてイエスが語る言葉は、ゲッセマネの祈りを彷彿とさせるものです。“Now my soul is troubled "(NRSV)という英訳の方が、よりイエスの内なる混乱した状況を表しているかもしれません。受難が近づいていることをイエス自身が自覚してのこのような言葉に心を打たれます。一点の迷いも無しに十字架の道を歩まんとする姿というよりも、深い葛藤を抱きつつ歩むイエスの姿を私たちはどのようにイメージするのでしょうか。
「栄光を受ける」という言葉を聞くと、一般的な成功体験、名誉や利益を受ける姿を想像してしまいがちです。しかし主イエスが歩まれたのはそれとは正反対のものであり、およそもっとも困難で痛みに満ちた道のりを辿っていかれました。しかしこの主の受難の出来事において神は独り子を通してご自身の栄光を現されるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3・16)との言葉が真実のものであり、人々に対する神の愛がここにおいて示されることを私たちは知らされます。
語る言葉への無理解に基づく応答を受けつつも、イエスは人々に勧めます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と。ヨハネ福音書の冒頭から印象的に用いられる闇と光の対比の中で語られる主イエスの言葉を聞き、私たちはこの主にいかに従っていくのでしょうか。              「礼拝と音楽」より

週    句

人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書20:28


2020.03.30(日)の礼拝の週報

13│2020年03月22日 降誕3 香油を注がれた主

週    句

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12:24
説  教  「香油を注がれた主」   :大森章弘

香油を注がれた主
サム上9:27~10:1,6~7、Ⅱコリ1:15~22、ヨハ12:1~8、詩2:1?12。

イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。
私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」
ヨハネによる福音書12:7

1リトラ(326g)が300日分の労働対価と同じ価値がある!マリアはこの高価極まりない香油を惜しげもなくイエスの足に塗り、自分の髪で足を拭います。
マルタの妹とされるマリアは活動的な姉と比較され、内向的でつつましやかなイメージが一般的に抱かれてきたことでしょう。E.モルトマン=ヴェンデルはこのマリアの「観想的」な姿が「あらゆる時代のひそかな女性理想像」とされてきたと批判的に考察しています。それは男性中心の価値観と、それによって形成され、女性たちに押しつけられてきた理想像であります。しかしマリアはそのような押しつけられたイメージを打ち破るのです。周囲があっと驚く形で。イエスへの尊敬、愛を表していきました。それはマリアにとっての「革命」でありました。
イエスは一人の女性が旧来のイメージを打ち破り新しく生きようとする様に対し、「この人のするままにさせておきなさい」とマリアのありのままの行いを受け止められるのです。自分らしく主イエスに従おうとするマリアに対して、あなたがあなたであるためにと、その姿を受け止める主イエス。この方こそ神の子であり、すべての人を救うメシア(=キリスト)であり、この方と出会うことを通して、私たちは様々な囚われからの解放を経験していくのです。        「礼拝と音楽」より

2020.03.25(日)の礼拝の週報

12│2020年03月15日 降誕4 受難の告知

週    句

鋤に手をかけてから後ろを顧みるものは、神の国にふさわしくない。
ルカによる福音書9:62
説  教  「伝承からの解放」    :佐野清文

受難の予告
ヨシュ24:14~24、ガラ2:11~21、ヨハ6:60~71、詩90:1~12。

63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
ヨハネによる福音書6:63

信仰が揺らぐということ、誰もが少なからず経験することでしょう。そのきっかけは多様です。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と、イエスの元から多くの弟子たちが離れ去っていきました。この箇所の直前で、しるしとしての天からのパンを求めた人々に対して、イエスは「わたしが命のパンである」と宣言されました。人々にとっては「思てたんとちがう」答えだったのでしょう。思い描いていたメシア像とは随分と異なっていた、これは人々にとって大きな躓きのきっかけだったことを想像します。しかし、イエスはその身をパンとして人々に与えられ、生ける者としてくださる方であるということが聖書を通して明らかにされています。
福音書の御言葉の最後では「その中の一人は悪魔だ」と、イスカリオテのユダがイエスを裏切ることを不気味な響きの言葉をもって予告されていますが、多くの弟子たちの離反に続いてイエスは残った弟子たちに語りかけます。「あなたがたも離れていきたいか」と。
その身を裂かれることさえ厭わず、歩みを進められるイエス。このイエスをわたしたちのために与えられた神の業と神の愛に触れた私たちはいかに応答するのでしょうか。
礼拝と音楽」より

週    句

鋤に手をかけてから後ろを顧みるものは、神の国にふさわしくない。
ルカによる福音書9:62


2020.03.17(日)の礼拝の週報

11│2020年03月08日 降誕5 メシアへの信仰

週    句

キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマ人への手紙5:8
説  教  「網を降ろして漁をしなさい」:西原 寿

メシアへの信仰
列王下6:8~17、エフェソ5:6~14、ヨハ9:13~41、詩18:26~35。
ヨハネによる福音書9:39
39イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えないものは見えるようになり、見えるものは見えないようになる。」

名前さえも記されない目が不自由であった一人の人。「生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」。弟子たちのあまりに無神経な問いですが、おそらくこれまでの人生で何度もこのような言葉を投げかけられ傷ついてきたことでしょう。しかしイエスは「罪」の故であるというような視線をこの人に投げかけません。「神の業がこの人に現れるため」というイエスの言葉は、「何かがあったはずだ」という過去への関心ではなく、現在から未来への関心、新しい人生の道が開けていくというようにという視点の転換をもたらすものとして語られていきます。
こうしてイエスの癒しを受け、この人は変えられていくのですが、彼には別の過酷な歩みが待ち構えています。この出来事をよく思わない人々によって両親との関係は壊され、さらには詰問され追放という憂き目にも遭わされていくのです。この迫害の様はヨハネの時代の教会の状況にもなぞらえても言われていますが、凝り固まった価値観から脱却しない人々の偏狭な姿勢は、今日の世界の状況(当然教会も!)や現実を浮き彫りにしているようでもあります。
しかしこの人は怯まず、宗教指導者たちにかえって教える言葉さえ語るのです。一人の人が癒される出来事そのものもそうですが、イエスに出会ったというこのことが、癒しを越えて人が変えられていく、そして「主よ、信じます」との信仰が告白されていく様に、わたしたちはもう一つの奇跡をみるのではないでしょうか。「礼拝と音楽」より

2020.03.08(日)の礼拝の週報

10│2020年03月01日 降誕6 荒れ野の誘惑

週    句

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
Ⅰヨハネの手紙 3:8b
説  教  「イエスさまもまた試みを受けられた」:井東 元

荒れ野の誘惑
出エジプト17:3~7、ヘブ4:12~16、マタ4:1~11、詩91:1~13。

マタイによる福音書4:4
4イエスはお応えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

信仰の歩みとは、この世の誘惑や試みから遠ざけられたところに身を置くとか、神がそれらをすべて遠ざけてくださるという事を意味しません。むしろ、神の御前に自らの弱さに幾度となく気づかされ、うち砕かれ、悔い改めて新たに歩み出そうとすることの繰り返しと言えます。その意味では「自分は大丈夫」と自信満々に生きるのではなく、誘惑渦巻く世にあっていかに主を愛し、主に仕え生きるのかという問いの繰り返しの中で生きるということでしょう。
荒れ野で出エジプトの民がことあるごとに不平をぶちまけたように、私たちの信仰はいとも簡単に揺らぎ、心が神から離れさえします。しかし、誘惑を受けられた主イエスが共に歩んでくださるとの知らせの中で、私たちの歩みはたどたどしいながらも確かにされていきます。そして主が誘惑の言葉を退けられた際に聖書の引用をされたことから、日々聖書の御言葉に聞く者としての私たちの歩みが整えられていくのではないでしょうか。
あわせて、この日本の1年の歩みを振り返り、十戒第一戒の言葉が問うことの意味も考え、神でないものを神とする動きに抗い、「ただ主に仕える」キリスト者としての歩みを心するものでありたいと思います。                    「礼拝と音楽」より

2020.03.08(日)の礼拝の週報