11│2022年03月13日 復活前5 悪と戦うキリスト

週 句 杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
    聖書 マルコ14章23節
説 教 「そんな聖書なんていやだ」高橋牧師
    聖書 マルコ12章18-27

「なお十字架は輝けり」
 先日行われた同宗連総会後に開かれた記念講演会で、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と人間の尊厳と平等をうたった、100年前の水平社創立宣言(1922年3月)の言葉に胸を打たれました。この宣言における「熱」とは、人と人とが触れ合う人間の暖かさのことを指しているそうです。それは人間どうしの分断に対する抵抗でもありました。
 今でもなおさまざまな力によって、分断は続いているばかりか、新たに生み出され続けてさえいます。日本バプテスト連盟現地支援委員会による「東日本大震災から11年を数えての祈り」にも、地震災害だけでなく原発事故をはじめとした人災による分断や差別への抵抗があります。
しかし主は、こうした混沌のすべての地にあって、「光あれ」と叫ばれます。「『光あれ。』こうして、光があった」という圧倒的な創造の業に、私たちは希望を置きます。主よ、どうかこの混沌の地に生きる私たちの只中に、光を創造してください。主にある光が、すべての人を照らし、温めてくださいますように。そして、十字架で苦難を負い、復活された主イエスの寄り添いと慰めが、すべての命と共にありますように。―2022年3月11日(全文は教会に掲示)
 この祈りを共にしつつ、また私は当時東北に住む大学生のひとりだった者として大変大きな希望を与えられた聖歌397番「遠き国や」の歌詞を思い起こします。(残念ながら新生讃美歌には掲載がないのですが)
遠き国や海の果て いずこに住む民も見よ なぐさめもて変わらざる 主の十字架は輝けり慰めもて汝が為に 慰めもて我が為に 揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝やけり
 十字架と復活は、私たちの主イエスの暖かさを私たちに注ぎ続け、その愛は決して尽きることがないのです。
キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(コリントの信徒への手紙一15章14節)

2022.03.09(日)の礼拝の週報

10│2022年03月06日 復活前6 荒れ野の誘惑

週 句 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
    聖書 マルコ12章27節
説 教 「おいしゅうなれ!」 高橋牧師
    聖書 マルコ11章12~14、20~26

「山の向こうには海がある」
イエス様はおっしゃいました。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
 エルサレムにやって来たイエス様と弟子たちの眼前にはオリブ山があったのでしょう。古くからオリーブ畑が広がるその山の頂からは、エルサレム市街だけでなく、その向こう側にある死海がよく見えるのだそうです。いちじくやオリーブ、(そして、ぶどう)は、いずれも旧約聖書の時代からイスラエルを象徴する大切な植物でした。また彼らにとって「山」は、モーセを思い起こさせるものでもありました。モーセは出エジプトの終わりに、山の頂で約束の地を見たのです。モーセ自身はそこに入ることが叶いませんでしたが、彼は主の約束を信じて天に召されていったのです。私たちには少々難解な今回のいちじくのたとえは、ここに挙げられた事柄を前提に語られており、きっと聖書の世界の人たちにとっては「なるほど!」と思わせるものだったことでしょう。死海にたとえられた「祈り求めるもの」=主の約束の成就は、今は見えないけれども必ずオリブ山の向こうに存在しているのです。実は、この文章で一番重きが置かれるのは「少しも疑わない」であると言えます。それはモーセが立っていた信仰であり、20世紀のキング牧師が到達した視座でもあります。
私はただ神のご意志を実現したいのです。神は、私が山に登るのを許されました。私は山の向こうに約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒にそこにたどり着けないかもしれない。しかし、今夜、皆さんにわかって欲しい。私たちは、ひとつの民として必ずや約束の地に到達するということを。だから、今夜、私は幸せです。私は何も心配することはなく、誰をも恐れてはいないのです。私の眼は、神の再臨の栄光をみたのです。―キング牧師
 私たちの目の前に山があるでしょうか。その向こう側に何を見るでしょうか。

2022.03.03(日)の礼拝の週報

09│2022年02月27日 降誕節10 奇跡を行うキリスト

週 句 わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。
    聖書 マルコ11章17節
説 教 「ものを言わせない霊、出て行け!」 高橋周也
    聖書 マルコ9章14~29

「今日神の声を聞くならば」
世の中や私たちの人生には、人間の知恵や洞察だけでは太刀打ちできない課題があります。弟子たちと律法学者が大勢の群衆に取り囲まれて議論していた話のテーマは、霊に取りつかれたという子どものことでした。弟子たちは「悪霊を追い出す権能」を与えられた(3章14~15節)はずだったのに、その子の抱える問題を解決できなかったのでした。なぜならその種のものは「祈りによらなければ決して追い出すことはできない」ものだったからです。
 ここでイエス様の言動に「祈り」とは何かということが凝縮されています。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」―イエス様の祈りとは、この子どもの父親を信仰に目覚めさせ、霊を??りつけ、この子どもの手を取って起こすことでした。この子どもは、イエス様の祈りによって立ち上がることができたのです。
さて当時のユダヤ教において、病からの立ち上がり=復活は、古い生命の危機を新しい生命によって克服することだと捉えられていました。復活の主に手を取って起こしていただくことによって、人は新しい生命を得て生きるのです。
 今日、私たちに向かって、釘痕のついた主の手が差し出されています。御言葉をきくというのはそういうことです。聖書のいう信仰とは、差し出された主の手を握り返すことです。私たちを受け入れてくださる主との関係性に飛び込むこととも言えます。そういう意味で単に「信じる」とか「願う」ということとは異なります。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
祈る者の姿勢は、神様の時をじっと待つだけではありません。こちらの方から神様に呼びかけ応答を乞うのです。そして、「霊を叱る」ということに象徴されているように、その課題に向き合い関わり続け、どんなに多くの者が傍観していても祈っている者だけは、仲間として寄り添い行動するのです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ4,12)

2022.02.24(日)の礼拝の週報

08│2022年02月20日 降誕節9 いやすキリスト

週 句 信じます。信仰のないわたしをお助けください。
    聖書 マルコ 9章24節
説 教 「あなたはどう思うのか」 高橋周也
    聖書 マルコ8章27~38節

「神のこと=現実、人のこと=幻」
イエス様は、これまでのガリラヤでの活動に区切りをつけて、エルサレムに入るという新しい段階の始まりにあたって、十字架と復活についてお教えになりました(受難予告)。まさにその語りの直前に、イエス様に対して「あなたはメシア(キリスト)です」と信仰告白したはずのペトロは、それに対して主を諌(いさ)めた(=叱(しか)った/激しく拒絶した)のでした。多くの苦しみを受け、排斥され、殺されるとは言語道断と憤ったのでしょう。ペトロの思っていたメシア像とは、イスラエルをローマの支配から解放してくれる(そして、世界を手に入れるような)政治的支配者、英雄的存在であったことでしょう。主の言葉は、それとはあまりにも異なっていたのです。そのペトロに対してイエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、ペトロをお??りになりました(=諫めた/激しく拒絶した)。
 私たちがもしこのやり取りを十字架以前に見聞きしていたら、果たしてイエス様とペトロのどちらが正しく常識的であると感じたでしょう。誰が当時の世界最大の「恥」である十字架におかかりになる「救い主」を想像し得たでしょうか。その主の死こそが勝利であると誰が言い得たでしょうか。おそらくペトロに軍配が上がったはずです。もちろん一介の地方出身の若者がペトロの想像したような支配者になることもまた壮大な夢ですが、少なくとも「十字架の主」よりは現実的だったでしょうから。
 しかし、私たちはこの神の歴史において、そのどちらが神のなされた業であるかを知っています。「神のこと」が現実になり、「人のこと」は幻に終わったのです。実は「人のこと」はいつも幻(非現実的)です。主は、主の言葉を恥じる(=死に追いやる)力を打ち破られました。今日の私たちが真の人間性を回復し生きるためです。
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

2022.02.17(日)の礼拝の週報

07│2022年02月13日 降誕節8 教えるキリスト

週 句 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
    聖書 マルコ8章29節
説 教 「すべての人に言うのだ」高橋牧師
    聖書 マルコ13章32~37

「誰よりも待ち望む神」
イエス様は終末について語られる際、イエス様はご自分を「旅に出る人」「家の主人」に、キリストの弟子である私たちを「門番」や「僕たち」に、それぞれたとえています。私たちには割り当てられた「仕事」や「責任」があると言うのです。そして、終わりの日までを生きる私たちへの勧めとして「目を覚ましていなさい」と何度も繰り返し強調なさいました。しかもすべての人に伝えるように命じられました。それは、私たちの誰もが知らず知らずのうちに「眠ってしまう」存在だからではないでしょうか。そんなことが起こっては残念です。教会であれ個々人であれ、今日私たちが存在していることは、そのこと自体が主のご意志によるものだからです。背後にそれを意識するならば、つまり私たちがどんなに些細と感じる事柄や存在も、神様の目にはこの上なく大きなことで、つまらない物事など何一つないのです。
とはいえ私たちに何か「仕事」や「責任」があるとは、ノルマを課されているようで重荷に感じる方もおられるでしょうか。確かに人間同士の関係であれば、これらの言葉は人を監理し強制力を持つようなところがあります。しかし、主は、徹底的に愛情と信頼に基づいて本日の箇所を語っているのであり、私たちが「その日、その時」に至るまで、どのように自分の命を使って生きるのか。与えられた自由のうちに、人が何をしようとするか、それによってどんな出来事が起こるかを、主は心底楽しみにしておられるのです。
私たちの先人である使徒パウロは、喜びをもってその主の心に応答しました。目を覚まして生きる人は前を向いて生きるのです。
「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3章/協会共同訳)              

2022.02.10(日)の礼拝の週報

06│2022年02月06日 降誕節7 たとえで語るキリスト

週 句 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
    聖書 マルコ13章32節
説 教 「まず、食べさせなさい」高橋周也牧師 
    聖書 マルコ7章24-30

「異邦人をも家族に」
仕事の都合で東京の他派の教会へ通っていた頃、ある印象的な新来者との出会いがあります。礼拝後の昼食に、その方がおっしゃいました。「ここの教会は礼拝に出ないとお昼を食べさせてもらえないんですね・・・」
実はそこからそう遠くない所に毎週のように炊き出しをしている教会があり、生活に困窮しておられたその方は、教会に来れば何か食べさせてもらえるだろうと思っていたようでした。受付で食事について尋ねたところ、どうやら大変親切に「礼拝の後に愛餐会をしていますよ。ひとり200円です」と案内されたらしいのです。返事をする間もなく聖書と賛美歌を押しつけられてはもはや断り切れず、仕方なく座っていましたとおっしゃいました。
このミスマッチのエピソードから考えられることはいろいろあると思うのですが、一般的に教会は、礼拝を経由しないと入りにくい状態になっているということは、ひとつ言えそうです。
ところで、ある本では日本のお寺を二階建て構造と分析しています。1Fが先祖教(檀家)で2Fが仏道(生者のための活動/地域への奉仕など)としたうえで、これまで日本のお寺は1Fの経済で2Fを回して来たけれども、1Fが高齢化などの要因で困窮し、2Fの活動に支障をきたしていると分析しています。かつてのイエ制度とは異なるあり方で、けれどもつながりやキズナが求められている現代日本社会にあっては2Fの機能がより求められている。けれども、玄関は1Fにしかないので、お寺の敷居は高いというのです。だから問題は、直接2Fにつながる外階段をいかに設けるかである、と指摘しています。教会にも似たようなところがありそうです。
さて、イエス様ははじめのうちギリシア人(ユダヤ人以外の異教徒)に対して門戸を開いてはいませんでした。しかしここでの対話を経て、この女性は福音書に記録された最初の異邦人となりました。主の家には、もはや律法や出生主義といったユダヤ教に存在した「1F」は存在しないのです。

2022.02.02(日)の礼拝の週報

05│2022年01月30日 降誕節6 新しい神殿

週 句 主は、従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
    聖書 詩編34編16節
説 教 「イエスとサマリアの女」草苅隆幸
    聖書 ヨハネ4:1~27

「まことの礼拝者」 高橋周也 牧師
 サマリアの女性は生きることを諦めませんでした。正午ごろに来たのはおそらく人目を避けるためですが、そこまでしてでも水を汲みにやって来のです。また、犬猿の仲であるユダヤ人の、しかも見知らぬ男性から話しかけられたのに、目を反らし黙って逃げてしまったりなどせずに、きちんと応答したのは立派です。この時代にはレビラート婚(夫が亡くなると夫の弟の嫁にさせられる制度)や男性の都合で一方的に離婚できることが普通であり、かつて5人の夫がいたことは、彼女のこれまでの人生がいかに苦労の多いものだったか、どれだけその状況が彼女を苦しめてきたかを示しています。
 イエス様はこの女性とであい、対話をなさいました。イエス様は現在と過去を含めた彼女のありのままを受け止め、まことの礼拝へと招きます。これがサマリアの女性を潤し、それは大きな喜びとなって、彼女はなお厳しい人間関係の中に置かれつつも(42節)、人々に主を証する者へと変えられました(29節)。
イエス様は、主とのであいの「今」、時間や祭儀(「この山」=ゲリジム山やエルサレムの神殿)に縛られない礼拝(21節)、「わたしである」とご自身を示してくださるイエス様への礼拝(26節)を教えてくださいました。
 さて本当にたまにですが、礼拝以外の時間にこの教会を訪ねて来たり電話をくださったりする方々がいます。あるいは最近残念ながら何度か教会のフェンスなど破壊行為の被害にも遭いました。(悲しい思いになりますが、そういう人たちは深いところに神への期待があってその裏返しなのではないかと思います)ときに牧師の目すら避けて、水を求めている人がいます。実は、私たち一人ひとりの周りにもサマリアの女性がいるのではないでしょうか。
私たちはこれからも生ける水(生きた御言葉と聖霊)による喜びを求め続けて参りましょう。まことの礼拝こそまことの伝道なのです。私たちは生ける水を頂くことによって、イエス様を伝えるということをやめないのです。

週 句 主は、従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
聖書 詩編34編16節


2022.01.28(日)の礼拝の週報

04│2022年01月23日 降誕節5 宣教の開始

週 句 そして、パンの屑(くず)と魚の残りを集めると、十二の籠(かご)にいっぱいになった。
    聖書 マルコによる福音書6章43節
説 教 「イエスの家族」 高橋周也 牧師
    聖書 マルコ3章31~35節

「神の御心を行う人」
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコによる福音書3章33~35節)
 本日の聖書箇所は直前の20~30節と直接つながっており、そこにはイエス様が食事をする暇もないほど、家で群衆のために力を尽くしておられたことが記されています。そのようすをを見て、イエス様の身内の者たちは大変心配しました。イエス様はある人々からは、「あの男は気が変になっている(=我を忘れている)」と言われていたのでした。そこで「外」から「人をやって」イエスを呼び、そこで取り押さえて奇行を止めるよう諫めようとしていた母や兄弟たちのことを知り、主は冒頭のようにおっしゃいました。
「神の御心を行う人」とは、いったいどんな人のことを指しているのでしょうか。ここに集まっていた「大勢の人々」は、その前後関係から、単に数がたくさんであっただけではなく、社会から疎外され難しい立場に置かれたような人々、多種多様な悩みや問題を抱えた人々であったことが窺えます。主が食事をする暇もないことに気を遣うわけでもなく、ただ周りに座って助けを待っていた人たちを見回して、主はこの人たちこそ自分の真の家族であると言い表したのです。人々は衝撃をもってこの言葉を聞いたことでしょう。この人たちは上述の理由から、おそらく他の人々からは兄弟・姉妹とか母とは呼ばれるはずのない人たち、そういう立場に追い込まれた者たちであったと考えられます。主はそういう人たちを「群衆」としてではなく、「家族」として扱われたばかりか、「主の御心を行う人」と呼んだのです。
「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら。」(詩編84編5節)
「私は主の御心によって生かされているのだ」と知っている者たちが、神の似姿として世界のなかで主を証しするのです。

2022.01.19(日)の礼拝の週報

03│2022年01月16日 降誕節4 最初の弟子たち

週 句 神の御心を行う人こそ わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ
    聖書 マルコによる福音書3章35節
説 教 「この食卓に招かれたのはあなた」高橋周也 牧師
    聖書 マルコ2章13~17節

「この食卓に招かれたのはあなた」
 イエス様は漁師に次いで徴税人レビを弟子になさいました。徴税人とは、文字通り税金を集める職業のことですが、ひどく軽蔑された者たちでした。ローマ帝国の支配下にあったユダヤの地におい てその仕事をすることは、いわば自民族の「敵」のために仕えるという意味にもなりますし、彼ら自身の働き方にも嫌われる原因がありました。実際にローマに納める額よりも多くカネを集めて差額  分を懐に入れて私腹を肥やす中抜き業者でもあったからです。そういう存在は、特にファリサイ派の律法学者と聖書に表現されているような人たちからは「罪人」と見なされ、毛嫌いされていたのでした。ですからレビが弟子になることは、到底、理解され得ることではありませんでした。
 さて辞書をひいてみますと、イエス様の「わたしに従いなさい」(14節)とは、もちろんそこに主従関係や師弟関係が生じて「あとについて行く」のですが、同時に「仲間になる」という意味合いを含んでいるようです。食事をともにすることは、当時の習慣では相手と心ひとつに親しく交わることを意味していますから、イエス様の呼びかけに対して、早速仲間となってそれに喜んで応えているレビの姿が目に浮かぶようです。レビはこれまでとは違う価値観に生きるようになったことでしょう。座る場所も孤独な収税所から大勢の人々のなかへと変わっていったのです。
 ところで、このレビの家での食卓の記事はルカによる福音書にも記されているのですが、マルコによる福音書の書き方と異なっているところがあります。このレビの家での食事はルカでは一回きり、レビがイエス様に招かれて、それに応えて催した宴会なのですが、実は本日の箇所のマルコでは、「いつものように」(15節)というニュアンスで描かれているのです。実際にどうだったのかという疑問は脇においてマルコの証言に耳をかたむけるならば、レビの家は、イエス様がいつも来てくださるので、寄る辺ない人々の居場所となったのでした。

2022.01.13(日)の礼拝の週報

02│2022年01月09日 降誕節3 イエスの洗礼

週 句 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
    聖書 マルコ2章17節
説 教「時は満ちた!」  高橋牧師
    聖書  マルコ1章14~20節

「“とらえられて”始まる」
 「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエス・キリストの言葉は、新しい時代の到来を宣言しています。イエス様の宣教の本格的なスタートです。しかし、物事の始まりに対して通常イメージされるような華々しさはここには描かれていません。この始まりには、民衆に罪の赦しと悔い改めを説き、水によるバプテスマ(洗礼)を授けていたヨハネが捕らえられたという事件がありました。
 イエス様が弟子たちをお選びになる間、ヨハネはずっと獄中におり、後にちょうど12人の弟子たちが派遣されるあたりのタイミングで、この人は王に命を奪われることになるのです。
 昨年2月に始まったミャンマーにおけるクーデターは、いまだに留まるところを知りません。このかんに、人々の支援にあたっていた幾名ものバプテスト教会の牧師やメンバーたちが、国軍に目をつけられたがために、あるいは戦乱によって、犠牲となった報せを何度も耳にしてきました。心痛み、ご家族や当地の人々の慰めを祈る傍ら、それほど命を賭して神と隣人に仕える覚悟が自分にはあるのだろうか(実は、それは自分の望む生き方ではないのではないか?)ということをいつも問われる思いがいたします。
 イエス様は仲間が捕らえられ刑死していく、そのような状況に対して、心を痛められなかったはずがありません。イエス様は、どのようなお心でガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのでしょう。明るく意気揚々としていたでしょうか…。
そのような悲惨な時にも関わらず、主は、時は満たされているというのです。そこに神様の舞台は整えられていると言うのです。
 私たちの世界には、神の創造の秩序を破壊しようとする悪と罪の力がいまだに強く働いており、その中をもがき生きる私たちです。懸命に生きているつもりでいながら、いつの間にか自分自身の蒔いた種が降りかかってくることさえあります。召命は、そんな世界の日常に生きる弟子たちが、イエス様に弟子として招かれた出来事です。

2022.01.06(日)の礼拝の週報