21│2021年05月16日 復活7 キリストの昇天

週句 

わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネ福音書12章32節
説 教 「もうそれでよい」 牧師 高橋周也
     ルカによる福音書22章44~53節

「誰が、なぜ、裏切ったのか」 
最近、故藤澤一清牧師の遺稿集がまとめられました。かつて私が社会人時代に花小金井教会にいた頃、既に牧師を引退されていましたが、教会生活を共にした方です。岡山への赴任が決まってから、先生が当教会のバプテスマ第1号の方であったことを知りました。初代牧師・故藤澤?牧師のご子息として、操山高校、岡山大学での学生時代を当地で過ごされました。お連れ合いも、この近所にご実家のある当教会の元メンバーです。
第二次世界大戦の時代、牧師家庭だったためにスパイの子と呼ばれ非国民扱いされた国民学校時代、長崎で被爆者となったこと、当時の教会のことなどが、遺稿集に多く綴られています。どんなにお辛い経験だったのだろうと思います。 
しかし、その中にこのような言葉があったことに、私は驚きました。
考えてみるに、私は自分の人生を無意識のうちに被害者意識でとらえてきたのかもしれない。
別なところにはこのようにも書かれています。
戦争の被害者はキリスト者を含めた日本の民衆でした。ところが、そのキリスト者を含めた日本の民衆が近隣アジアの民衆に対する加害者でもありました。
 岡山教会から西南神学部に進み牧師となった一清先生は、ある時このことに気がついて聖書の物語を「加害者」として読んだときに、聖書が人生の教科書以上のものになったと語ります。
そういうつもりでユダの物語を読む時、私たちはユダが単に「裏切った」わけではないと気がつきます。ですがそれは決して悪の正当化ではありません。

2021.05.12(日)の礼拝の週報

20│2021年05月09日 復活6 イエスの祈り

週    句

神をたたえよ。神はわたしの祈りを退(しりぞ)けることなく慈(いつく)しみを拒(こば)まれませんでした。
詩編66編20節
説  教  「人間にこだわり抜く神」

イエスの祈り
列王上18:20~39,ヘブ7:11~25,マタイ6:1~15,詩編95:1~11

かつてNew English Bible訳〔英国・1961年〕は、マタイによる福音書6章1節前半をこのように訳していたそうです。

“Not to make a show of your religion before men.”
(人前で自分の宗教を見世物にするな。)

新共同訳「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」の方がはるかに原文に近いけれども、上記は味のある翻訳と感じます。“見てもらうtheath?nai<theaomai(劇場「シアター」の語源)”ために、“偽善者hupokrites(古代ギリシアでは「舞台俳優」という意味でもあった)”がする「善行」は、もはやそれは信仰ではなくドラマや演劇のようなものだと、イエス様は皮肉ったのでしょう。
「人からほめられようと・・・自分の前でラッパを吹き鳴らす」ことについては、おそらく当時のユダヤ教の会堂における習慣が反映されています。聖書学者シュラッターによれば、高額献金者は礼拝において特別にラビ(教職者)に招き寄せられ、執事がラッパを吹いてその献金を神様に報告するということが行われていたらしいのです(=「吹聴」)。ちなみに、「報いを受ける」ことに対しては商業用語が使われているので、今の時代にレシートをもらうのに近い感覚です。その「報い」は受け取れば清算完了ですから、ふつうはもう追加請求権なしです。神様からもっと大きな報いがあるとしても、人間によるもっと安くて小さな報いで終わってしまうのです。取引だとすれば大損です。ユダヤ人らしい表現でおもしろいなあと思います。
今日のイエス様のお言葉は問いかけています。善行、施しや献金、祈りは、本来相手あってのものであるのに、あなたにとってそれらのことが自分のためだけのものになっていないか?と

2021.05.06(日)の礼拝の週報

19│2021年05月02日 復活5 父への道

週    句

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編98:1
説  教  「エゴ―・エイミという安心」 牧師

父への道
サム下1:17~2:7、Iヨハネ2:1~11、ヨハネ14:1~11、詩編98:1~9

今日の聖書の言葉は、いわゆる「最後の晩餐」での一幕です。本日は久しぶりに、この特別な食卓を記念した「主の晩餐式」を行います。感染防止対策のために、これまで岡山教会が大切にしてきたやり方であっても、一部変更しているところがあります。例えば、本日配餐されるパンはあらかじめ割かれています。けれども、晩餐式の本質が変わってしまったわけではありません。バプテスト教会の主の晩餐式は、「想起」を大切に守ってきました。ですから、これからもずっと私たちは「ひとつのパン」「ひとつの杯」であることを大切に覚えて、分かち合いを続けましょう。そして、このコロナ下で、どのようにしたら一番本質を表すことができるのか、私たちの教会なりの表現を祈り求め続けたいところです。主の晩餐式は教会の業ですから、どうぞ引き続き皆様のお考えをお聞かせください。
今日の御言葉は、「神を信じること」と「心を騒がせないこと」がセットになっています。ここで「騒がせる」=ギリシア語の単語「タラッソー」は、もともと水が掻き立てられるような状態をイメージした言葉で、特にヨハネによる福音書では、イエス様自身の心の動揺を表すために使われてきた言葉でした。イエス様は、例えば先週のラザロの死にタラッソーし、弟子たちにご自分の死を告げるとき、そして裏切りの予告をした時にも、タラッソーしました。ところがこの単語は、この14章で初めて弟子たちに向けてのメッセージとして使われます。

この?き回される世界のなかで、今日の主の晩餐はどんな味がするのでしょうか・・・。

2021.04.28(日)の礼拝の週報

18│2021年04月25日 復活4 イエスは復活また命

週    句

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:17
説  教  「死に涙し、復活を告げる人」 :高橋周也

イエスは復活また命
ネヘミヤ2:1~18、Ⅰコリ12:3~13、ヨハネ11:17~27、詩編136:1~9。

兄弟ラザロの死に対してマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。しばしばこの箇所に対する解説書では、「これは当時のイスラエルの人々の考え方で、彼女はそれを口にしたのだ」と書かれています。確かにその通りなのですが、ただし書きが必要だと思います。なぜなら、当時から現代に至るまで、復活信仰の告白は決して当たり前とは言えないからです。
20世紀の神学者クルマンは『霊魂の不滅か、死者の復活か』を著した際、その出版のきっかけとなった出来事について語っています。それは彼が、新約聖書の死後の人間に対する教えである「永遠の生命」は、「キリストを信じる者にとって、人間の魂は本質的に不滅となる」のではなく、「イエス・キリストの死と復活によって、聖霊が人間の魂を復活の生命に目覚めせる」という意味であり、その2つは相容れないものであると明言したことでした。
前者はギリシア哲学的な思想で、後者が最初のキリスト者たちの信仰なのですが、後者を主張したクルマンに対して、当時ヨーロッパ中のキリスト者たちから非難と失望の声があがりました。たくさんある彼に対する反対の言葉を無理矢理要約すれば、「霊魂の不滅なら信じられるが、『死んでからだがよみがえる』などということは、到底受け入れられない」というものでした。
 しかしクルマンの言った通り、確かに霊肉共に人は死にます。それは、復活の希望をもって眠りにつくということです。大切なことは、そこにおいてもなおイエス・キリストが共にいてくださることです。そして私たちも、この地上にいながら既に、よみがえりの命、永遠の生命を生きることができるのです。
どんなふうに?―今日のラザロの箇所は、それを証しています。

2021.04.23(日)の礼拝の週報

17│2021年04月18日 復活3 新しい命

週    句

私は良い羊飼いである。私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書10:11a、27~28a
説  教  「どん底に『しるし』あり」 :高橋周也

新しい命
列王上17:8~24、コロ3:1~11、マタイ12:38~42、詩編116:1~14。

新共同訳聖書では本日の聖書箇所を「人々はしるしを欲しがる」と題しています。律法学者とファリサイ派の人々はイエス様に「しるし<単数形>」を見せるように願いました。つまり彼らは、他の人々になさったような奇跡やいやしのわざなどといった「しるし<複数形>」というよりも、もっと「これぞ確固たる、明瞭な、疑いようのない証拠」を求めたのです。もちろんこの問いかけには、イエス様を試みようという意図もあったでしょうが、その要求はもともと彼らなりの切実な願いだったはずです。
 今日のイエス様のお話しは、旧約聖書に記された出来事を前提に語られています。かつて、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて、断食し荒布をまとい、灰の中に座り、悔い改めました(ヨナ書3章)。また、南の国の女王は当時地の果てと思われていたほど遠いアラビアのシェバから、ソロモンの知恵を求め遠路エルサレムにやって来ました。そして、ソロモンの知恵に感嘆し、神をほめたたえたのです(列王記上10章)。イエス様は、神の言葉に強く憧れた女王や、あるいは命をかけて、神の言葉を聞こう生きようとしたニネベの人々を挙げることによって、律法学者やファリサイ派の人々に対して、より本質的なところ(しるし<単数形>)に気づかせようとなさるのです。
さて、律法学者やファリサイ派の人々のこの求めは、私たちには無縁でしょうか?確かに、信仰において「形あるもの」に過度に依存するのは問題かもしれませんが、そもそも人間は「しるし」を求めるものなのではないでしょうか。イエス様は今日の聖書の箇所で、人間が「しるし」を求める心を否定したわけではありません。人間が「しるし」ではないものを「しるし」としてしまうことについて嘆いておられるのです。

2021.04.23(日)の礼拝の週報

16│2021年04月11日 復活2 復活顕現

週    句

神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与ええて下さった。
ペトロの手紙Ⅰ 1:3
説  教  「裂かれたまま、結ばれる」 :高橋周也

復活顕現
イザ65:17?25、使徒13:26~31、マタ28:11~15、詩16:5~11。

本日の聖書日課で、イエス様の復活を隠蔽するため、祭司長たち長老たちが、番兵たちに多額の金を与えたと記されています (マタイ28:11-15)。この番兵たちは、「婦人たち」と同様、イエス様の復活にであった証人たちでした。祭司長や律法学者たちは、その証を最初に聞いた者たちでした。けれどもカネや権力のために、祭司長や律法学者たちは自らの過ちに向き合うことができず、また、番兵たちはその体験を証することについて妨げられてしまうのです。そういう意味では、「盗み」という言葉を使って言うなら、彼らこそイエス様との出会いを盗まれてしまった者たちなのです。イエス様との関係が裂かれてしまったと表現することもできます。
この祭司長や律法学者たちは、当時の周りの人たちからみれば敬虔で立派なリーダーたちでありました。しかし彼らは「罪人」として描かれています。
また私たちは、キリスト教会が2000年の歴史の中で、多くの取り返しのつかない誤りをたくさん犯してきたことを忘れてはなりません。私たちそれぞれの人生のさまざまな場面においても、同じ事が言えるでしょう。私たちはそれを覆い隠したくなる誘惑にかられるものです。けれどもそういうところに、そもそも最初にイエス様の復活が告げ知らされたということを、やはり私たちは希望としていたいものです。
新卒新任の牧師として、この物語の「罪」の中心が誰であったのかということを肝に銘じたいと思いました。先週、教会員の皆様に按手をしていただきました。どうぞこれからも弱く欠け多いこの小さな者を覚えてお祈りください。祈り合い、本当に大切なものを大切にできる交わりとして、共にこの地で生かされていきたいと願います。

2021.04.23(日)の礼拝の週報

15│2021年04月04日 復活1 キリストの復活

週    句

わたしは一度死んだが、見よ、世々限りなく生きて死と陰府の鍵を持っている。
黙示録1:18
朗読劇 復  活 ~《ガリラヤ》へ行かん~

キリストの復活
イザヤ12:1~6、黙示1:12~18、ヨハ20:1~18、詩編30:2~6。

イースター(復活祭)おめでとうございます。牧師として皆様と共にこの岡山の地で歩みを始めることができる幸いを心から嬉しく喜び感謝します。どうぞよろしくお願いいたします。
私は18歳の時、人生の絶望の渦中に初めて教会を訪れました。その北海道の小さな伝道所(現苫小牧教会)での礼拝後、ある方が私に「祈っていたよ」と言うのです。初対面なのに?―その週の祈祷会ではこう祈られていました。「この街の一人でも多くの人と礼拝ができますように」と。それを聞いて、私はこれまでも誰かから気にかけてもらえていた存在だったのだと知りました。その祈りが私を新しい生き方へと導いてくれたのです。後日、その方は私の生まれた年に、18歳の息子さんを白血病で亡くされていたと知りました。その息子さんは最期までずっと牧師になると言っていたそうです。彼の死によって信仰を得たそのお母さんと、私にとって、彼は牧師です。死を経てなお生きた彼の祈りがそこにあるからです。
さて今日の劇中でペトロの台詞に、「我々には主と共に過ごした日々がある。今それを思い起こすことによって、せめて、主と共にいられるのだ。」とあります。
私たち一人ひとりの今日の命も、1951年から続いてきたこの岡山バプテスト教会の70年も、誰かの祈りや働きの実であることをいつも思い起こしていたいと思います。主イエスにあって思い起こすことは、過去とつながるだけでなく、今日、そして未来へと開かれていくことなのです。今の苦難の時代こそ、「復活」というあの「思い出したくない十字架」が新しく輝く命として私たちに与えられているという、この上ない神の真実を味わう時なのです。期待をもって共に進んで参りましょう。

2021.04.23(日)の礼拝の週報

14│2021年03月28日 復活前1 十字架への道

週    句

人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3:14b、15
説  教  「交わりを生きる」 

十字架への道
哀歌5:15~22、Ⅰコリ1:18~25、マタ27:32~56、詩編118:19~29。
イエスがエルサレムに入られる時、人々は熱狂的に迎え入れます。イエスを担ぎ上げれば長いトンネルからやっと抜け出せる。その喜びが人々を突き動かしていました。ところが、イエスはその期待になかなか応えてくれません。一気に膨張した熱情は一瞬にして醒め、期待は罵倒に一変します。
十字架につけられたイエスを見た人々は、手のひらを返したようにイエスを罵ります(マタイ27:39~40)。もちろん、これまで苦い思いをしてきた祭司長や律法学者もイエスを侮辱します(マタイ27:41)。そればかりではありません。同じ立場に置かれているはずの、一緒に十字架につけられている強盗までイエスを罵るのです(マタイ27:44)。
ところが、十字架上のイエスは人々の言葉に一切反応されません。じっと一人で罵声の嵐に耐えておられます。それは何時間も続きます。そしておもむろに「イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』」(マタイ27:46)。詩編22編の言葉でした。確かにここだけを切り取れば、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、この詩は神の助けを求める詩であり、神の助けを喜ぶ詩でもあります。しかし、それを聞く人々には絶望の言葉としか聞こえませんでした。嘆きの詩としてしか受け取れませんでした。人間を取り巻く現実はとても厳しく、救いを実感できないからです。勝手な期待を裏切られたと思っていたからです。
彼らはまだ気づいていません。この十字架こそが救いであることを(1コリント1:18)。人間の目には愚かとしか思えないイエスこそ、「隅の親石」(詩編118:22)であり、救いそのものであることを。人間の思いとは関係なく、十字架は立っています。神は人間の思いとは逆転して、すでに人々を救いへと招かれているのです。
「礼拝と音楽」より

2021.03.29(日)の礼拝の週報

13│2021年03月21日 復活前2 十字架の勝利

週    句

人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書20:28
説  教  「最高の道」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:31~13:13

十字架の勝利
創世25:29~34、ローマ8:1~11、マタイ20:20~28、詩編118:1~9。
「ゼベダイの息子たちの母」が、息子(ヤコブとヨハネ)を引き連れてイエスの前にやってきます。イエスは大切な場面、いつもペトロとヨハネ、ヤコブを伴われました。母親もそのことをわかっていたのでしょう。「二人の息子を特別な立場として扱ってほしい」と願い出ます(マタイ20:21)。親心はわからないでもないですが、もちろんこれは神の御心からかけ離れています。この話を聞いて腹を立てた他の10人の弟子たちも似たり寄ったりです。自分自身の欲望、「肉の欲」に囚われています。空腹を満たすために長子の特権を譲ってしまったエサウと大差ありません(創世25:33)。
神は自分で自分を律することができない弱い人間のために、律法を与えられました。しかし、人間の欲はとどまるところを知りません。神の子を前にしても、人間の序列に囚われています。この強力な、律法では抑えきることのできなかった肉の欲から解放するために、神はイエスを地上に与えられました。人間の価値観を根底から変えるために。
人間や君侯に頼る「人間の序列」を覆して、主のみを避けどころとする「神の序列」へと改めさせるために(詩編118:8~9)。それを表すのが十字架です。十字架は人間の弱さの象徴でしたが、復活を通して神の勝利の象徴へと逆転します。神は十字架と共に肉の欲を退け、新たな命へと招かれます(ローマ8:3)。イエスの十字架への道行きは苦難の道行きであると同時に、私たちを解放する喜びの道行きでもあるのです。
神の序列に生きられたイエスは「仕えられるためではなく仕えるために」地上に来られました(マタイ20:28)。他者からの賞賛を得るためではなく、他者のために何ができるか考え、行うために歩まれました。十字架によって人間の序列から解放された私たちは、このイエスと同じように生きるようにと招かれているのです。
「礼拝と音楽」より

2021.03.17(日)の礼拝の週報

12│2021年03月14日 復活前3 主の変容

週    句

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12:24
説  教  「キリストの体としての教会」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:12~26

主の変容
出エジ24:3~11、Ⅱペト1:16~19、マタ17:1~13、詩編145:1~13。

ペトロを叱責し、再び招かれてから6日後、イエスはペトロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、高い山に登られます(マタイ17:1)。すると、イエスの姿が3人の目の前で変わります。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17:2)。これは神の子としてのしるし、神であることのしるしです。
そもそも、高い山の上は神の領域です。神に選ばれた者しか立ち入ることを許されていませんでした(出エジプト24:11)。しかし、神が選ばれれば、神の威光を垣間見ることができる場所でもありました(出エジプト24:11)。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人が、イエスが神の子であるしるしを、その栄光を目撃することが許されたのは、イエスによって招かれたからです。もちろんそれは、彼らが特別に優秀だったからではありません。ところが、「イエスに選ばれた」ことを内心嬉しく思っていたペトロは、白く輝くイエスとモーセ、エリヤの姿を見て舞い上がります。「仮小屋を三つ建てましょう」(マタイ17:4)と、イエスの思いもそっちのけで独りよがりに喜びを表そうとします。結果は言わずもがな、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)と、本質に立ち帰らされるのです。
ペトロたちが招かれたのは、イエスが神の子であることを再確認するため、そして、神の威光を証しするためです。立ち帰ったペトロはその生涯をイエスの栄光を、神の威光を語り続けるために献げます(2ペテロ1:16、詩編145:5)。ペトロは自分の後に続く者が救いの御業を語り継ぎ、喜び歌うことを期待して語り続けました(詩編145:7)。
私たちもペトロに期待されている一人です。この地上に主の栄光を証しするために招かれた一人なのです。
「礼拝と音楽」より

2021.03.17(日)の礼拝の週報