12│2018年03月18日 復活前2 十字架の勝利

週    句

人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書 20:28
説  教    「この杯/このバプテスマ」:梅田 環

十字架の勝利
哀3:18~33、ロマ5:1~11、マコ10:32~45、詩22:25~32。

「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」
マルコによる福音書 10:38c

 「仕える」という言葉は、元々は食卓の給仕を意味する。奴隷の仕事。が、給仕には、食事を作る者と主人との間をつなぐ役割もある。
 イエスは、自分はこの世に仕えるために来た、と言われる。神と人とをつなぐ給仕人としてイエスは来られた、しかし、イエスは支配者、権力者、金持ちに仕えたのではない。イエスが仕えたのは、共同体の隅や、外に置かれた人々だった。彼らの声に耳を傾ける者はおらず、彼らの痛みに共感する者も、彼らのために神に祈る者もいなかった。イエスはそのような人々のもとを訪れ、神の国の到来を告げ、癒し、慰め、彼らのために祈った。弟子たちは、仕える生き方をしているイエスのすぐそばにいたにもかかわらず、自分自身がどのように生きるべきであるかを、理解していなかった。
 ヤコブとヨハネは権力を欲する。二人に腹を立てた他の弟子たちも、内心では、同じことを考え、出し抜かれたことへの不快感をあらわにする。支配欲は、わたしたちの誰もが持っているものであろう。支配者に虐げられているものは、自分より弱い者を見つけて、支配しようとする。それがわたしたちの現実! より良く生きるためには、権力が必要だ、そうでなければ生き残ることはできない(!)そう考えてはいないだろうか。それが常識となっている今、神と人、人と人との関係は破綻している。そのいのちの現場にイエスは来られ、神と人、人と人とをつなぐ給仕者として生きられた。
 イエスは〈新しい生き方を始めよう!〉と呼びかけている。この十字架の勝利の道に、わたしたちは伴うことができるだろうか?

2018.03.18(日)の礼拝の週報

11│2018年03月11日 復活前3 主の変容

週    句

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書 12:24
説  教    「〈これ〉に〈聞け〉!」  :梅田 環

主の変容
出24:12~18、Ⅱコリ4:1~6、マコ9:2~10、詩27:7~14。

すると、雲が現われて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
マルコによる福音書 9:7

 モーセとエリヤに挟まれ、光り輝くイエスの姿を目撃した弟子たちは喜び溢れ、この栄光を永遠に留めおき、自分たちもここに留まりたいと願った。しかし、その光景は長くは続かず、気づけば、いつものみすぼらしいイエスがいるだけであった。
 イエスは神と共にある場「山」に留まろうとはされない。弟子たちは「山」こそ救い主たる神の子にふさわしい場所であり、山を下りるべきではないと考えたのであろう。しかし、イエスは躊躇なく下山する。弟子たちは後ろ髪を引かれつつ、谷へと下る。イエスと共に下りきったところは山上とは全く逆の場所。山上は神のおられる場所、光り輝く場所、あらゆる悩みから解放された場所。一方、地上は、暗闇、病と死、苦しみ、悩み、争い、恐れ、に満ちた場所。下山したイエスを待っているのは、イエスの敵対者たちや苦しみにあえぐ人々である。天から地に下ったイエスの生涯はまさに下り続けるものだった。神の住まいではないと思われていたところに赴き、傷ついたいのちを回復する道を選ばれた。
 地はあらゆるいのちあるものが生きる場所。その地を、神は人間に任された。土地授与には、人々が神からの戒めに従わなければならないとの条件がつけられている。その条件とは、神の祝福を保つということ。東日本大震災より7年目を迎える今日、神のいのちと恵みの管理者であるわたしたちは、どのように生きているだろうか。被造物の呻きと、隣人の声にならない叫びに無関心になり、務めを放棄してはいないだろうか。主に倣い、地を生きるわたしたちになろう!

2018.03.10(日)の礼拝の週報

10│2018年03月04日 復活前4 受難の予告

週    句

鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。
ルカによる福音書 9:62
説  教    「神のこと/人間のこと」 :梅田 環

受難の予告
イザ48:1~8、Ⅱテモ1:8~14、マコ8:27~33、詩31:8~14。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。
マルコによる福音書 8:33

 イエスに対する世間の評判は「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者」など、非常に好意的であり、肯定的です。イエスの内にある神的な力を認めているものでした。そこで、イエスは弟子たちに尋ねます。「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」。ペトロは即座に「メシア!」と答えました。これは、ペトロの信仰告白とも言える場面。彼の答えは正解であるとも言えます。しかし、その直後の彼の言動を見ると、彼の考える「メシア」と、イエスの生き方とにズレが生じていることが分かるでしょう。
 イエスは、ご自分のことを、ペトロの言う「メシア」とは思っていませんでした。「メシア」という言葉には、軍事的・支配的な意味合いが多分に含まれるからです。不正な支配を裁き、王や権力者を処罰し、自らが新しい王となって世を支配する権力者というイメージです。だからこそ、ペトロは、イエスの受難の予告の際、それはメシアにふさわしくない、とイエスを叱るのです。一見、すばらしい信仰告白をしたかのように思われるが、ペトロは目の前のイエスではなく、自分自身が思い描く理想のイエスを追い求めているのです。理想的なメシアは、苦しみを受け、殺されるはずなどない、まして、呪いの十字架で死んでよいはずはない、と、さらに、十字架で殺されるような者を「メシア」と呼ぶなど、神を冒涜することだと考えていた。
 わたしたちもまた、イエスはこうあって欲しいという理想像を押し付けてはいないだろうか。イエスは命じる。「サタンよ、引き下がれ」。ペトロの前に立ちふさがっているのはサタンなのだ。

2018.03.03(日)の礼拝の週報

09│2018年02月25日 復活前5  悪と戦うキリスト

週    句

キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5:8
説  教    「まず強い人を縛り上げ」 :梅田 環

悪と戦うキリスト
エレ2:1~13、エフェ6:10~20、マコ3:20~27、詩18:2~7。

まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。
マルコによる福音書 3:27

 宣教を始めたイエスを捕らえに来たのが家族であったという記述は、衝撃的です。しかも、イエスを心配してのことではない。「取り押さえる」は律法学者たちがイエスを「捕らえた」と言う言葉と同じで、その行動にはイエスを排除したいという思い、殺意さえ窺えます。イエスに対してそれほど強い思いを抱いたのは、家族の目にイエスの生き方が「反家族的」に映ったからです。
 長子の務めを果たすどころか、「気が変になっている」と周囲に囁かれて、家族に迷惑をかけている。世間の規範に反するイエスを理解できない・受け入れられないという戸惑い、家族を混乱させていることへの怒り、周囲にどう思われているかという不安に駆られていたと、想像できます。家族を脅かす存在は排除しなければならない、それが家族としての世間に対する責務であると考え、イエスを取り押さえようとしたのです。
 イエスを十字架にかけた者たちも、イエスの家族と同じ思いでした。イエスの存在はユダヤ民族という家族を脅かすものでした。家族も信仰も家父長的モデルに縛られ、支配と隷属による関係を構築していました。この枠組みを揺さぶり、壊す者、規範を逸脱する者は排除されました。
 イエスは、そのような血肉の争いは滅びを招くもので、そこに救いはない、と語られます。あらゆるものは神の被造物、神の家族であり、そこに上下関係はない。しかし、一方が支配者、他方が奴隷となれば、家族として立ち行かないのです。

2018.03.03(日)の礼拝の週報

08│2018年02月18日 復活前6  荒れ野の誘惑

週    句

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現われたのです。
ヨハネの手紙一 3:8b
説  教    今、手にしているものは :塚田正昭

荒れ野の誘惑
エレ31:27~34、ヘブ2:10~18、マコ1:12~15、詩91:1~13。

四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
マルコによる福音書 1:13

 マルコ福音書には、他の福音書に記されているような、悪魔との対話は一切語られていません。荒れ野で40日間サタンから誘惑を受けている間、「野獣と共におり」、「天使たちが仕えていた」という記述があるだけです。が、この荒れ野での経験こそがイエスの宣教の中核を示しているのです。神の子イエスとサタン、天使と野獣、相反するものが、荒れ野で共生? イエスは、「荒れ野に神はおられない」と宣言するのでもなく、野獣を排除するのでもない。荒れ野に来て、そこに住まわれます。荒れ野は、不毛地帯、いのちを生み出さないし、育てもしない場所、死の場所なのに!
 わたしたちは、自分にとって不都合なもの、邪悪なものを荒れ野に追いやる。わたしたちが最も行きたくない、見たくない場所は、わたしたちの自己中心的な心の象徴かもしれません。その荒れ野にイエスはおられるのです。ここから出発されたイエスの歩みは、荒れ野に追いやられた人々と、荒れ野のような人々の心に寄り添うものでした。
 預言者イザヤは、救い主の誕生を預言する際、このように語りました。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」と(イザ11:6)。荒れ野の野獣とはどんな存在なのでしょうか。わたしたちに危害を加えるもの、恐れを生じさせるもの、わたしたちが理解できないもの。共生など不可能だと決めつけているもの、わたしたちが価値のないものとして見捨てたもの。それらを、イエスは掬い上げ、ここに神が共にいるということを示されました。
 異なるものへの恐れを捨て、出会いを受けとめ、共生を実現しよう!

2018.02.18(日)の礼拝の週報

07│2018年02月11日 降誕節7  奇跡を行うキリスト

週    句

今、わたしたちは、エルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
ルカによる福音書 18:31
説  教   「向こう岸に渡ろう」    :梅田 環

奇跡を行うキリスト
ヨナ1:1~2:1、ヘブ2:1~4、マコ4:35~41、詩125:1~5。

イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。…
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。……
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
マルコによる福音書 4:38、40

 イエスは、なぜ、眠っておられたのでしょうか。弟子たちの信仰を試すためでしょうか。そうではない。眠りは我が身を委ねる行為であり、弟子たちへの全幅の信頼、それが「眠る」という行為に現れています。大嵐のため舟は大揺れ、いつ転覆してもおかしくない状況で、弟子たちはパニックに陥っていました。
 弟子たちは元漁師。湖で毎日漁をし、生活を立てていた操舟のプロ。
しかし、弟子たちは、荒れ狂う波に右往左往し、身に着けていたスキルを発揮することができないのです。わたしたちも、困難な出来事に遭遇したとき、足元が揺さぶられます。そして自分の経験が無駄に思え、身に着けたスキルが役に立たないと、無力感を覚えます。そのとき、自分を信じることができなくなってしまいます。
 どうしてよいか分からないとき、助けを求めて、神に呼びかけても、応答はない。神はおられないのではないか、そのような疑いさえ湧き起こります。弟子たちが、わたしたちがどうなってもかまわないのか、と嘆いたように、また、神はわたしたちを見捨てたのではないだろうか、と感じることもあります。しかし、神はおられないのではありません。イエスが大揺れの舟の中で眠っておられたように、安心して、わたしに身を委ねてくださっているのではないでしょうか。つまり、わたしたちのスキル、わたしたち自身を信じて下さっているのでは?
 「まだ信じないのか」とのイエスの言葉は、「まだ信じないのか、わたしがあなたを信頼しているということを」と、響いて来る。

2018.02.10(日)の礼拝の週報

06│2018年02月04日 降誕節6  いやすキリスト

週    句

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。
ヘブライ人への手紙 3:15
説  教   「床を担いで家に帰れ」  :梅田 環

いやすキリスト
列下4:18~37、ヤコ5:13~16、マコ2:1~12、詩147:1~11

「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
マルコによる福音書 2:11

 癒され、立ち上がった中風の人にイエスさまは言われました。「床を担いで帰りなさい」。「寝床をかついで」は必要ないのではないかと思われます。新しい人生の道に、今まで自分を縛り付けていた寝床は、もう、捨ててしまってもよいのではないだろうか。しかし、イエスは「寝床を担いで帰るように」と命じる。
 寝床は、中風の人が患っていた病と、それにまつわる苦難の象徴です。病のため、思い通りに体を動かせないことへのもどかしさ、苦しさといった肉体的な痛みを抱えていたことでしょう。また、当時、病は、親や先祖、本人の罪によるものだと、言われていた。「罪人」とのレッテルが貼られ、共同体では、隅に追いやられていたため、精神的な苦痛も相当なものであっただろう。
 寝床にはそれらの痛みの歴史が刻まれている。しかし、それだけではない。人の目を気にせず、非難の中、イエスのもとへと連れていってくれた友の愛も刻まれている。そして、隅に追いやられていた者に目を向け、癒してくれたイエスの愛も刻まれている。彼にとっての寝床は、苦しみと痛み、愛と癒しの象徴なのだ。
 癒された人は、新しい命に生きることになるが、それは、過去を全て捨てることでも、消し去ることでもない。過去を背負いつつ、新しい道を生きるのです。イエスは言われた。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。わたしたちを苦しめる十字架を、イエスは見過ごされない。目を注ぎ、わたしたちを縛り付けるものから解放してくださる。わたしたちは、恵みを讃美し、恵みを証しする道を進む。

2018.02.04(日)の礼拝の週報

05│2018年01月28日 降誕節5  教えるキリスト

週    句

わたしたちは、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して、嘆願の祈りをささげます。
ダニエル書 9:18
説  教   「聞く耳のある者は聞け」 :梅田 環

教えるキリスト
箴言2:1~9、Ⅰコリ2:6~10、マコ4:1~9、詩126:1~6

そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

マルコによる福音書 4:9

 四種類の土地に蒔かれた種がどのように育つかと、イエスは語り出す。種播きの譬えを通して、あなたの心はどの心か、とイエスは問うているのだろうか。あるいは、わたしの心は種を成長させない固い土地のようなものです、と反省するよう促しているのだろうか。
 かつて、コンクリートのわずかな隙間から生えた大根が「ド根性大根」と呼ばれ、ニュースになり、その姿は多くの人に、喜び、希望、感動を与えた。よい土地で育つことができなかったにもかかわらず成長した野菜や花が、ニュースになったり、歌になったりする。それらは〈規格外〉と呼ばれるものだけど、外見など関係ない。人は、その中に隠されたいのちの神秘に気づいて、感動するのではないだろうか。困難な地でも生きるいのちの強さ、常識では計れないいのちの神秘が、タネの中には秘められており、その種がわたしたちにも蒔かれているのです。
 しかし、わたしたちの生きる世界では、種そのものが持つ力を信じない。否定する声の方が強い。昨今、〈自己肯定感〉を高めることの重要性があらゆるところで語られるのは、わたしたちがいかに自分自身を認めずに生きているかということの現れである。自分自身に対してだけでなく、他者に対しても同様である。しかし、神は種を蒔き続け、その種が成長するのを待っていてくださる。
 イエスが徹底的に愛と赦しに生きたのは、種が育たないと思われる頑なな心にも、神のいのちの種が与えられ、必ず芽を出し、成長する時が来ることを確信しておられたからではないだろうか。

2018.01.28(日)の礼拝の週報

04│2018年01月21日 降誕節4  最初の弟子たち

週    句

あなたの上には、主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
イザヤ書 60:2
説  教    「わたしについて来なさい」:梅田 環

最初の弟子たち
エレ1:4~10、使9:1~20、マコ1:14~20、詩100:1~5。

イエスは、「わたしについて来なさい。……」と言われた。二人はすぐに網を捨ててしたがった。……ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもイエスのあとについていった。
マルコによる福音書 1:17?20

 神に召されてあることを「召命」と言います。教会の教職などが神からの召命によるものだと考えられていました。しかし、マルティン・ルターは、教会の教職に限らず、一人ひとりが召命を受けており、社会での働きも神から受けた使命であると語ります。「ベルーフ!」。
 イエスに招かれた人々に求められたことは「イエスに従う」ということです。イエスの歩みは、神の言葉を語るだけでも、神の掟を守っているかどうかを監視することでもなく、神の言葉を実践する、ということであった。飢えている人にパンを与え、病の人を癒し、孤独を感じる人のそばに行き、救いを告げた。イエスの足は孤独な人の隣人となるために駆け、イエスの手は傷ついた心や体に触れ、イエスの口は慰めを語り、イエスのはらわたは隣人への憐れみによってちぎれるような痛みを感じた。
 神は、イエスを通して全ての人を救うと約束された。そのために、イエスは全身全霊をもって働かれた。その救済という神の働き、すなわち、イエスの働きに、わたしたちキリスト者は招かれている。神の恊働者となるよう求められている、ということです。
 イエスは隣人のために知恵と力とをもって全力を尽くすことを教えられた。それを、日々の働きの中で実践するようにと、求められた。神は、出会う人々を恐れるな、わたしが共にいると励ましてくださる。どうしてよいか分からないときは、必ず、なすべきことは何かを、知らされると言われる。神の約束を信じて与えられた使命を果たしたい。

2018.01.28(日)の礼拝の週報

03│2018年01月14日 降誕節3  イエスのバプテスマ

週    句

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。
ヨハネによる福音書 1:17
説  教    「あなたはわたしの愛する子」    :梅田 環

イエスのバプテスマ
出14:15~22、Ⅰヨハ5:6~9、マコ1:9~11、詩36:6~10。

すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
マルコによる福音書 1:11

 イエスのバプテスマを通して示されたメッセージは〈愛と喜び〉!バプテスマのヨハネの〈悔い改めと節制〉とは、随分、印象が違う。イエスのバプテスマの際、神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた。それはイエスにだけ与えられた言葉ではありません。イエスを介して、わたしたちにも与えられた神の言葉です。しかし、わたしたちは、これを受け入れられず、勝手に条件を探すのです。条件をクリアすることなしに、神は「わたしの愛する子」などと言われるはずはない(!)と、思っているからです。
 イエスは、公生涯を始められるまで、ガリラヤのナザレにおられた。ナザレはガリラヤの人々から軽蔑されていた町です。そこに住んでいるだけで差別を受けるのです。人の世には、出自、外見、指向、思想などを理由に差別されるということがあります。その時、人は「神から愛されて〈いない〉」というメッセージを受け取るのです。イエスは「そこから」出て来られた。「から」と言う接続詞は分離/出発を意味します。イエスは自分を否定する声から解放された。力となったのは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という確信。
 わたしたちも、自分自身の存在を脅かすメッセージがあふれる社会に生きている。しかし、神は、イエスを通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、語りかけてくださり、神の似姿として創られたわたしたちを祝福してくださっている。
 わたしたちも存在を否定する場から出発し、神の解放のメッセージを宣ベ伝える者となろう。

2018.01.14(日)の礼拝の週報