20│2022年05月15日 復活節5 神の民

週 句 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。勇気を出せ。
聖書    使徒23章11節
説 教 「神の懐(ふところ)に飛び込む」 高橋牧師
聖書    エレミヤ書3章19~22節a

「立ち帰れ、癒やす。」
 今日の聖書の箇所では、神様と民の関係を夫婦関係にたとえられています。まず、神様の愛情深い親心が記されています。しかしそれにも関わらず、民の側は主なる神様を欺くのです。
 神様は民の欺き(裏切り)を咎めますが、イスラエルの民は、礼拝そのものをやめてしまったのではありませんでした。「礼拝」は続けられていたのです。しかし民の心が求めていたものは、神様の愛ではありませんでした。彼らが欲しかったもの、実質心の中で拝んでいたものは、豊かさや富、支配力など、人間的な力を与えてくれる神様でした。彼らの周囲では、そういう都合の良い「神様」が信じられていたのです。代表的なものとしては、豊穣の神バアルなどがあります。
 そのような状態に陥った民に、神様はエレミヤを通して、「立ち帰れ」と呼びかけ、「癒やし」を与えようと招きます。これは驚くべきことです。裏切られた側の神様が、民をゆるすだけではなくて、癒やしを与えるとまで言うのですから。けれどそれが、私たちに向けられた親なる神様の我が子に対する愛なのです。そして、私たちが個人としても教会としても、それに応答して生きるよう召されている愛です。
今日、人間の生命そのものがかつてない危険に曝されている。死によって脅かされているから危険に曝されているのではない―これはいつもそうだった。人間の命が最大の危険に曝されているのは、それがもはや愛されていないからである。―ユルゲン・モルトマン(福嶋揚訳『希望の倫理』2016年、新教出版社、91頁)
 人間を人材とし、悲しむべき事件を無機質にニュースと呼び習わし、人のいのちを奪うことを戦争とか政治と言い換えたりすり替えたりする現代社会は、巧みにバアルに取り込まれているようにさえ思われます。しかし教会に集う私たちは、キリストに捉えられて、神様に創られた者として、自分を、互いのいのちを、すべてのいのちを大切にしたいのです。