18│2022年05月01日 復活節3 まことの羊飼い

週 句 わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。
聖書    使徒言行録18章10節
説 教 「友への“共に”への招」高橋牧師
聖書    マルコ16章14~21


「福音宣教の始まり」
 本日の聖書箇所で、弟子たちは「不信仰」と「かたくなな心」であったと書かれています。イエス様がそんな彼らをとがめたのは、弟子たちが復活を信じなかったからではありません。注意深く読んでみると、イエス様を見た人々〔の言うこと〕を信じなかったからなのです。
 「信仰」というとき、私たちはどこか神と自分のタテのつながりだけを意識しがちなのではないでしょうか。しかし、イエス様はかつて、最も大切なことは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」だとおっしゃっていました(12章)。しかし弟子たちの現実は、師であるイエス様の死によって感じた身の危険、孤独や絶望と困惑、そして裏切りの後ろめたさ・・・心はカサカサボロボロになり、とてもこの主の掟にならって、互いの存在を喜び合って生きられるような状態ではなくなっていました。イエス様はそんな弟子たちを決して放ってはおかれなかったのです。ここに「救い」があります。「全世界」の「すべての造られたもの」に対する福音が最もうれしかったのは弟子たちであったことでしょう(「こんな自分さえ!」)。そして福音宣教は、弟子たちのこの弱さから始まりました。
 イエス様は、ご自身のもとにあって、私たちが互いを信じあうことを望んでおられます。互いに福音を伝え合い、信じて他者のために身を差し出していくことによって、福音宣教の業は、進められると同時に、それに仕える弟子たちの命を本当の意味で生かすのです。イエス様は、そのことを弟子たちに言いつけるだけでいなくなってしまったのではありませんでした。イエス様ご自身が共に働いてくださったというのです。
 イエス様が弟子たちをおとがめになったことは、それそのものが弟子たちへの愛のしるしでありました。徹底的に弟子たちに寄り添ってくださった出来事でありました。私たちはそれにならって、主の愛を受けつつ、自らの弱さから出発して、神を愛し隣人を愛して生きるのです。