16│2022年04月17日 復活節1 キリストの復活

週 句 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
聖 書    マルコ16章6節
朗読劇 復 活 ~《ガリラヤ》へ行かん~

「主の死は共に生きるため」 高橋牧師
 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ―「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」そのように叫び、主イエス・キリストは、深い絶望のうちに、息を引き取られました。イエス様を慕う者たちが、イエス様の亡き骸が墓に納められるところを見届けていました。この場面において、イエス様は完全に死なれたのです。
 私たちは、ここでイエス様が完全に死なれたという事実を大切にしたいのです。そうであるからこそイエス様は私たちと同じ肉体を取ってこの地上を生きてくださったと言えるのです。また、この世界を生きるすべての者の苦しみや痛みを共にし、負うてくださる方であるのです。
 長く教会生活をしていると、ときにやがて来る復活やあらゆるさまざまな知識が、このキリストの死に対する感受性の豊かさを覆ってしまうことがあるのです。
 私たちは、人が死ぬときに悲しみます。厳しい現実にさらされるように感じることさえあります。私たちは最も親しい人が亡くなった時のように、主イエス・キリストの死を悲しんだことがあるでしょうか?・・・しかし、イースターの喜びが本当に感じられるのは、私たちがイエス様の死を真実に心から悲しみ嘆いた時です。そして、復活を信じる私たちの人生の課題は、その悲しみや嘆きが喜びの源であることを見出すことです。その復活は確かに、私たち自身に命を与え、新しさへと導いてくれることでしょう。
 主イエス・キリストの死と復活は、弟子たちに新たな一致を与えました。それは、弟子たちが、与えられた約束を理解することもできず、信じることもできず、本当にイエス様の死を深く悲しんだからこそ起こったことなのです。ただ予定されていたことをじっと待っていただけであったなら、この後、使徒言行録に続いていくような、あるいは歴史に残るような、イエス様の弟子たちの生き方の大変革は起こらなかったでしょう。
 弟子たちは、主の死に対する悲嘆の中で、ようやく主に行かされた命を共に生きる旅人として、互いがどんなにかけがえのない与えられた仲間であることかを思い知ったのではないでしょうか。