12│2022年03月20日 復活前4 受難の予告

週 句 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
聖 書    マルコ14章38節
説 教 「一つのパンと一つの杯」高橋牧師
聖 書    マルコ14章22~26

「礼拝の目的は?」
 今朝も皆さんと共に礼拝がささげられることを大変にうれしく思います。特に私のような教会の牧師は、本当にこのために生きているというような思いがありますから、この原稿は、皆さんと礼拝をする日曜日の朝を思い浮かべ心待ちにしながら書いています。ところで皆さんは今日、何のために教会へ来たでしょうか。もちろん礼拝のために決まっているのですが、敢えて問われるとするなら、皆さんは何のために礼拝へ集っておられるのでしょう。
 以前に読んだある本(礼拝学関連だったと思います)には、こんなことが書いてありました。上記の質問に対し、一般に、東方正教会の者たちは「歌いにきた」と答え、カトリック教会の者たちは「陪餐のために」と答えるそうです。
さて皆さんの答えは何でしょう?プロテスタント教会の者たちは「説教を聞くため」と答えることが多いとのことです。だから、うたうことや食べることに比べると、「自立した信徒と言っているはずのプロテスタントの礼拝姿勢が実は一番受動的!」と考える人もいます(きくことにだって、本当は大変なエネルギーがいると思いますけど)。そういう本を読んでしばらくしてから、たまたま私たちの加盟する日本バプテスト連盟の宣教研究所の所員さんから、アンケートを取ってみると、一般にバプテスト教会のメンバーが今日の礼拝は「今日はよい礼拝だったね(あるいは、イマイチだったね)」と言う際、その評価基準は、その日の説教が“よかった”かどうかということになりがちだと伺いました。確かに私自身、牧師になる前には、どこかそのような感覚を持っていたような気がします(説教者はなかなか責任重大ですね・・・)。
 本日の聖書箇所は、主の晩餐(当教会では「分かち合い」と呼ばれていますね。どなたか由来を教えてください)の制定です。私たちの教会ではしばらく感染防止の観点からこの執行をお休みしていますが、この時こそ、「見えるみことば」を大切に覚え、キリスト礼拝の原点であるとも言えるこの箇所を深く大切に読み、新しい命豊かな歩みへとさらに漕ぎ出していきたいものです。