25│2021年06月20日 聖霊降05 生涯の捧げもの

週句 人の子は、失われたものを捜(さが)して救うために来たのである。
ルカによる福音書 19章 10節
説 教 「常に目を注ぐ」牧師:高橋周也
申命記11:13~21

「神の祝福と呪い」 
子どもの頃の学校の授業で、先生がこのような問いを投げかけた時のことを今でも印象深く覚えています。「人が死ぬとどう思うか」―私たちは口を揃えて答えました。「悲しいです」。続けて先生は私たちにこのように尋ねました。「では、必ずしもそう言えなくなる時があるとしたら、それはどんな時か」―教室中がシーンとなりました。しばらくの沈黙の後、ひとりが答えました。「戦争です」。
戦争では、死が情報化されます。例えば、敵が何人死んで味方が何人犠牲になったのかという具合に数量化されます。敵と比べて味方の犠牲が少なければ、たとえそこで人の命が失われていたとしても、「戦果」は喜びをもって受け止められ得るのです。命を奪われた人たちの人生や家族について、ほとんど気にされることはないと言ってよいでしょう。
コロナ禍がしばしば戦争に譬えられています。政府が国民に犠牲を強いるシステムは、かつての時代と似通っていると分析されます。では私たち市民はどうでしょうか。緊急事態宣言が(予定通りであれば)本日をもっていったん解除となりますが、日ごと発表される数字を私たちはどのように受け止めて来たでしょう。例えば私が目にしたいくつかの報道は、「死者が1桁」であること、あるいはワクチンによる副反応で犠牲になった人の割合(数)について、公然と「よかった」と評価しています。私たちの社会は、本人やご遺族の苦しみや悲しみに対して、あまりにも冷酷です。
主イエスはこのようにおっしゃいました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」(マタイ5章37節)
私たちの主は、人間の命を善いものと肯定(祝福)し、生命への不正と暴力、諦めと無関心に対して「否」と言われる方なのです。