25│2021年06月13日 聖霊降04 世の光としての使命

週句 

疲れた者、重荷(おもに)を負(お)う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11章 28節
説 教 「あなたを見て輝く」 牧師:高橋周也
マタイ5章13~16節

「立派な行い?」
ナチスが共産主義者を攻撃し始めたとき、私は声をあげなかった。なぜなら私は共産主義者ではなかったから。次に社会民主主義者が投獄されたとき、私はやはり抗議しなかった。なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。労働組合員たちが攻撃されたときも、私は沈黙していた。だって労働組合員ではなかったから。そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる人は一人もいなかった。

これは神学者で反ナチ運動家であったマルティン・ニーメラー(1892-1984、ドイツ)のものとされる言葉です。
彼の言うところの「声をあげなかった」「沈黙していた」人とは、今日の箇所で言えば「もはや何の役にも立たない」、「塩気のなくなった塩」のような人ということになるのでしょう。そういう人たちは、「人々に踏みつけられるだけである」と聖書に書かれています。
ところが現実には「声をあげる」ことは、あるいは「立派な行い」をすることは目立つことであり、非常に勇気の要ることです。世間の常識では、むしろ逆に、声をあげることによって人々に踏みつけられる(「たたかれる」、「出る杭は打たれる」)のではないでしょうか。おとなしくしていたほうがひどい目に遭わずに済むのではないかと考え込んでしまいます。「人々に踏みつけられた声」がたくさんあることもまた、私たちは心に留めておきたいところです。
さてイエス様は、貧しい人、悲しむ人々、義に飢え渇く人々・・・そういう「あなたたがた」が「地の塩、世の光」だと宣言なさいました。そういう人たちの「立派な行い」によって、天の父はあがめられるようになると言うのです。ではそもそもこの「立派な行い」とはいったい何のことなのでしょうか・・・。