35│2020年08月23日 聖霊降臨13 神からの真理

週    句

神は、高慢なものを敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。
ペトロの手紙Ⅰ 5:5
説  教  「神からの真理」

ヨブ28:12~28、Ⅰコリ2:11~3:9、ヨハ7:40~50、詩編15:1~5。

「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っている」(Ⅰコリ1:12)と、手紙の冒頭の勧めにて言い表されているような分派争いが、当時のコリントの教会に存在していたとされています。
東日本大震災の発生当時、「一つになろう」というような言葉を頻繁に見聞きしました。そのすべてを否定するまではしませんが、「がんばろう」との呼びかけと並んで強い違和感を覚えていました。「一つになる」という言葉のもとでかえってその「一つ」の外に置かれてしまう存在があります。今年私たちが置かれている状況においてもそれは同じでしょう。「一致」が求められる中で起きうる危うさと共に、先ほどの分派争いにおいて顕著に表れる問題を考えてみたいと思います。
「お互いの間にねたみや争いが絶えない」(3:3)との箇所の「ねたみ」は「熱心」という意味も有しているそうです。自らの正当性や正統性が主張され、正しさが熱心に追い求められるときに、「ねたみ」や争いが生じていく。初代の教会が有していた課題は、今日の様々な社会の状況、私たちの生きる状況にも当てはまってくるものですし、人間の本質的な課題を明らかにしていくものでしょう。
パウロが教会を畑にたとえ、そこに多様な働きがなされること、そして成長させてくださるのは神であると強調します。何派が上位だとか、どこに属しているから優位だというのではありません。誰もが抱きがちなそのような感情を、パウロはたとえを用いて一蹴します。一人ひとりが多様な働きを担い、多様な生命に生きる、その一人ひとりを神が慈しみをもって育ててくださる。このことにあらためて気づかされ、他者の異なる働き、異なる大切にしていることなどを尊びながら交わりを形成する時、真の意味で「一つになる」ということがなされていくのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より