24│2020年06月07日 聖霊降臨2 真理の霊

週    句

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
Ⅰコリント13:13
説  教  「真理の霊」

イザ40:12~17、Ⅰテモ6:11~16、ヨハ14:8~17、詩37:23~40。

 批判を受けることを覚悟で言いますが、「自分は救いの恵みに与った」というような言い方で描き出される個人的かつ情緒的、安穏とした感覚に昔から違和感を覚えてきました。
むしろ、救いの恵みに与るものとして、自らの欠け破れに気づかされ、打ち砕かれながらいかにキリストに従うのか…、日々その歩みが問われていくことを思います。福音を宣べ伝えることも、生きる現実の中での様々な問題を信仰者として担うこともすべてがこの問いの中に関わってきます。第一テモテでは信仰の戦いを戦い抜いた褒美としての「永遠の命」が示されますが、初代の教会の洗礼あるいは按手礼の際の勧告の言葉と言われるこの箇所から私たちは強い促しを受けることでしょう。
しかし、「立派に戦い抜」けと、ひたすら鼓舞することがなされる時、その勇ましい言葉に自分はついて行けないと感じる人たちがおられることを思います。例えば「がんばろう○○」と繰り返されたキャッチフレーズは、人々を励ました一面があることでしょうけれども、「頑張りたくても頑張れない」、「これ以上何を頑張れと言うのか」というような思いにも結びついたことを想像します。
この強い勧めの中に「万物に命をお与えになる神」という言葉を見ます。万物を造り、命を与え、生かし、救う神の存在です。「手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか」とイザヤ書は創造主なる神の業を語ります。多様な存在としてこの世に造られ、多様な生命のあり様に生かされている一人一人が、それぞれになす信仰の歩みを神は救い、導かれる。この創造主なる神の恵みと愛のもとに生かされているということを覚える時、私たち一人一人が真に主に従って生きるものとされ、「この神に誉と永遠の支配がありますように、アーメン」と神の御名を賛美するものとされていくのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より