16│2020年04月12日 復活1 キリストの復活

週    句

わたしは一度死んだが、見よ、世々限りなく生きて死と陰府の鍵を持っている。
黙示録1:18
朗読劇 復  活 ~《ガリラヤ》へ行かん~

キリストの復活
イザヤ55:1~11、Ⅰコリ5:6~8、ヨハ20:1~18、詩30:2~13。

『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神
であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』
               ヨハネによる福音書20:17
ヨハネ福音書における主の復活の出来事において、いくつかの方向の転換を見ます。イエスの墓の外に立って泣いているマリア。彼女はイエスの墓穴の方を向いていたことが窺えます。その方向は十字架の上で息を引き取られたイエス、イエスの死の方向です。「主が取り去られました。どこに置かれているのか分かりません」と繰り返される言葉もその方向を示すものでしょう。しかしそこにイエスが語りかけるのです。
マリアはその声に振り向きます。十字架の死を迎えたイエスの方を向いていたマリアが、復活し生きた姿を示される主イエスの方を向いていきます。「わたしにすがりつくのはよしなさい」とのイエスの言葉について、多様な理解の中から「方向の転換」という視点で考えれば、人間的な関係から、神と人との関係に移行したことを表すものと理解されます。復活の主に出会ったマリアは、最初「ラボニ」と呼びかけます。かつてマリアも弟子たちも日常的にイエスに対して用いていた呼称でしょうが、それが弟子たちの所に行った際には「わたしは主を見ました」と変化していきます。
十字架の死からの復活、様々な喪失感に溢れ涙するマリアはその視線の方向が変えられ、彼女は弟子たちに主の復活を告げる証人とされていきました。またこれまでの主イエスとの関わりから、新しい交わりへと導かれ「主を見ました」との信仰の告白へと導かれていきます。  
出会う一人一人の生の現実を大胆に転換させる。これが主の復活の出来事に秘められた力ではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より