37│2017年09月10日 聖霊節15 究極の希望

週    句

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
マタイによる福音書 25:40
説  教  「わたしたちは変えられる」 :梅田 環

究極の希望
列上3:17~19、Ⅰコリ15:35~52、マタ13:44~52、詩104:24~35。

わたしたちは皆、……最後の……ラッパがなると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
コリントの信徒への手紙 一 15:52

 死んでも自分というものがどこかに残ることを、人は期待しているそうです。わたしたちが朽ちる(滅びる、破滅する、の意)ものとして蒔かれたのは、「御心のままに……体を与え」る神さまの業でありました。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」と言いますが、「霊の体」とは、人間の霊魂の意味ではなく、神の霊によって造り出されたものです。「最後のアダム」であるキリストが「命を与える霊」となったと言うのは、直訳すると、「生かす霊」という言い方で、神さまの救いの業を意味する言葉を使っています。アダムが「命ある生き物となった」と言うのとは、違う言葉です。
 キリストがわたしたちと共に死なれたことで、「古い人」を滅ぼし、新たにして、天に属するキリストの似姿にしてくださるのです。それは、神が「御自分の息を送って、彼らを創造し、地の面を新たにされる」(詩104:30)という業の成就です。その終末の様をまだ見ていない「兄弟たち」が信仰を持って生きることができるよう、復活を確かなものとして語ったのです。
 「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず」とパウロが言う時、自らの「肉なるもの」(生まれや育ちや信仰歴)を誇ることを放棄して来たことと重なります。それらは朽ちるものであって、終わりの時には、一瞬にして、今とは異なる状態に変えられるのです。
 だから、朽ちるものに心を奪われずに、見えざる「神秘」(奥義)を見つつ、この世の日々を生きようではないか」と、パウロは呼びかけるのです。