21│2022年05月22日 復活節6 父のみもとに行く

週 句 この福音のためにわたしは苦しみを受け ついに犯罪人のように鎖(くさり)につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。
聖書    テモテへの手紙二 2章9節
説 教 「いい地、旅立ち」高橋牧師
聖書    エレミヤ書10章1~17節

「旅立ちへの促し」
 預言者エレミヤの時代を生きた人々は癒やしがたい傷を抱えていました。知らず知らずのうちに世界が崩れ、人々は捕囚の民となり、涙に暮れる日々が続きます。そこに民の破滅を「手軽に治療」(8章11節)しようとする偽預言者が現れます。また、民自身についても、深刻な事態に陥っている現実を認めることのできない愚かさが描かれます。試練の中で外の視点を失い、正しく自らの姿を見つめたり、事態を掌握したりすることができなくなった人々は、自分たちが与えられた人生を主体的に生き抜くことが難しくなっていきます。その有り様は、彼らが悪人であるという意味よりは、神の似姿として創られた人間に期待された生き方から引き離されていた哀れな状態であると言えます。本日の聖書箇所には、一見すると厳しい言葉が書き連ねられていますが、神様はエレミヤを通して、悲惨な状態に陥った「心に割礼のないイスラエルの家」(9章25節)の人々に現状を認識させ、その今陥っている状態からの解放、すなわち新たな旅立ちを促しているのです。「異国の民の道に倣う」(10章1節)のは、神の民にふさわしい生き方とはほど遠いからです。
 エレミヤの時代から600年後、イエス様の十字架を前にして逃げ出した2人の弟子が、その数日間に起こった出来事について話し合いながら、エマオという村に向かってトボトボと歩いていました(ルカによる福音書24章13~35節)。イエス様ご自身が近づいて来て話しかけたというのに、そして長時間そこから一緒に歩いて会話を続けていたというのに、2人はそれがイエス様だとは気づきませんでした。しかしパンを取り杯を交わしたとき「私たちの心は燃えていたではないか」(32節)と気づきます。そしてすぐに彼らは背を向けて歩いてきたはずのエルサレムへと戻るのです。この旅立ちによって、彼らは聞いていたはずの復活の喜びを本当に新たにされ、真のキリストの弟子として宣教の業へと開かれていくのです。

2022.05.20(日)の礼拝の週報

20│2022年05月15日 復活節5 神の民

週 句 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。勇気を出せ。
聖書    使徒23章11節
説 教 「神の懐(ふところ)に飛び込む」 高橋牧師
聖書    エレミヤ書3章19~22節a

「立ち帰れ、癒やす。」
 今日の聖書の箇所では、神様と民の関係を夫婦関係にたとえられています。まず、神様の愛情深い親心が記されています。しかしそれにも関わらず、民の側は主なる神様を欺くのです。
 神様は民の欺き(裏切り)を咎めますが、イスラエルの民は、礼拝そのものをやめてしまったのではありませんでした。「礼拝」は続けられていたのです。しかし民の心が求めていたものは、神様の愛ではありませんでした。彼らが欲しかったもの、実質心の中で拝んでいたものは、豊かさや富、支配力など、人間的な力を与えてくれる神様でした。彼らの周囲では、そういう都合の良い「神様」が信じられていたのです。代表的なものとしては、豊穣の神バアルなどがあります。
 そのような状態に陥った民に、神様はエレミヤを通して、「立ち帰れ」と呼びかけ、「癒やし」を与えようと招きます。これは驚くべきことです。裏切られた側の神様が、民をゆるすだけではなくて、癒やしを与えるとまで言うのですから。けれどそれが、私たちに向けられた親なる神様の我が子に対する愛なのです。そして、私たちが個人としても教会としても、それに応答して生きるよう召されている愛です。
今日、人間の生命そのものがかつてない危険に曝されている。死によって脅かされているから危険に曝されているのではない―これはいつもそうだった。人間の命が最大の危険に曝されているのは、それがもはや愛されていないからである。―ユルゲン・モルトマン(福嶋揚訳『希望の倫理』2016年、新教出版社、91頁)
 人間を人材とし、悲しむべき事件を無機質にニュースと呼び習わし、人のいのちを奪うことを戦争とか政治と言い換えたりすり替えたりする現代社会は、巧みにバアルに取り込まれているようにさえ思われます。しかし教会に集う私たちは、キリストに捉えられて、神様に創られた者として、自分を、互いのいのちを、すべてのいのちを大切にしたいのです。

2022.05.13(日)の礼拝の週報

19│2022年05月08日 復活節4 キリストの掟

週 句 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。
聖書    使徒20章32節
説 教 「あるいは建て、植えるために」 高橋牧師
聖書    エレミヤ書1章7~10節、17~19節

「神の子の権威」
 説教で久しぶりの旧約聖書は、エレミヤ書を開いてみたいと思います。年若い時に召命を受けた預言者エレミヤは、私にとって親しみ深い聖書の人物のひとりです。しかしそれは私が若くして牧師になったからではありません。その前から、キリストを信じる者のひとりとして、自分の人生に語りかけてくれる言葉として好きなのです。キリストを信じる者とされ、全生涯を通してキリストを証する使命に生きることは、教会に集う私たち皆の召命です。
紀元前7世紀の古代オリエント世界が大きな変動を迎えた時代に、エレミヤは神様から諸国民の預言者として召されることになりました。現代でもそうですが、混乱の時代に生きていると、ひとりの力、少数者の声は非常に小さく無力であるように思えます。しかもエレミヤはまだ年若く、召命に応え得るような十分な経験や能力がない、自分には何の資格もない、と考えたのでしょう。エレミヤは主の呼びかけに尻込みして、(より直訳に近づけると)「ああ、見てください。私は語ることができない」と嘆き、拒みました。私たちならどう答えるでしょうか?私たちも、神様に対していつでもこの時のエレミヤのように答えるために、たくさんの言い訳の引き出しを持ち合わせているのではないでしょうか。
 エレミヤに対して、神様は「若者にすぎないと言ってはならない」とお命じになりました。ヘブライ語の「若者」には「子」という意味もあります。私たちは皆、神様に愛をもって造られた神の子どもです。若者や子どもは無力の象徴のようでもありますが、神の子どもは神の永遠の愛の対象なのです。そのことを過小評価してはならないでしょう。神様はエレミヤの状況も、私たちの現実も、しっかりとご存知です。それなのに「母の胎から生まれる前」(5節)から召したのが神様です。私たちは皆、神様の「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」という約束によって、神の子どもとしてのいのちを精一杯に生きるのです。

2022.05.05(日)の礼拝の週報

18│2022年05月01日 復活節3 まことの羊飼い

週 句 わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。
聖書    使徒言行録18章10節
説 教 「友への“共に”への招」高橋牧師
聖書    マルコ16章14~21


「福音宣教の始まり」
 本日の聖書箇所で、弟子たちは「不信仰」と「かたくなな心」であったと書かれています。イエス様がそんな彼らをとがめたのは、弟子たちが復活を信じなかったからではありません。注意深く読んでみると、イエス様を見た人々〔の言うこと〕を信じなかったからなのです。
 「信仰」というとき、私たちはどこか神と自分のタテのつながりだけを意識しがちなのではないでしょうか。しかし、イエス様はかつて、最も大切なことは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」だとおっしゃっていました(12章)。しかし弟子たちの現実は、師であるイエス様の死によって感じた身の危険、孤独や絶望と困惑、そして裏切りの後ろめたさ・・・心はカサカサボロボロになり、とてもこの主の掟にならって、互いの存在を喜び合って生きられるような状態ではなくなっていました。イエス様はそんな弟子たちを決して放ってはおかれなかったのです。ここに「救い」があります。「全世界」の「すべての造られたもの」に対する福音が最もうれしかったのは弟子たちであったことでしょう(「こんな自分さえ!」)。そして福音宣教は、弟子たちのこの弱さから始まりました。
 イエス様は、ご自身のもとにあって、私たちが互いを信じあうことを望んでおられます。互いに福音を伝え合い、信じて他者のために身を差し出していくことによって、福音宣教の業は、進められると同時に、それに仕える弟子たちの命を本当の意味で生かすのです。イエス様は、そのことを弟子たちに言いつけるだけでいなくなってしまったのではありませんでした。イエス様ご自身が共に働いてくださったというのです。
 イエス様が弟子たちをおとがめになったことは、それそのものが弟子たちへの愛のしるしでありました。徹底的に弟子たちに寄り添ってくださった出来事でありました。私たちはそれにならって、主の愛を受けつつ、自らの弱さから出発して、神を愛し隣人を愛して生きるのです。

2022.04.28(日)の礼拝の週報

17│2022年04月24日 復活節2 復活顕現

週 句 神はわたしたち一人一人から 遠く離れてはおられません。
聖書    使徒言行録17章27節
説 教 「だれがあの石を転がしてくれるのか」高橋牧師
聖書    マルコ16章1~8

「恐れて終わる福音書」
 今年に入ってから『聖書教育』誌に準拠してマルコによる福音書を読み進めてきました。今日の箇所は、マルコによる福音書の結末部分です。なお、16章9節以降は後代に書き加えられたことがわかっており、礼拝で用いている新共同訳聖書でも〔かっこ〕が付されています。
 つまり、本来のマルコによる福音書の締め括りは、何とも歯切れの悪いものなのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8節)と。
 もちろん、それはそれとして私たちは、9節以降、あるいは、他の3つの福音書が描く復活や弟子たちの派遣の物語を大切に読むのです。しかし、私たちは聖書を愛するならば、それと同じくらい、元来のマルコによる福音書が伝えようとしたメッセージを大事にしてよいと思います。
墓にご遺体がないのを見て、逃げ去り、震え上がって茫然自失となり、何も言えず、恐ろしかった婦人たちの姿で終わる。この不思議な福音書のメッセージとは、今日をここで生きる私たちが、その時々に祈り、聞き取るものです。これは何を意味するのだろうかと、思いを馳せ、耳を傾け、私の心に語りかける主の御声をきき取ること。それはキリストの弟子として生きる私たちに課せられた使命でもあります。なぜなら、イエス様は、復活なさって、かねて言われていたとおりガリラヤでお目にかかれる(6~7節)のに、私たちもまたこの婦人たちと同じように、いつも恐れながら生きているからです。
今日の箇所から、さまざまな黙想へ導かれることができます。今の自分にとって、この教会にとって、現代を生きる私たちにとって、墓とはどこなのだろうか。あるいは、墓の入り口に転がされていた石とは何だろうか。私にとってのガリラヤはどこだろうか?
 今日の皆さんはこれらにどうお答えになりますか?

2022.04.21(日)の礼拝の週報

16│2022年04月17日 復活節1 キリストの復活

週 句 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
聖 書    マルコ16章6節
朗読劇 復 活 ~《ガリラヤ》へ行かん~

「主の死は共に生きるため」 高橋牧師
 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ―「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」そのように叫び、主イエス・キリストは、深い絶望のうちに、息を引き取られました。イエス様を慕う者たちが、イエス様の亡き骸が墓に納められるところを見届けていました。この場面において、イエス様は完全に死なれたのです。
 私たちは、ここでイエス様が完全に死なれたという事実を大切にしたいのです。そうであるからこそイエス様は私たちと同じ肉体を取ってこの地上を生きてくださったと言えるのです。また、この世界を生きるすべての者の苦しみや痛みを共にし、負うてくださる方であるのです。
 長く教会生活をしていると、ときにやがて来る復活やあらゆるさまざまな知識が、このキリストの死に対する感受性の豊かさを覆ってしまうことがあるのです。
 私たちは、人が死ぬときに悲しみます。厳しい現実にさらされるように感じることさえあります。私たちは最も親しい人が亡くなった時のように、主イエス・キリストの死を悲しんだことがあるでしょうか?・・・しかし、イースターの喜びが本当に感じられるのは、私たちがイエス様の死を真実に心から悲しみ嘆いた時です。そして、復活を信じる私たちの人生の課題は、その悲しみや嘆きが喜びの源であることを見出すことです。その復活は確かに、私たち自身に命を与え、新しさへと導いてくれることでしょう。
 主イエス・キリストの死と復活は、弟子たちに新たな一致を与えました。それは、弟子たちが、与えられた約束を理解することもできず、信じることもできず、本当にイエス様の死を深く悲しんだからこそ起こったことなのです。ただ予定されていたことをじっと待っていただけであったなら、この後、使徒言行録に続いていくような、あるいは歴史に残るような、イエス様の弟子たちの生き方の大変革は起こらなかったでしょう。
 弟子たちは、主の死に対する悲嘆の中で、ようやく主に行かされた命を共に生きる旅人として、互いがどんなにかけがえのない与えられた仲間であることかを思い知ったのではないでしょうか。

2022.04.15(日)の礼拝の週報

15│2022年04月10日 復活前1 十字架への道

週 句 イエスがこのように息を引き取られたのを見て 「本当に、この人は神の子だった」と言った。
聖 書    マルコ15章39節
説 教 「偽りの満足を超えて」 高橋牧師
聖 書    マルコ15章6-20   

「扇動される群衆<私たち>」
 群衆にとって、バラバは心底助けたい人だったようです。聖書は、扇動された群衆の過ちを包み隠さず伝えてくれています。そして、ここに描かれたイエス様は、徹底的に沈黙を貫き、私たちがどう生きるかを見つめておられるのではないでしょうか。
 さて現代日本に生きる私たちは、日々さまざまな情報に晒されています。大きな役割を果たしているのがメディアですが、どんなメディアも(日本の場合、世界の上位3分の1に入らない低い水準の報道自由度の枠組みの中で)ある特定の意図をもって、情報の取捨選択をし、優先順位を決め、編集を施して、報道をするものです。
 1995年、米・国防大学教授のアルビン・トフラーが近未来の戦争における重要な戦闘様式として「認知の操縦」を挙げました。①暴行に対する告発(事実の歪曲や嘘を含む)、②戦争利害関係の誇張、③敵の悪魔化、④両極化、⑤神の御心との公言、⑥大量の宣伝。これらを行えば、人の心理と精神の領域は容易に影響され、行動や行為の目的が誘導されるというのです。
 この4月から防衛省は、近年勢いを増す情報戦に対処し「制脳権」(制空権や制海権などから派生した新語)を守るためにグローバル戦略情報官という役職を設けたそうですが、政府が自国民の制脳権を奪取しないとどうして言い切れるでしょうか。
 少なくとも私たちは戦争のニュースに触れる時、どちらが善で悪かという単純化した構図に警戒しなければなりません。某国より多くの犠牲者を長年出し続けている世界の様々な紛争に対して一切触れないでおきながら、今回某国のことに関しては急に多大な時間を割いて詳細に映像を駆使して報道するような時には、私たちは警戒すべきです。私たちは、傷ついた人々のために、あるいは為政者が御心に適って政治できるように祈るのであって、断罪するために存在しているのではないからです。戦争はいつも正義の味方に引き起こされてきたのです。
 幸いな者。悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。(詩編1編1節)

2022.04.07(日)の礼拝の週報

14│2022年04月03日 復活前2 十字架の勝利

週 句 それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。
聖 書    マルコ8章29節
説 教 「転送不要、本人限定」高橋牧師
聖 書    マルコ14章27~31

「禁じられても響く音」
 2021年2月から、ミャンマーの方々に連帯して、金曜日の夜にZOOMを使ってつながった志を同じくする人たちとお祈りをし、草の根の支援をするという活動(アトゥトゥ=ビルマ語で「共に」)に参加してきました。今年の岡山の2.11集会には、その主宰である渡辺さゆり師をお招きし、講演をしていただきました。当教会では、最近数名の方がそれに応答して、礼拝後集まって一緒にお祈りをささげてくださるようになりました。ミャンマーで起こっていることは悲惨ですけれども、この課題を通して、教会で祈り合えるようになったことは、大変にうれしいことです。
 アトゥトゥの祈り会では、最後にみんなでポットバンキング(鍋叩き)をします。これは元々、邪気を払うというミャンマーの風習で、国軍の暴力と支配に対抗して、当地の人々が毎夜8時に行っていたものに連帯しているものです。現在のミャンマーでは、鍋を叩くと、それは国軍への反逆と見なされて逮捕されるそうです。だから、日本にいる私たちが代わりに鍋を叩いています。この音が鳴りやむことはないでしょう。アトゥトゥは、祈りを通して顔の見える支援をしています。だから日本にいる私たちはミャンマーの人々に力をいただき、ミャンマーの人々も日本の私たちに励まされますと言ってくださいます。
 ペトロは、大祭司の中庭で鶏の声を聞きました。「鶏が2度鳴く前に、あなたは3度私を知らないと言うだろう」という主イエスの言葉を思い出して、ペトロは泣きます。当時エルサレムの街では、鶏を飼うことは禁止されていました。イエス様の弟子だと表明することは、自らの身にも危険が及ぶと恐れたペトロでした。周囲の者たちもペトロを追い詰めました。しかしその時鶏は2度も鳴いたのです。ペトロはその声を聞いて、主の愛を知るのです。
 どんなに強大な人間の力が人々をおびえさせ、支配しようとしても、すべての者の解放者、救い主イエス様の与えてくださる自由を縛り抑えつけることはできないのです。

2022.03.30(日)の礼拝の週報

13│2022年03月27日 復活前3 主の変容

週 句 ペトロは・・・イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
聖 書    マルコ14章72節
説 教 「転送不要、本人限定」 高橋牧師
聖 書    マルコ14章27~31

「弟子たちがつまずいたこと」
 本日の箇所で真っ先に目につくのは、ペトロが繰り返し強い口調で「わたしはつまずきません」、主に従いますと主張していることです。よく読むと、それはペトロだけでなく、弟子たち皆の考えでした(31節)。つまり、この場面で起こったことを端的に言えば、弟子のリーダーであったペトロをはじめ、イエス様の弟子全員がイエス様のおっしゃることをよく聞かなかったし、それどころか、強い口調で否定したということです。
 イエス様のおっしゃったことは、十字架と復活、散らされた先、辺境のガリラヤへ行くこと、そして鶏で有名なペトロの否みのことでした。そのいずれについても、弟子たちは受け入れず、強く拒否したのです。わが主であるイエス様をその心から追い出してしまったのです。
 ところで「拒否」というと、私の専門分野から連想されることは、死の受容の第1段階です。これはかつてイギリスのキューブラー=ロスという学者が表した「死の5段階」、文字通り、人が死を受容していくのにどういうプロセスをたどっていくかというモデルの第一段階です。近年では、このモデルがビジネスの世界などでも、長く続いてきたシステムや組織が変わっていく時などに、人の心に起こり得る過程として使われているそうです。変化を前にすると、人は、最初はそれを受け入れず①否定し、それが起こった要因に対して②怒り、抵抗を試みて③取り引きしようとし(死の問題では、ここで人が神様に祈ったり、敬虔になったりします)、受け入れざるを得ないと④諦め、それを超えるとようやく⑤受容できると言われます(もちろん、そんなに順調に段階を踏むとは限りませんが)。
 時代の変化の荒波の中で、世界中が揺り動かされています。私などは、いつでも安定した場所にしがみついていたいような気持ちがします。しかし、主は十字架のみもとに復活があり、「ガリラヤ」に私たちの真の居場所があると言われるのです。私たちの人生の糧を大切にし、そして、隣人とも命の喜びを分かち合って、前へ向かって進んでいくために、私たちは今日も主イエスの言葉に耳を傾けるのです。

2022.03.24(日)の礼拝の週報

12│2022年03月20日 復活前4 受難の予告

週 句 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
聖 書    マルコ14章38節
説 教 「一つのパンと一つの杯」高橋牧師
聖 書    マルコ14章22~26

「礼拝の目的は?」
 今朝も皆さんと共に礼拝がささげられることを大変にうれしく思います。特に私のような教会の牧師は、本当にこのために生きているというような思いがありますから、この原稿は、皆さんと礼拝をする日曜日の朝を思い浮かべ心待ちにしながら書いています。ところで皆さんは今日、何のために教会へ来たでしょうか。もちろん礼拝のために決まっているのですが、敢えて問われるとするなら、皆さんは何のために礼拝へ集っておられるのでしょう。
 以前に読んだある本(礼拝学関連だったと思います)には、こんなことが書いてありました。上記の質問に対し、一般に、東方正教会の者たちは「歌いにきた」と答え、カトリック教会の者たちは「陪餐のために」と答えるそうです。
さて皆さんの答えは何でしょう?プロテスタント教会の者たちは「説教を聞くため」と答えることが多いとのことです。だから、うたうことや食べることに比べると、「自立した信徒と言っているはずのプロテスタントの礼拝姿勢が実は一番受動的!」と考える人もいます(きくことにだって、本当は大変なエネルギーがいると思いますけど)。そういう本を読んでしばらくしてから、たまたま私たちの加盟する日本バプテスト連盟の宣教研究所の所員さんから、アンケートを取ってみると、一般にバプテスト教会のメンバーが今日の礼拝は「今日はよい礼拝だったね(あるいは、イマイチだったね)」と言う際、その評価基準は、その日の説教が“よかった”かどうかということになりがちだと伺いました。確かに私自身、牧師になる前には、どこかそのような感覚を持っていたような気がします(説教者はなかなか責任重大ですね・・・)。
 本日の聖書箇所は、主の晩餐(当教会では「分かち合い」と呼ばれていますね。どなたか由来を教えてください)の制定です。私たちの教会ではしばらく感染防止の観点からこの執行をお休みしていますが、この時こそ、「見えるみことば」を大切に覚え、キリスト礼拝の原点であるとも言えるこの箇所を深く大切に読み、新しい命豊かな歩みへとさらに漕ぎ出していきたいものです。

2022.03.17(日)の礼拝の週報