30│2021年07月25日 聖霊降10 憐みの福音

週句 農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊(とうと)い実(みの)りを待つのです
ヤコブの手紙5章7
説 教「史上最大のプロポーズ」牧師:高橋周也
    Ⅱコリント5:14 ~ 6:2

「心で読み、祈る聖書」
 伝統的な聖書の読み方あるいは祈り方に、「レクティオ・ディヴィナ」という方法があります。6世紀にモンテ・カシノ修道院を設立した聖ベネディクトが提唱したとされ、カトリック教会などでは現代でも用いられているやり方です。
 どの箇所を読む時にも用いることができると思いますが、特に詩編が好まれます。
 このようなやり方が推奨されています。
「① 詩編を一つ、ゆっくりと声を出して読む。
一つひとつの言葉を自分の心に触れさせながら。
②もう一度、ゆっくりと黙読する。今度は、どの言葉が自分の中にある思いを呼び起こしてくれるかを感じ取ろうとする。
③一行、二行分くらいを選ぶ。
④その言葉に自分の心を乗せてやるつもりで、声を出して読む。
三度、間をおいて、ゆっくりと読む。
自分の心とほとんど響き合わない言葉もたくさんあるでしょうが、それは気にしないでください。ただ、どの言葉も一度は心に触れさせてください。」
(来住英俊)『目からウロコ 詩編で祈る』女子パウロ会、2005年、86-87頁より)
 詩編には様々な言葉があります。賛美、喜び、悲嘆、怒り、苦しみ、試練・・・これらを通して先人たちが綴った言葉を繰り返し読み、その言葉で神に祈り願うとき、「学ぶ」のとはまた一味違うところで、深い喜びが与えられます。そのとき、神と私たちの間に心の対話が起こっているのです。私もよくこの方法を使って聖書を読んでいます。個人的に聖書を開くとき、礼拝で交読をするとき、詩編の言葉に心をのせて読みたいものです。皆様もぜひお試しあれ。

2021.07.21(日)の礼拝の週報

29│2021年07月18日 聖霊降09 異邦人の救い

週句 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。
   ヤコブの手紙3章17節
説 教 「そのとき、癒された」牧師:高橋周也
     マタイ8章5~13節

「そのとき僕は癒された」
 吉田満は、アジア太平洋戦争末期、特攻隊として戦地に向かう途中で戦艦大和に乗っていた人物です。果たして艦は目的地を前にして、米軍による攻撃を受け海に漂流し、その結果吉田は奇跡的に生還。吉田にとって、終戦後世間の多くの人は、戦時中の自らの行いを正直に振り返ることなしに、戦争や軍隊に関わる一切の事柄を否定さえすれば平和主義者になれると安易に考えているようでした。そんな世間に抗い、吉田は『戦艦大和ノ最期』を著します。「あとがき」にこのようにあります。「戦争を一途に嫌悪し、心の中にこれを否定しつくそうとする者と、戦争に反撥しつつも、生涯の最後の体験である戦闘の中に、些かなりとも意義を見出して死のうと心を砕く者と、この両者に、その苦しみの純度において、悲惨さにおいて、根本的な違いがあるであろうか」。こうした言葉から、戦争に巻き込まれてしまった若い軍人たちの生と死が「平和」の名のもとに覆い隠されてしまっている現実にハッとさせられます。
 その吉田がキリスト教信仰を得たのは、著書の草稿の読者であった神父とのであいによってでした。その日、神ともキリストと言うこともなしに、ただ吉田に向き合おうとした神父の姿に、吉田は「初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を与えられます。それは「神の息吹」とさえ感じられました。そこから「この現実の世界の中で、何に対し何を証しするかの命題を負う」という吉田のキリスト信仰が始まっていったのです。
 さて本日の聖書に登場する百人隊長は、「わたしの僕(=「我が子」とも訳せる)」のためにイエス様に助けを請いました。彼にとってどれほどその存在が大切だったことでしょう。その時、「僕」は癒やされたのです。
私たちにとって、「わたしの僕」はどこの誰ですか?

2021.07.15(日)の礼拝の週報

28│2021年07月11日 聖霊降08 生活の刷新

週句 憐れみは裁きに打ち勝つのです。
   ヤコブの手紙2章13
説 教 「驚きを取り戻せ」牧師:高橋周也
   マタイ7章15~29節

 本日の聖書箇所は、いわゆる「山上の説教」(5~7章)のまとめにあたる部分です。群衆はこれらの教えに非常に驚きました(28節)。律法学者のようにではなく、「権威」ある者としてお教えになったからでした(29節)。ここで言う「権威」とは、現代の日本語で言えば「著作権」に近いイメージを持ったことばです。イエス様は言葉と行いを通して、その死と復活によって、全世界全人類の創造主(=「著者なる神様」)を証してくださいました。「律法学者」のように誰かがつけた肩書によってではなく、イエス様のお姿、存在そのものが語りかけた言葉だから、「山上の説教」の言葉(「心の貧しい人々は幸いである」にはじまる8つの祝福、「あなたがたは地の塩である。世の光である」、「主の祈り」など・・)には、現代の私たちにも読むごとに何かを語りかけてくれる不思議な力があるのです。直接「山上の説教」を聞いた人々にとっても、非常な驚きでした。その驚きは、群衆を神様に出会わせ、人々がイエス様に従いゆく歩みの始まりとなるのです。
 物書きや作品づくりをする人は、誰でもその書き物や作品に対して、少なからぬ思いを込めます。ましてや神様が人間に対して持っているこだわりは相当に大きいのです。
 さて、今年の春以降に取り上げてきた他の「山上の説教」の箇所に比べて、一見すると今日のところには「驚き」が少ないように思えます。もしも茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れたのなら、「奇跡だ!」と言って驚くでしょう。あるいは普通に考えても「良い木」には「良い実」がなるだろうし、その逆も然りです。そうした因果応報のような話であれば、驚きはありません。しかし、十字架のイエス様と共に「岩」に立つ時、今日の箇所は私たちにとって非常な驚きとなって響いてくるのです。

2021.07.08(日)の礼拝の週報

27│2021年07月04日 聖霊降07 祈り

週句 
この御言葉(みことば)は、あなたがたの魂(たましい)を救(すく)うことができます。御言葉を行う人になりなさい。
ヤコブの手紙1章21~22
説 教 「どうか聞いてください」牧師:高橋周也
   歴代誌下6:12~21

「神様のレシピに必要な調味料」
 最近、私の愛読する月刊誌『カトリック生活』2021年7月号に掲載された古巣(ふるす)馨(かおる)神父の寄稿に深い感動を覚えました。ある五島の若い漁師が、祈りに生きる修道院のシスターたちを「鰹節のごと味のある人たち」と呼ぶそうです。
 鰹節を作る時、鰹(かつお)は捌(さば)かれ、熱い湯で煮られ、煙に燻(いぶ)され、天日干しされ、なんとカビを付けられて、乾燥され、熟成されていき・・・まだ終わらないのです。その後もまた何度も天日に干されると、今度は削られることになる。小さくされ元の姿を失った時、ようやく素晴らしい風味をもち、他の具材を引き立てるお出汁になります。神父さんはこのように書きました。「姿をなくしたとき、人はその深みと豊かさの元を尋ねるのです」と。
 さて神学校週間に寄せて考えてみますと、鰹が自由に暖かい南の海を泳いでいたと思っていたところから急に引き揚げられるように、人生には思いも寄らない出来事が飛び込んできます。もちろんそのことは直接献身を志す者の歩みにおいても決して例外ではありません。むしろその旅の途上においてこそ、ときに試練に遭遇し苦悶します。その期間の長短や出来事の意味は「鰹」(人)にはわからないのですが、鰹節の「作り手」(神)はそれらのことをご存知です。どのような歩の進め方になったとしても、今、神という職人が手塩にかけてこの人を作ってくださっているのだ、どんどん味わい深くされていく時なのだと、誰かが一緒に信じて祈り受け止めてくれるだけで、人は生き、変わり続けることができます。教会は特別にその使命を与えられた仲間です。私たちは共に労苦するならば、やがて御国にて主の食卓に招かれた際、その実にも与らせていただけることでしょう。神学生たちを覚えて祈りましょう

2021.06.30(日)の礼拝の週報

26│2021年06月27日 聖霊降06 主にある共同体

週句 この方こそ、真実の神、永遠の命です。
ヨハネの手紙一 5章20節
説 教 「教会のはじまり」牧師:高橋周也
使徒4:32~37

「一つであるとは?」 

 使徒言行録は教会の始まりにおいて、人々が「一つ」であったことを強調します(2:44,4:32)。
教会を誕生させた聖霊のはたらきのもとに、信者たちは一人の人格であるかのように行動し、まるでひとりの人であるかのように、キリストの命を共有したということでしょう。
 6月23日「命どぅ宝の日」は、第二次世界大戦時の沖縄における地上戦が終結したとされるこの日に、戦争に巻き込まれて亡くなったすべての命を覚える日として、女性連合を中心にバプテスト連盟全体で大切にされている日です。また、私はまだ十分に学ぶことができていませんが、岡山では1945年6月29日に1700人余りの犠牲者が出た岡山大空襲があったことを最近知ったばかりです。今日はその2つの日に挟まれた主日ですから、殊に命の大切さを覚えて礼拝を捧げたいものです。
 日本バプテスト女性連合発行『世の光』No.872、2021年6月号には、以下の祈りが掲載されています。キリストの命を共有する私たちにとって、傷つく他者の痛みは私たちの命の痛みです。

ぜひ私たちもこの祈りを共にいたしましょう。
<一年を通しての祈り>
・自然豊かな沖縄で軍事化が進み、誰もが安心して暮らせる基本的人権が脅かされています。かけがえのない命が最優先される政治を祈り求めていけますように。
・沖縄に立てられている教会の福音宣教の業を覚えて
<沖縄・時々刻々の祈り>
・コロナ不安化の住民をよそに、辺野古の埋め立て工事は今も強行されています。平和を求めて活動する人びとが守られますように。基地問題を日本全体で考え、自分のこととして取り組んでいけますように。

2021.06.26(日)の礼拝の週報

25│2021年06月20日 聖霊降05 生涯の捧げもの

週句 人の子は、失われたものを捜(さが)して救うために来たのである。
ルカによる福音書 19章 10節
説 教 「常に目を注ぐ」牧師:高橋周也
申命記11:13~21

「神の祝福と呪い」 
子どもの頃の学校の授業で、先生がこのような問いを投げかけた時のことを今でも印象深く覚えています。「人が死ぬとどう思うか」―私たちは口を揃えて答えました。「悲しいです」。続けて先生は私たちにこのように尋ねました。「では、必ずしもそう言えなくなる時があるとしたら、それはどんな時か」―教室中がシーンとなりました。しばらくの沈黙の後、ひとりが答えました。「戦争です」。
戦争では、死が情報化されます。例えば、敵が何人死んで味方が何人犠牲になったのかという具合に数量化されます。敵と比べて味方の犠牲が少なければ、たとえそこで人の命が失われていたとしても、「戦果」は喜びをもって受け止められ得るのです。命を奪われた人たちの人生や家族について、ほとんど気にされることはないと言ってよいでしょう。
コロナ禍がしばしば戦争に譬えられています。政府が国民に犠牲を強いるシステムは、かつての時代と似通っていると分析されます。では私たち市民はどうでしょうか。緊急事態宣言が(予定通りであれば)本日をもっていったん解除となりますが、日ごと発表される数字を私たちはどのように受け止めて来たでしょう。例えば私が目にしたいくつかの報道は、「死者が1桁」であること、あるいはワクチンによる副反応で犠牲になった人の割合(数)について、公然と「よかった」と評価しています。私たちの社会は、本人やご遺族の苦しみや悲しみに対して、あまりにも冷酷です。
主イエスはこのようにおっしゃいました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」(マタイ5章37節)
私たちの主は、人間の命を善いものと肯定(祝福)し、生命への不正と暴力、諦めと無関心に対して「否」と言われる方なのです。

2021.06.16(日)の礼拝の週報

25│2021年06月13日 聖霊降04 世の光としての使命

週句 

疲れた者、重荷(おもに)を負(お)う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11章 28節
説 教 「あなたを見て輝く」 牧師:高橋周也
マタイ5章13~16節

「立派な行い?」
ナチスが共産主義者を攻撃し始めたとき、私は声をあげなかった。なぜなら私は共産主義者ではなかったから。次に社会民主主義者が投獄されたとき、私はやはり抗議しなかった。なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。労働組合員たちが攻撃されたときも、私は沈黙していた。だって労働組合員ではなかったから。そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる人は一人もいなかった。

これは神学者で反ナチ運動家であったマルティン・ニーメラー(1892-1984、ドイツ)のものとされる言葉です。
彼の言うところの「声をあげなかった」「沈黙していた」人とは、今日の箇所で言えば「もはや何の役にも立たない」、「塩気のなくなった塩」のような人ということになるのでしょう。そういう人たちは、「人々に踏みつけられるだけである」と聖書に書かれています。
ところが現実には「声をあげる」ことは、あるいは「立派な行い」をすることは目立つことであり、非常に勇気の要ることです。世間の常識では、むしろ逆に、声をあげることによって人々に踏みつけられる(「たたかれる」、「出る杭は打たれる」)のではないでしょうか。おとなしくしていたほうがひどい目に遭わずに済むのではないかと考え込んでしまいます。「人々に踏みつけられた声」がたくさんあることもまた、私たちは心に留めておきたいところです。
さてイエス様は、貧しい人、悲しむ人々、義に飢え渇く人々・・・そういう「あなたたがた」が「地の塩、世の光」だと宣言なさいました。そういう人たちの「立派な行い」によって、天の父はあがめられるようになると言うのです。ではそもそもこの「立派な行い」とはいったい何のことなのでしょうか・・・。

2021.06.11(日)の礼拝の週報

24│2021年06月06日 聖霊降03 悔い改めの使信

週句 

あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒(こば)む者は、私を拒(こば)むのである。
ルカ10章16節
説 教 「もっとねきーこられー」牧師:高橋周也
     マタイによる福音書3章1~6節

「悔い改めよ、天の国は近づいた」
荒れ野で叫ぶ洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)の姿は、2000年前のユダヤの人々にとっても、異様なものと映ったに違いありません。彼は昔の預言者の格好をすることによって神の民の歴史を身をもって示し、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えつつ、多くの人にバプテスマを授けました。
バプテスマのヨハネは、「問う人」であったとも言えます。なぜなら彼が荒れ野にいた理由は、おそらく主を求めて修養していたからです。これは旧約聖書の伝統にもあることでした。また、より直接的に聖書に描かれていることとしては、今日の箇所から少し後のところ(マタイによる福音書11章)になって、イエス様に問う場面があります。バプテスマのヨハネはときの王に捕らえられて牢に入れられ殺されてしまうことになりますが、獄中からイエス様につかいを送って、「来るべき方はあなたなのですか」と聞いたのです。ひょっとしたら、イエス様はバプテスマのヨハネが思い描いていた通りの方ではなかったところがあったのかもしれません。彼は、宣べ伝えると同時に問い続ける人でありました。
実は、バプテスマのヨハネが宣べ伝えた「悔い改め」は、「問い続ける」ことと一つのことです。
私たちは今、「新しい生活様式」「緊急事態宣言」という“荒野”、あるいは“牢”の中に投げ込まれています。私たちは、この時代、この地に立たされた者として、バプテスマのヨハネの姿を見、その言葉に聞くよう招かれています。そうしてみるとき、これまで根ざして来たことが徹底的に命をもって、わたしたちに迫って来るのではないでしょうか。「悔い改め」には、新しい時代に向かって大胆に踏み出していくための力があるのです。

2021.06.03(日)の礼拝の週報

23│2021年05月30日 聖霊降02 神の富

週句 

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
コリントの信徒への手紙二  13章 13節
説 教 「命の現場にいることをわたしたちは知らない」
創世記28:10-19

「見よ、主が傍らに立って言われた」
ヤコブは母の愛を利用して兄を裏切り、眼が不自由になった父を騙して、相続の特権を手に入れようとしました。そのために兄から憎まれ、家には居られなくなり、逃げ出してきました。孤独なさすらい人ヤコブは、ここで神との出会いに導かれます。自らの行いによる罪とはいえ、苦しく辛い人生を生きる者がほんのひと時の眠りを与えられる夜、主は夢を通してヤコブと出会ってくださいました。
「見よ、主が傍らに立って言われた。」(創世記28:13)・・・この「傍らに」を新しい協会共同訳は「そばに」と訳しました。そして、ヘブライ語本文では「彼の上に」立っているので、ある人は「向かい合って」とも訳します。そうすると、石を枕に寝ているヤコブを見つめる主なる神様というイメージがより豊かにされる気がします。神様はこれまでのヤコブの人生を真正面から見つめ続けて来られたのです。
意外なことに、主なる神様は、ヤコブの罪を非難したり??りつけたりすることはなさいませんでした。神様はヤコブに「御心を告げるために出会った」のであり、「私はあなたの神である」、祖父アブラハムに与えた祝福の約束は「今なお委ねられている」と仰せになるのです。ヤコブのことを不問に処すというのではありません。「あなたがどこへ行っても」とは、ヤコブが何故どこかへ行かなければならなくなったのかという問題を言外に含むからです。
「ここはベテル(神の家)だ!」そう気づいた時、その畏れが私たちに生きる意味を与えます。私たちは、今どこへ向かって旅をしているでしょうか?何のために生き、何のために苦しみ、何のために旅を続けるのでしょうか。「それは私のためだ」と主は私たちの真正面から私たちを見つめて、そうおっしゃるのです。  高橋周也

週句 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
コリントの信徒への手紙二  13章 13節


2021.06.03(日)の礼拝の週報

22│2021年05月23日 聖霊降01 聖霊の賜物

週句 

武力によらず、権力によらず
ただわが霊によって、と万軍(ばんぐん)の主は言われる。
ゼカリヤ書4:6B
説 教「安息日が人のものになるために」牧師 高橋周也
    マタイ12:14~21 3

「愛の挑戦に生きる群れとして」
本日は「聖霊降臨(ペンテコステ)」の出来事を記念した礼拝の日です。イースターから50日目に弟子達に聖霊がくだり、そこから「教会」が生まれたことを記念する礼拝の日です。キリスト教においては「教会の誕生日」とも言われます。実はキリスト教の母体であるユダヤ教にとっても大切な日であり、「七週祭(五旬祭)」と呼ばれ、夏の収穫感謝祭、同時に神様から律法が与えられた恵みに感謝する日となっています。もともとユダヤ教徒であったイエス様の弟子たちがその祝いために集まっていた時、そこに聖霊が降ります(使徒言行録2章)。聖霊によって新しい共同体が生まれ、「教会」と呼ばれるようになっていきます。
2000年間にわたって世界中で聖霊に突き動かされた数々の主の弟子たちの働きと信仰が受け継がれ、やがて1951年、この地に岡山バプテスト教会が誕生したのです。
先日の役員会で話し合い、今年は宣教70年を覚える年として、教会員の方々に短く証をお願いすることになりました。今日に至るまでの70年間、その歩みの一つひとつに聖霊の導きと支えがあったことを共に振り返り、改めて今、神様と仲間(教会家族)と共にここにあることから出発して、主が与えてくださるさらなる未来へと開かれていきたいと願っています。
本日の箇所に先立ってマタイ12章前半でイエス様が行われたことは、愛の挑戦です。当時のユダヤ教の生き方の中で誰も踏み出したことのない領域へと歩を進めた出来事でした。イエス様は、神の民のアイデンティティーは、律法を細かに守って生きることを超えた神様の憐れみにあることを告げ、そのように生きられたのです。私たちのこれからの歩みにも、その主の霊が注がれています。

2021.05.21(日)の礼拝の週報