33│2022年08月14日 聖霊降臨11 主に従う道

週 句 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
聖書    マタイによる福音書5章9節
説 教 「降伏―いのちの軌道修正」高橋周也牧師
聖書    エレミヤ書38章14~28節

「平和を実現すること」
 本日の分級の聖書箇所はマタイによる福音書5章9節の一節のみで、大変短いものでした。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5章9節)という主イエス様の言葉を、私たちは今日どのように受けとめるでしょうか。
 イエス様から遡ること約600年、本日の礼拝説教の箇所において、傀儡の王ゼデキヤは預言者エレミヤを通して、神の言を聞くことを願い求めました。王は降伏が平和への道だと促(うなが)されます。ところがついにそれに従うことができませんでした。神の言は聞かれること、私たちによって生きられることを待っています。
 先日ある国から命狙われるバプテストの仲間の声を聞きました。そのM師の語られた「いつになったら私たちは(どん底の)谷底に降りられるのだろうか」という一言が、心に突き刺さって残っています。既に大変悲惨な状況に置かれた方が、これからもさらにひどい状況に置かれることを覚悟しておっしゃられたその言葉には、何とも言えない重みがありました。その言葉を心に繰り返しながら先週水曜日のお祈り会で読んだ詩編23編の言葉に、真の平和への道を見出した気がしました。
 「私を苦しめる者の前であなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ私の杯を満たされる。命あるかぎり恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう日の続くかぎり。」(詩編23編5~6節/協会共同訳)
         

2022.08.12(日)の礼拝の週報

32│2022年08月07日 聖霊降臨10 キリストの体

週 句 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
聖書    エフェソの信徒への手紙6章10節
説 教 「忘れ得ないこと」高橋周也牧師
聖書    エレミヤ書36章9~26節

「神の言葉は永遠に立つ」
 戦時中の教会のことは、子ども心に残っています。(中略)父の礼拝ノートを母が一枚一枚破って、七輪で燃やしていたことなどを想い起します。― 藤澤一清遺稿集『にもかかわらず、教会を信じる』pp.79-80
 預言者エレミヤの語った言葉が記された巻物(つまり聖書)が王に向かって朗読されました。その巻物が記されたのには、巨大な軍事力が自国の敵となって向かってくる時代、「それぞれの悪の道から立ち帰るかもしれない」(3節)という神様の期待があったといいます。巻物の朗読を聞いた王は、聞いたそばからその巻物をナイフで切り裂き、暖炉の火にくべて燃やし尽くしてしまいました。また一緒に聞いていた側近たちも、誰も恐れを抱くことがありませんでした。(23~24節)しかし驚くべきことに、神の言葉は再びすべて書き直され、それを機により整えられもしたのでした(32節)。燃える火のような人の罪があります。しかしそれでもなお、人に向けられた愛なる神様の心が消えてしまうことはないのでした。
 今月の礼拝では、私たち岡山バプテスト教会が加盟している日本バプテスト連盟の「平和宣言」を、4週に分けて交読することにしています。体制に取り込まれ戦争に加担した過去の教会の過ちを反省し、平和の主の招きを受けている者たちの群れとして、私たちの歩みを整えたいものです。             


2022.08.05(日)の礼拝の週報

31│2022年07月31日 聖霊降臨9 神による完全な武器

週 句 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
聖書    エフェソの信徒への手紙5章1節
説 教 「熱狂と暴虐の間」高橋周也牧師
聖書    使徒言行録7章44~8章1節a

「熱狂と暴虐の間」
 3週間前、私たちの国の元首相が凶弾に倒れました。それから数日間、繰り返し家庭のお茶の間には、銃声や殺人現場の映像が流れることになりました。私たちがボーっとくつろいでいる時にも、食事をしている時にも、私たちはその死に晒(さら)されることを強いられました。後日政治とカルト宗教のつながり問題が露わになり、現政権が法的根拠のない「国葬」を閣議決定し、波紋を巻き起こしています。死に晒されることは人間にとって大きなストレスであります。銃声や一連の報道は、少なからず私の心も重くしました。
 この1週間の間にはまた、ひとりの死刑囚の刑執行の報を受けました。死刑制度の問題において、理由が正当化されていたとしても、刑の執行者に大きな心理的負担がかかることがよく知られています。戦争から帰ってきた軍人たちも多く心を病んでいます。人にとって死は過大な負担であり、人を殺すことは決して簡単なことではありません。それだけにどんな死も軽く扱われてはならないのです。
 ステファノはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか。その死を目撃したサウロ(回心前のパウロ)にとって、その死はなんであったのでしょうか。無分別な(エフェソ5章17節)世界の中で、ステファノは御心を求めて生き、死にました。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」―このキリストの弟子の信仰が、今日の私たちを死の中から立ち上がらせてくれるでしょう。

2022.07.29(日)の礼拝の週報

30│2022年07月24日 聖霊降臨8 神からの真理

週 句 真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
聖書    エフェソの信徒への手紙4章24節
説 教 「教会らしいこと」 高橋周也牧師
聖書    使徒言行録6章1~7節

「創造され続けているがゆえに」
 あるカルト宗教についての報道が続いています。当該宗教は組織的に信者に対して過度な献金や働きを強いたり、「救い」や「祝福」の条件を提示し、その教義によって信者を脅したり競わせたりすると言われています。一部の人の利益のために、飢え渇いている人を巧みに操り、さらに苦しめてしまうのです。
 では、キリスト教はどうでしょうか。教会が(つまり、私たち一人ひとりが)、「神の言葉をないがしろにして」(2節)しまうならば、その途端に福音は後ろに退けられてしまうでしょう。奉仕からも愛や思いやりが失われてしまい、さながらブラック企業の労働のようになってしまうかもしれません。けれど、私たちは誰かの利益のため、自分自身の救いのために伝道するのではありません。(もちろん教会の維持のためでもありません)
 「人はパンだけで生きるものではない」(ルカ4章4節)。心と魂も潤され満たされる必要があります。礼拝で人は人間を回復するのです。それは今も続く神様の創造の業なのです。教会は神様のものであるという事実が、私たち自身と、世の人々を守ります。私たちは神様の業の参加者であり、また、目撃者として生きるよう召されているのでしょう。
  イエス様は私たちと共にいて、私たちを私たちらしくあらせてくださいます。そこでは誰一人「軽んじられ」(1節)てはなりません。本日の箇所は改めて私たちに、神の民が何を第一として生きるのかを教えてくれているように思います。
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2022.07.22(日)の礼拝の週報

29│2022年07月17日 聖霊降臨7 パン種に注意せよ

週 句 神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
聖書    エフェソの信徒への手紙3章19節
説 教 「イエスの最後の言葉とは?」西原 寿
聖書    詩編22編2~6節、25~32節

「神の沈黙」 佐野清文
 詩編22編の詩人は、バビロン捕囚の時代に解放とエルサレム帰還を訴え、拘束され、処刑されたともいわれています。
 詩人は拘束されます。しかし、「呼び求めても答えてくださらない」(詩編22:1)と神に訴えます。神は沈黙したままです。今までの歩みを思い返します。「助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたにより頼んで、裏切られたことはない」(詩編22:6)と。そして、いつしか賛美に変わります。「貧しい人は食べて満ち足り 主を訪ね求める人は、主をさんびします。いつまでの健やかない命が与えられますように」(詩編22:27)と、賛美とともに祈ります。
 イエスさまの弟子たちはその詩人とイエスさまの十字架を重ねて見ます。マタイによる福音書でイエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれたとあります。その嘆(なげ)きの捉え方は信仰により様々です。パウロは、「このお方が、十字架の上でわたしたちの嘆きと不信仰を背負ってくださった。そして今もわたしたちと共に生きてくさっている」と考え、福音を伝えることに命をささげました。そして、その生き方は、詩人やイエス様のようになりました。
 私たちの生き方はどうでしょうか。先人のように未来に向けた歩みができれば幸いです。

2022.07.15(日)の礼拝の週報

28│2022年07月10日 聖霊降臨6 神の計画

週 句 実に、キリストはわたしたちの平和であります。
聖書    エフェソの信徒への手紙2章14節
説 教 「矛盾を生きる自由」 高橋周也牧師
聖書    エレミヤ書32章24~27節、36~44節

「とまどいから愛ゆえの応答へ」

国が崩壊し民の捕囚が間近に迫る状況下で、エレミヤは故郷アナトトの親族の畑を買い取るよう命じられます。エレミヤは正しく世界を見つめていた人ですから、この神様の命令は理解に苦しむものでした。ですから、本日の箇所には、そのとまどいがありありと表現されています。何しろ軍事力の脅威にさらされ飢饉と疫病が蔓延するなか(残念なことに我々が生きる2022年も、それらを全く他人事と思えません!)、エレミヤは「今この時にそれをせよと言うのですか?」と当惑を隠せませんでした(24~25節)。やがて、土地を買った時の購入証書が有効になる時(バビロン捕囚の終わり)が来るのですから、この時のエレミヤには心底理解できなかったとしても、この導きにはきちんとした意味がありました。
今、ここでエレミヤは厳しい現実そのものを突きつけられつつも、その上で神様の約束を見るように促されているのでしょう。今回の神様の導きは、知的な理解というよりも、むしろ心で受け、愛によって応答することが求められていると言えます。「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(38節)のは、神様が全能の力によって民に服従を強いることによって実現するのではありません。神様が民に喜びをもって恵みを与えることによって、人々に神様を仰ぐ心を形づくってくださることによって成就するのです(39~42節)。

2022.07.07(日)の礼拝の週報

27│2022年07月03日 聖霊降臨5 宣教への派遣

週 句 いつも、塩で味付けされた快(こころよ)い言葉で語りなさい。
聖書    エフェソの信徒への手紙1章3節
説 教 「もっと、あなたがたへ」 高橋周也牧師
聖書    エレミヤ書30章18節~31章6節

「廃墟の上にあるべき姿を」
「都は廃虚の丘の上に建てられ、城郭はあるべき姿に再建される」(30章18節)
 エレミヤ書30~33章は「慰めの書」と呼ばれ、神様による救い(再建)が語られます。再建は「廃墟の丘の上」になされます。「廃墟の丘」とは、単にエルサレム神殿や街の状態を指すのではないと思います。そもそも民たちは、真の神を真の神としないことによって道を逸れて行ったのでした。ですから、そこにあった様々な過ちや不信仰・不道徳が幾重にも重なって、いまや丘のようになっているのです。そして神様は、それをなかったことにするのではなく、「その上に」あるべき姿を再建するのです。つまり「再建」は、瓦礫の後片付けから始まります。いわばマイナスからのスタートです。民は罪とその傷跡に向き合わなければなりませんでした。その人には到底太刀打ちできない困難に、主の御手が伸べられるのです。神様が関わってくださって、ようやく民は「あるべき姿」を取り戻すのです。
 その「あるべき姿」とは何でしょうか。それは「昔のように」(20節)なることですが、民が望んでいたダビデ・ソロモンの時代のイスラエル王国の「?栄」に返り咲くことではありません。それは「ヤコブの天幕の?栄」(18節)であって、エジプトを脱して、荒れ野で一つになり神を礼拝した日々のことです。「再建」は、神を賛美する民が「増やされる」(19節)ところ=礼拝の回復にあったのです。

2022.07.01(日)の礼拝の週報

26│2022年06月26日 聖霊降臨4 悪霊追放

週 句 いつも、塩で味付けされた 快(こころよ)い言葉で語りなさい。
聖書    コロサイ信徒への手紙4章6節
説 教 「2年か、70年か」高橋周也牧師

「変わらないもののために」
 世界的なラーメンチェーン店博多一風堂は、「変わらないもののために変わり続けていく」というステートメントを掲げています。その実践が変化の時代の中で生き抜き、発展を続ける力の原点であると分析されているようです。私たちは「とこしえに変わることがない」主の言葉を福音として語り告げられた(Iペテトロ1:25)神の民として、どのように生きるのでしょうか。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6-7) 
 神様は預言者エレミヤを通して民に、バビロン捕囚の状況に合わせて積極的に生きるよう命じます。やがてこの「神殿なき時代」に人々は、バビロンにおいて礼拝をむしろ回復し、私たちが手にしている旧約聖書の大半を編纂することになるのです。
 さて今日から月に一度の「みなカフェ」が始まります。小さな変化です。しかしこの試みが、互いに祈りつつ私たちの足許をよく見つめて恵みを発見し、教会がいのちをもってさらに生き生きとした歩みへと繋がっていくよう願います。


2022.06.26(日)の礼拝の週報

25│2022年06月19日 聖霊降臨3 伝道する教会

週 句 愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
聖書    コロサイ信徒への手紙3章14節
説 教 「神のイノベーション」 高橋周也牧師 
聖書    エレミヤ書18章1~12節

「神のイノベーション」
 エレミヤ書は、突然危機に見舞われ、弱さの中に置かれた神の民に向けて語られたメッセージです。真摯に向き合おうとすればするほど、私たちはもはや聖書を、今私たちが置かれた世界から切り離し、あるいは自分とは全く関係のない読み物とすることはできないでしょう。
さてほんの数年前まで私たちは、現代社会はある程度自分たちの力で形作ってきたつもりになっていたかもしれません。ところが、ひとつウイルスが流行した「だけ」で、大混乱に陥りました。突然弱さの中に置かれたとき、神様と人との関係が問われます。私たちが本当には何者であるかを突き付けられるからです。エレミヤが陶器師の姿に主からのメッセージを受けたように、私たちもまた日常置かれた場所で、神様のメッセージを聞き取りつつ生きる。生かされ出会ったすべての状況には、私の聞くべき神様からのメッセージがあると信じる。神様が最善へと導いてくださっている。そう信じて生きる時、厳しい状況に直面したままにも関わらず、そこで私たちは主の愛に抱きしめられ、この現実に介入してくださる神様の力ある業を見ることになるのです。
「見よ、わたしは新しい天と地を創造する」(イザヤ書65章17節)

2022.06.17(日)の礼拝の週報

24│2022年06月12日 聖霊降臨2 神の子とする霊

週 句 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
聖書    コロサイ信徒への手紙2章3節
説 教 「人々に注がれたもの」高橋牧師
聖書    使徒言行録4章32~35節
「祈り:愛を情報化しないこと」
 今月から毎週の祈り会を始めすでに2回目を数えました。この祈り会は、レクチオ・ディヴィナという方法で聖書を読むことから始まります。呼吸を整え、御言葉に耳を傾け、心身で味わうことを大切にします。まだ祈り会では紹介していませんが、ときには聖書を書いた方に向かって、「そんなふうに感じておられたのですね」とか、「そんなことがあったんですね」と会話をしてみてもよいのです。慣れてくると“霊”の助けを得て、全体の中からどの箇所が自分に語りかけ、存在と響き合うかを具体的に感じ取ることができるようになります。
 私たちは情報社会を生きています。ですから死者数や感染者数は数値化されて伝えられますが、その時人の人生の物語が顧みられることは稀です。命が情報化されるとき、感覚的なものが排除され、存在が愛されなくなるということにつながるでしょう。同様に「聖書はだいたいこんな話である」「とにかく大事なものである」と情報化してしまっては、神様の愛を十分に受けとめているとは言えないのです。初代教会において人々が持ち物を分け合い暮らしていた時、その分配は情報や規則によってではなく愛によって行われていました。私たちが聖書の言葉を大事にすることは、私たちと人々とが互いに愛し合うことでもあるのです。

2022.06.17(日)の礼拝の週報