03│2021年01月10日 降誕03 イエスのバプテスマ

週    句

神の霊によって導かれる者は、みな神の子なのです。
ローマの信徒への手紙8:14
説  教  「イエスキリストの出来事」

サム上16:1~13a、ローマ6:12~23、マタイ3:3~17、詩編2:1~12。
ユダヤの荒れ野で教えを述べ伝えていた洗礼者ヨハネのところに、イエスが洗礼を受けるために来られました。ところがヨハネはそれを思いとどまらせようとします。
洗礼は罪から離れて神と共に生きることです。罪の奴隷ではなく神の奴隷として生きる約束。ヨハネは志願者に悔い改めを迫り、神の奴隷として生きる洗礼を授けていました。だから、イエスが洗礼を受けたいと願われた時、ヨハネはとどめたのです。「あなたは罪の奴隷でもなければ、神の奴隷でもない」と。
しかし、イエスが洗礼を受けられるのは王として即位されるためです。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させ」(詩編2:6)るという神の預言の成就です。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)との声がそのことを表していますが、ヨハネはまだ気づいていません。
預言者サムエルも人間的な思いに目がくらんだ一人です。エッサイの息子エリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」(サムエル上16:6)と勘違いします。だから神はダビデを目の前にしたサムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」(サムエル上16:12)と声をかけ、神の選びの本質を告げられました。今またヨハネも「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)とのイエスの言葉を聞き、イエスにバプテスマを授けます。そして、イエスは十字架と復活への第一歩を踏み出されました。
パウロはこのイエスの洗礼からさらに、「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げ」(ローマ6:13)よとのメッセージを受け取ります。イエスが救いの道を先導されるのだから、私たちもこの身を献げてその後に従おう、と。そしてパウロはその道を走り通しました。今、私たちもその道に招かれています。
「礼拝と音楽」より

2021.01.06(日)の礼拝の週報

02│2021年01月03日 降誕02 エジプト避難

週    句

私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書1:14b
説  教  「放ってはおけないパウロ」 

エレミヤ31:15~17、Ⅱコリ1:3~11、マタイ2:13~23、詩編70:2~6。

「『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も見な同様であった」(マタイ2:2~3)
イエスの誕生は救いの希望であると同時に、恐れを引き起こしました。幼子を抱えた家族もその混乱の中に投げ込まれます。しかし、彼らは知っています。「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場」(詩編70:6)。どのような状況であろうとも神以外に助けはないということを。
ヨセフは「救われた」から信じるのではありません。「あなたの苦しみは報われる」「あなたの未来には希望がある」(エレミヤ31:16~17)という神の言葉を聞き、信じているのです。だからヨセフは、「これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけ」(Ⅱコリント1:10)ることができたのでしょう。
すると、ヨセフの夢を通して神の声が聞こえます。「エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」(マタイ2:13)。そしてヘロデが死ぬと再び夢を通して神の声が聞こえます。「起きて、子供とその母を連れ、イスラエルの地に行きなさい」(2:20)。いずれも「ヨセフが聞きたかった声」ではなく、「その時に必要だった声」です。
神の声は「聞こうとしている時」に聞こえてきます。しかも、自分の思いも寄らない方法も含めて、ありとあらゆる方法で聞こえてきます。だから、いつも耳をそばだてて、しっかりと聞かねばなりません。いつも「聞く」姿勢を整えていなければなりません。その積み重ねこそが苦難の備えとなり、「これからも救ってくださるにちがいない」という希望になるのです。
「礼拝と音楽」より

2021.01.06(日)の礼拝の週報

01│2021年01月01日 降誕節 命名日

週    句

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
ヘブライ人への手紙13:8
説  教  「キリストの降誕」

イザヤ9:1,5~6、Ⅰヨハネ4:7~14、ヨハネ1:1~14、詩編29:1~11。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました」。救い主イエスの誕生は、神が私たちを愛しておられるしるしです。(Ⅰヨハ4:9)。
自分を取り巻く現実が「暗闇だ」と自覚している人もあるでしょうが、多くは「暗闇とまでは言えない」と思っています。一方、「光の中を歩んでいる」と自信を持っている人も多くはないでしょう。
何となく重い空気がのしかかっている、それが私たちの現実ではないでしょうか。神を神ともしない現実。信仰を持つことを弱さの象徴と捉える現実。その中にあって、神と共に歩むことの苦しさを感じています。時にそれは、神への躓き、信仰への躓きとなることさえあります。
2000年前の現実もまた同様であったのではないでしょうか。漠然とした不安と自己満足に囲まれ、閉塞感に包まれていた中に、神は独り子を遣わされました。その誕生によって、たちどころに世界は変わることはありませんでした。それをわかっていながらもなお、神は私たちを愛して、「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(Ⅰヨハ4:10)。神を神ともしない現実を見捨てることなく、もう一度光の下へと引き上げられるのです。漠然として暗闇の中にいる一人ひとりに光を示されるのです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」(イザヤ9:1)ました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照ら」(ヨハネ1:9)します。今、私たちにもその光が示されました。私たちにできることは「御名の栄光を主に帰」(詩編29:2)すること、自分ではなく神を誇ることだけです。神に感謝して平和の道を歩みだすのみです。
その道は茨の道かもしれません。しかし、インマヌエルの神がいつも共におられます。神の愛はすでに私たちに示されています。その愛に応えて今、一歩を踏み出しましょう。
「礼拝と音楽」より

2021.01.06(日)の礼拝の週報

53│2020年12月24日 降誕日讃美礼拝

キャロルの夕べ2020

光は闇の中に輝く
いざ我ら、大いなる出来事を歌わん!
ロゴス賛歌を軸にし
前奏                         20:00
招きの詞  「いざ我ら、大いなる出来事を歌わん!」
序曲  《シンフォニア》ヘンデル『メサイア』♯1
よびかけ①    イザヤ書11:1~10
さんびか  《慰めよ》《谷は全て》(『メサイア』♯2,3):独唱
よびかけ②    ヨハネによる福音書1:1~5
さんびか  新生254《喜び迎えよ》          :一同
よびかけ③    ヨハネによる福音書1:10~11
さんびか  新生184《マリアより生まれたもう》  :独唱
よびかけ④    ヨハネによる福音書1:12~13
間奏   《神のなしたもうことに理あり》パッフェルベル
        (津上眞音編曲)
よびかけ⑤    ヨハネによる福音書1:14
おはなし      「光 の 到 来 」 
さんびか  新生200《諸人こぞりて、いざ迎えよ》  :一同
献金  《ガブリエルのオーボエ》エンリコ・モリコーネ
さんびか《ハレルヤ・コーラス》『メサイア』♯4   :一同
後奏   

2020.12.30(日)の礼拝の週報

54│2020年12月27日 降誕01 東方の学者たち

週    句

言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネの福音書1:14a
説  教  「東方の学者たち」

東方の学者たち
イザヤ60:1~6、エフェ3:2~12、マタイ2:1~12、詩編27:1~6。
「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(イザヤ60:3)。イエスの降誕は第一義的にはイスラエルの救いのためでしたが、その初めから全ての者に開かれていました。イスラエルも含めて、「救いに値する」という自信も無い者全てにです。
天に輝く星は、その下にいる者全てを照らします。イエス誕生を知らせる星は全ての人の上に輝いていますが、その光に気づく者はいませんでした。毎日、星を見ていた占星術の学者たちを除いて。彼らはいつも星を見ていたので、わずかな変化に気づくことができたのでしょう。しかし彼らは「東の方」から来た異邦人でした。救いの外側に置かれている異邦人が最初に気づく。これもまた逆説的です。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)学者たちもまた、インマヌエルの神と共に歩むために一歩を踏み出しました。
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(マタイ2:9)。星に気づいたばかりでなく、異邦人の彼らがエルサレムの人々よりも先に救い主と出会います。「異邦人が……わたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」(エフェソ3:6)世界の始まりです。救いを独占することなく、全ての者と分ち合う世界の始まりです。
私たちも今、その世界に生きています。クリスマスの出来事を通して救いを繰り返し体験しています。そして、私たちの上にも星は輝いています。「主はわたしの光、わたしの救い」(詩編27:1)。救いを知った私たちは、その輝きをこの世に示していく道、「全てのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画」(エフェソ3:9)を世に証ししていく道へと招かれているのです。
「礼拝と音楽」より

週    句

言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネの福音書1:14a


2020.12.26(日)の礼拝の週報

52│2020年12月20日 降誕前節1 告知

週    句

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピの信徒への手紙4;4、5b
説  教  「告知」

イザヤ7:10~14、黙示11:19~12:6、マタイ1:18~23、詩編46:2~12。
詩人は「神はわたしたちの避けどころ」(詩編46:2)と歌い、人々は救いの到来を今か今かと待ち望んでいました。しかし、その救いを待っているはずのイスラエルが、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(イザヤ7:2)とうそぶくのです。ただ神に救いを求めれば良いにもかかわらず、素直に弱みを見せようとはしません。
そこで神は直接的に、強制的にこの世へと介入されます。暗闇のこの世に、「夜明けとともに、神は助けをお与えになる」(詩編46:6)のです。そして、「わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられ」(イザヤ7:14)ます。そのしるしとは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産」(イザヤ7:14)むこと。イエスの誕生こそ神の介入のしるしです。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたこと」(マタイ1:22)。先駆者によって示されていた救いの実現です。それはまた、「わたしたちの避けどころ」(詩編46:2)である神が、「インマヌエル=主はわたしたちと共にいます=神は我々と共におられる」(イザヤ7:14、詩編46:8、マタイ1:23)しるしです。
しかし、救いは何の苦しみもなく与えられるだけのものではありません。ある意味では痛みを伴うものであり、不安を伴うものでもあります。特に、自分の常識に囚われている人にとっては、根幹を揺るがされる大変な事態でしょう。(黙示12:2)だから人々は救い主を受け入れず、迫害してしまうのかもしれません。自分の期待通りの救いが来なかったとうそぶいて、自分が変わることを恐れているのです。
そのことがわかっていながら、神はその独り子を世に送り出そうとしておられます。約束の時は近い。そう時が告げられています。今こそ、「インマヌエル」の主を呼び求めましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.12.21(日)の礼拝の週報

51│2020年12月13日 降誕前節2 先駆者

週    句

主のために、荒れ野に道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びてこられる。
イザヤ書40:3、10
説  教  「先駆者」

士師記13:2~14、フィリピ4:4~9、マタイ11:2~19、詩編113:1~9。
「神に愛されている人は、神からの恵みをたくさん受けている」。これが、旧約聖書の時代の常識でした。裏返せば、恵みを受けていない人は神から愛されていない、救いの範囲外にあると考えられていました。
その意味において、サムソンの母も洗礼者ヨハネの母エリザベトも、最も主の来臨を待ち望んでいた一人だったと言えるでしょう。彼女たちは当時、不妊の女とみなされていました(士師13:2~3、ルカ1:7)。神は人の常識を超えて働かれ、「子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる」(詩編113:9)。
しかも、その時生まれた子どもは単なる子どもではありません。救いの先駆者として、彼らはこの地上に生を受けたのです(士師記13:5、マタイ11:10)。
この事実は、大変逆説的です。恵み、救いから遠いと思われていたところが、実は最も近い場所だったのです。そしてこの事実はまた、救いを待ち望みながらもなお神の言葉を聞かないイスラエルに対する神の姿勢を示しています。
「主は御座を高く置き/なお低く下って天と地を御覧になる」(詩編113:5~6)
自分の常識に囚われて神に立ち帰ろうとしない、いわば救いから最も遠い場所にいるイスラエルに、先駆者を通して救いが指し示されます。最も高い所におられる神が、最も低い所へ来られるという救いが。
にもかかわらず、イスラエルの人々は未だ救いを受け入れようとはしません。先駆者に学ばず、「わたしから学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行」(フィリピ4:9)せず、自ら平和の道から外れようとしています。それでもなお神は救いを諦めていません。今、神の言葉に応え、神との約束を守る私たちを通して、救いはなお指し示されているのです。
「礼拝と音楽」より

2020.12.15(日)の礼拝の週報

50│2020年12月06日 降誕前節3 旧約における神の言

週    句

身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
ルカによる福音書21:28
説  教  「旧約における神の言」

イザヤ59:12~20、ローマ16:25~27、マタイ13:53~58、詩編96:1~13。
人々はずっと主の来臨を希望しています。しかし、その日がいつ来るかは誰も知りません。
神の計画は人の目には隠されていますが、この計画はイエス・キリストの来臨として実現されます。「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するもの」(ローマ16:25)です。ところが、人々は主の来臨の希望を持っているにもかかわらず、神の計画に気づきません。それは、「人々が不信仰だった」(マタイ13:58)からです。
不信仰とは神の言葉を聞かないことを指しています。旧約聖書の昔から神は直接に、また預言者を通して、この世界に語りかけてこられました。しかし、自分たちに都合の良い言葉ばかり求める人々は、神の言葉に躓きます。自分の常識から外れている事柄に目を閉ざします。事実、イエスが誕生した後も、人々は自分の思い込みを押しつけ、救い主であることを認めようとしませんでした。(マタイ13:57)
そのような不信仰に対して神は「人の業に従って報い」(イザヤ59:18)「諸国の民を公平に」(詩編96:10)裁かれます。この神の公平さもまた、私たちの躓きの原因となり得ます。「何をしても裁かれるという事実が変わらないならば、信じても無駄だ」と。福音に躓き、不信仰となり得るのです。
しかし同時に神は、罪を悔いる者を救うとも言われています。「主は贖うものとして、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者として来」(イザヤ59:20)られるのです。そうであるならば、今こそこの神の言葉に応え、「背きの罪はわたしたちと共にあり/私たちは自分の咎を知っている」(イザヤ59:12)と自らを省みる時です。そして、しっかりと神の言葉に聞きつつ、来るべき「その日」を待ち望みましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.12.07(日)の礼拝の週報

49│2020年11月29日 降誕前節4 主の来臨の希望

週    句

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書9:9
説  教  「主の来臨の希望」 

イザヤ2:1~5、ローマ13:8~14、マタイ24:36~44、詩編24:1~10。

預言者イザヤはユダとエルサレムについて幻を見ます。それは、いつか必ず来る「終わりの日」のことでした。(イザヤ2:2)
その日には「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」との幻でした。それは救いの時であり、「栄光に輝く王が来られる」(詩編24:7)時、主の栄光が満ちる時です。その時、「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学」(イザヤ2:4)びません。本当の平和が訪れる時です。
しかし、「その日、その時は、だれも知」(マタイ24:36)りません。いつやって来るのかわからないその時を、人々はずっと待ち望んでいました。とはいえ、「その日」が来れば自動的に争いがなくなるわけではありません。だから、その日に向かってしっかりと歩まねばなりません。
パウロは、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に付けましょう」(ローマ13:12)と呼びかけています。「闇の行い」にはいろいろありますが、少なくとも争いを含んでいることは間違いありません。「その日」がいつ来ても良いように、争いを減らす努力を怠ってはなりません。また、身に着けるべき「光の武具」とは、闇を打ち破る強大な武器ではなく、闇をも包み込む大きな愛です。「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(ローマ13:9)そのような生き方こそが「目をさましてい」る(マタイ24:42)生き方であり、「光の中を歩」んでいる(イザヤ2:5)生き方です。
「夜は更け、日は近づいた」(ローマ13:12)。いつ来るかわからない「その日」はすぐ近くに来ています。「その日」を待ち望みつつ、しっかりと神を見上げて、光の中を歩みましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.12.01(日)の礼拝の週報

48│2020年11月22日 降誕前節5 王の職務

週    句

腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
ルカによる福音書12:35
説  教  「王の職務」 

ミカ2:12~13、黙示録19:11~16、マタイ25:31~46、詩編50:1~6。
ミカ書1~3章は、紀元前8世紀に活動した預言者ミカの言葉に帰する部分が多いと言われていますが、この2:12~13は捕囚期の無名の預言者の言葉であろうとされています。「イスラエルの残りのものを呼び寄せる。…牧場に導いてひとつにする」と、捕囚の民が祖国に帰還する希望が語られます。ミカの時代も、王国自体が存亡の危機に立たされていく困難なものでありましたが、同時に繁栄の裏で社会内部の腐敗や不正義が横行し、貧富の格差が増大した時代であったとも言われます。預言者はそのような混乱した社会に対して毅然とした批判を語ってもいきます。
神殿の境内で当時の権力者たちの偽善を厳しく批判した主イエスは、その後神殿を後にして、弟子たちの前で教えを語られます。マタイによる福音書におけるイエスの最後の説教の結びの箇所が25章後半です。
「最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」の「最も小さい者」とは、福音書の意図するところでは当時の伝道者を指すと言われます。小ささの中に身を置き、使える働きをなす者たちを受け入れる者たちに祝福が約束されるとの言葉です。そのことを踏まえつつ、今「最も小さい者」とされてしまっている人々に仕える働きが、主イエスに仕える働きであると受け止める時、今日の教会、キリスト者の宣教のあり方が問われる主の教えの言葉として響いてくるのではないでしょうか。
この地上において人と出会い、小さくされた人々、貧しくされた人々と出会われ、共に生き、共に歩み神の国のあり様を伝えられた主イエス・キリスト。迷い、散らされた存在を「牧場に導いてひとつにする」(ミカ書2:12)方、真の王としての救い主が私たちのところにおいでくださるという希望を胸にし、この方が教えられた愛に根ざし、仕える働きに一人一人がもう一度召し出されていることを心に刻み、歩み出したいと思います。
「礼拝と音楽」より

2020.11.25(日)の礼拝の週報