25│2022年06月19日 聖霊降臨3 伝道する教会

週 句 愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
聖書    コロサイ信徒への手紙3章14節
説 教 「神のイノベーション」 高橋周也牧師 
聖書    エレミヤ書18章1~12節

「神のイノベーション」
 エレミヤ書は、突然危機に見舞われ、弱さの中に置かれた神の民に向けて語られたメッセージです。真摯に向き合おうとすればするほど、私たちはもはや聖書を、今私たちが置かれた世界から切り離し、あるいは自分とは全く関係のない読み物とすることはできないでしょう。
さてほんの数年前まで私たちは、現代社会はある程度自分たちの力で形作ってきたつもりになっていたかもしれません。ところが、ひとつウイルスが流行した「だけ」で、大混乱に陥りました。突然弱さの中に置かれたとき、神様と人との関係が問われます。私たちが本当には何者であるかを突き付けられるからです。エレミヤが陶器師の姿に主からのメッセージを受けたように、私たちもまた日常置かれた場所で、神様のメッセージを聞き取りつつ生きる。生かされ出会ったすべての状況には、私の聞くべき神様からのメッセージがあると信じる。神様が最善へと導いてくださっている。そう信じて生きる時、厳しい状況に直面したままにも関わらず、そこで私たちは主の愛に抱きしめられ、この現実に介入してくださる神様の力ある業を見ることになるのです。
「見よ、わたしは新しい天と地を創造する」(イザヤ書65章17節)

2022.06.17(日)の礼拝の週報

24│2022年06月12日 聖霊降臨2 神の子とする霊

週 句 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
聖書    コロサイ信徒への手紙2章3節
説 教 「人々に注がれたもの」高橋牧師
聖書    使徒言行録4章32~35節
「祈り:愛を情報化しないこと」
 今月から毎週の祈り会を始めすでに2回目を数えました。この祈り会は、レクチオ・ディヴィナという方法で聖書を読むことから始まります。呼吸を整え、御言葉に耳を傾け、心身で味わうことを大切にします。まだ祈り会では紹介していませんが、ときには聖書を書いた方に向かって、「そんなふうに感じておられたのですね」とか、「そんなことがあったんですね」と会話をしてみてもよいのです。慣れてくると“霊”の助けを得て、全体の中からどの箇所が自分に語りかけ、存在と響き合うかを具体的に感じ取ることができるようになります。
 私たちは情報社会を生きています。ですから死者数や感染者数は数値化されて伝えられますが、その時人の人生の物語が顧みられることは稀です。命が情報化されるとき、感覚的なものが排除され、存在が愛されなくなるということにつながるでしょう。同様に「聖書はだいたいこんな話である」「とにかく大事なものである」と情報化してしまっては、神様の愛を十分に受けとめているとは言えないのです。初代教会において人々が持ち物を分け合い暮らしていた時、その分配は情報や規則によってではなく愛によって行われていました。私たちが聖書の言葉を大事にすることは、私たちと人々とが互いに愛し合うことでもあるのです。

2022.06.17(日)の礼拝の週報

23│2022年06月05日 聖霊降臨1 聖霊の賜物

週 句 何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
聖書    使徒28章31節
説 教 「皆、救われる」高橋牧師
聖書    使徒言行録2章17~24節

「イエス・キリストの差し金」
  5月30~31日に牧師家族会のために徳島へ行って来ました。教会の皆さんに囲まれつつも、「牧師」という意味では日ごろ孤立しがち(?)な私たちには必要かつ大変貴重な時間です。大変リフレッシュできました。快く送り出してくださった皆様に感謝です。徳島にいる間、伝統の人形浄瑠璃を見ました。係の方がとても丁寧に解説をしてくださったところによると、浄瑠璃の人形は、背後から「差し金」という道具を使って精巧な動きを作り出しているそうです。これがドラマの台詞などで聞く「お前は誰の差し金か?」などと言う時の語源になったと伺い、後から「あれのことか」と納得しながら演舞を見学しました。差し金によって、人形は指の一本に至るまで感激するほどよく動いていました。
 本日の聖書箇所は「若者は幻を見、老人は夢を見る」と記します。そして聖霊が注がれて神の言葉を語るのです。そのように祈りつつ生きるということでもあるでしょう。幻や夢は非現実的なことを表してそう言っているのではありません。「神の計画」がきわめて現実的に食い込んでくるのです。私たちはこの地上に神の民として、イエス様の差し金として生きるよう召されています。―「ビジョンなき民は滅びる」(箴言29章18節)

2022.06.03(日)の礼拝の週報

22│2022年05月29日 復活節7 キリストの昇天

週 句 元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。
聖書    使徒27章22節
説 教 「泣く者と共に?」 草苅祐子
聖書    ローマ12章1~18

「敵を愛するための勧め」 高橋牧師
 本日は信徒説教ですが、説教者は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という有名な一節を含んだ箇所を選んでくださいました。その教えの美しさに惹かれるからでしょうか、大変よく愛されている箇所です。
 ところがこの言葉は同時に、それを実践することの困難さを身につまされる聖句でもあります。特に、競争社会である現代世界においては、他人の不幸は蜜の味です。あるいは、膨大な数の残酷なニュースが、私たちを無感動にしています。また、日本では古くから「足の引っ張り合い」などということもよく言われます。そもそもこの言葉は聖書の文脈においても、自分のことを「迫害する者のために祝福を祈る」ためにはどのように行動するかという勧めです。「共に喜び、共に泣く」時に、初めて本当の意味で「敵」を祝福できるのだというのです。これが簡単なはずがありません。
 私はルカ福音書15章の放蕩息子のたとえ話が大好きです。ところで兄息子と弟息子は、いかにも「共に喜び、共に泣く」ことの難しそうな人たちです。実際、兄息子は弟息子の帰還と、そのために父が催してくれた宴会を全く喜んでいません。それどころか怒りだしてしまいます。その批判(攻撃)の対象は、弟だけでなく、使用人たちや父(にたとえられた神様)でもあったでしょう。兄息子は自分に向けられた父(神様)の愛に気がつかないのです。神様の招きはこの兄と弟が真の兄弟となって再び一緒に住むことであったでしょう。しかし福音書は、そのためにはどうしたら?を全く記さずに、読者に委ねています。おそらくこの2人ともが神様の愛を体験する必要があるのです。私たちは「敵」と見える人とも、同じ親なる神様に愛されているという存在として、人々と出会うように招かれています。私自身、これを心痛みながら書くのですが、私のような者のために祈りという道が備えられているのでしょう。こんな私の存在を皆さんは、共に喜び、共に泣いてくださるでしょうか?

2022.05.26(日)の礼拝の週報

21│2022年05月22日 復活節6 父のみもとに行く

週 句 この福音のためにわたしは苦しみを受け ついに犯罪人のように鎖(くさり)につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。
聖書    テモテへの手紙二 2章9節
説 教 「いい地、旅立ち」高橋牧師
聖書    エレミヤ書10章1~17節

「旅立ちへの促し」
 預言者エレミヤの時代を生きた人々は癒やしがたい傷を抱えていました。知らず知らずのうちに世界が崩れ、人々は捕囚の民となり、涙に暮れる日々が続きます。そこに民の破滅を「手軽に治療」(8章11節)しようとする偽預言者が現れます。また、民自身についても、深刻な事態に陥っている現実を認めることのできない愚かさが描かれます。試練の中で外の視点を失い、正しく自らの姿を見つめたり、事態を掌握したりすることができなくなった人々は、自分たちが与えられた人生を主体的に生き抜くことが難しくなっていきます。その有り様は、彼らが悪人であるという意味よりは、神の似姿として創られた人間に期待された生き方から引き離されていた哀れな状態であると言えます。本日の聖書箇所には、一見すると厳しい言葉が書き連ねられていますが、神様はエレミヤを通して、悲惨な状態に陥った「心に割礼のないイスラエルの家」(9章25節)の人々に現状を認識させ、その今陥っている状態からの解放、すなわち新たな旅立ちを促しているのです。「異国の民の道に倣う」(10章1節)のは、神の民にふさわしい生き方とはほど遠いからです。
 エレミヤの時代から600年後、イエス様の十字架を前にして逃げ出した2人の弟子が、その数日間に起こった出来事について話し合いながら、エマオという村に向かってトボトボと歩いていました(ルカによる福音書24章13~35節)。イエス様ご自身が近づいて来て話しかけたというのに、そして長時間そこから一緒に歩いて会話を続けていたというのに、2人はそれがイエス様だとは気づきませんでした。しかしパンを取り杯を交わしたとき「私たちの心は燃えていたではないか」(32節)と気づきます。そしてすぐに彼らは背を向けて歩いてきたはずのエルサレムへと戻るのです。この旅立ちによって、彼らは聞いていたはずの復活の喜びを本当に新たにされ、真のキリストの弟子として宣教の業へと開かれていくのです。

2022.05.20(日)の礼拝の週報

20│2022年05月15日 復活節5 神の民

週 句 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。勇気を出せ。
聖書    使徒23章11節
説 教 「神の懐(ふところ)に飛び込む」 高橋牧師
聖書    エレミヤ書3章19~22節a

「立ち帰れ、癒やす。」
 今日の聖書の箇所では、神様と民の関係を夫婦関係にたとえられています。まず、神様の愛情深い親心が記されています。しかしそれにも関わらず、民の側は主なる神様を欺くのです。
 神様は民の欺き(裏切り)を咎めますが、イスラエルの民は、礼拝そのものをやめてしまったのではありませんでした。「礼拝」は続けられていたのです。しかし民の心が求めていたものは、神様の愛ではありませんでした。彼らが欲しかったもの、実質心の中で拝んでいたものは、豊かさや富、支配力など、人間的な力を与えてくれる神様でした。彼らの周囲では、そういう都合の良い「神様」が信じられていたのです。代表的なものとしては、豊穣の神バアルなどがあります。
 そのような状態に陥った民に、神様はエレミヤを通して、「立ち帰れ」と呼びかけ、「癒やし」を与えようと招きます。これは驚くべきことです。裏切られた側の神様が、民をゆるすだけではなくて、癒やしを与えるとまで言うのですから。けれどそれが、私たちに向けられた親なる神様の我が子に対する愛なのです。そして、私たちが個人としても教会としても、それに応答して生きるよう召されている愛です。
今日、人間の生命そのものがかつてない危険に曝されている。死によって脅かされているから危険に曝されているのではない―これはいつもそうだった。人間の命が最大の危険に曝されているのは、それがもはや愛されていないからである。―ユルゲン・モルトマン(福嶋揚訳『希望の倫理』2016年、新教出版社、91頁)
 人間を人材とし、悲しむべき事件を無機質にニュースと呼び習わし、人のいのちを奪うことを戦争とか政治と言い換えたりすり替えたりする現代社会は、巧みにバアルに取り込まれているようにさえ思われます。しかし教会に集う私たちは、キリストに捉えられて、神様に創られた者として、自分を、互いのいのちを、すべてのいのちを大切にしたいのです。

2022.05.13(日)の礼拝の週報

19│2022年05月08日 復活節4 キリストの掟

週 句 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。
聖書    使徒20章32節
説 教 「あるいは建て、植えるために」 高橋牧師
聖書    エレミヤ書1章7~10節、17~19節

「神の子の権威」
 説教で久しぶりの旧約聖書は、エレミヤ書を開いてみたいと思います。年若い時に召命を受けた預言者エレミヤは、私にとって親しみ深い聖書の人物のひとりです。しかしそれは私が若くして牧師になったからではありません。その前から、キリストを信じる者のひとりとして、自分の人生に語りかけてくれる言葉として好きなのです。キリストを信じる者とされ、全生涯を通してキリストを証する使命に生きることは、教会に集う私たち皆の召命です。
紀元前7世紀の古代オリエント世界が大きな変動を迎えた時代に、エレミヤは神様から諸国民の預言者として召されることになりました。現代でもそうですが、混乱の時代に生きていると、ひとりの力、少数者の声は非常に小さく無力であるように思えます。しかもエレミヤはまだ年若く、召命に応え得るような十分な経験や能力がない、自分には何の資格もない、と考えたのでしょう。エレミヤは主の呼びかけに尻込みして、(より直訳に近づけると)「ああ、見てください。私は語ることができない」と嘆き、拒みました。私たちならどう答えるでしょうか?私たちも、神様に対していつでもこの時のエレミヤのように答えるために、たくさんの言い訳の引き出しを持ち合わせているのではないでしょうか。
 エレミヤに対して、神様は「若者にすぎないと言ってはならない」とお命じになりました。ヘブライ語の「若者」には「子」という意味もあります。私たちは皆、神様に愛をもって造られた神の子どもです。若者や子どもは無力の象徴のようでもありますが、神の子どもは神の永遠の愛の対象なのです。そのことを過小評価してはならないでしょう。神様はエレミヤの状況も、私たちの現実も、しっかりとご存知です。それなのに「母の胎から生まれる前」(5節)から召したのが神様です。私たちは皆、神様の「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」という約束によって、神の子どもとしてのいのちを精一杯に生きるのです。

2022.05.05(日)の礼拝の週報

18│2022年05月01日 復活節3 まことの羊飼い

週 句 わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。
聖書    使徒言行録18章10節
説 教 「友への“共に”への招」高橋牧師
聖書    マルコ16章14~21


「福音宣教の始まり」
 本日の聖書箇所で、弟子たちは「不信仰」と「かたくなな心」であったと書かれています。イエス様がそんな彼らをとがめたのは、弟子たちが復活を信じなかったからではありません。注意深く読んでみると、イエス様を見た人々〔の言うこと〕を信じなかったからなのです。
 「信仰」というとき、私たちはどこか神と自分のタテのつながりだけを意識しがちなのではないでしょうか。しかし、イエス様はかつて、最も大切なことは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」だとおっしゃっていました(12章)。しかし弟子たちの現実は、師であるイエス様の死によって感じた身の危険、孤独や絶望と困惑、そして裏切りの後ろめたさ・・・心はカサカサボロボロになり、とてもこの主の掟にならって、互いの存在を喜び合って生きられるような状態ではなくなっていました。イエス様はそんな弟子たちを決して放ってはおかれなかったのです。ここに「救い」があります。「全世界」の「すべての造られたもの」に対する福音が最もうれしかったのは弟子たちであったことでしょう(「こんな自分さえ!」)。そして福音宣教は、弟子たちのこの弱さから始まりました。
 イエス様は、ご自身のもとにあって、私たちが互いを信じあうことを望んでおられます。互いに福音を伝え合い、信じて他者のために身を差し出していくことによって、福音宣教の業は、進められると同時に、それに仕える弟子たちの命を本当の意味で生かすのです。イエス様は、そのことを弟子たちに言いつけるだけでいなくなってしまったのではありませんでした。イエス様ご自身が共に働いてくださったというのです。
 イエス様が弟子たちをおとがめになったことは、それそのものが弟子たちへの愛のしるしでありました。徹底的に弟子たちに寄り添ってくださった出来事でありました。私たちはそれにならって、主の愛を受けつつ、自らの弱さから出発して、神を愛し隣人を愛して生きるのです。

2022.04.28(日)の礼拝の週報

17│2022年04月24日 復活節2 復活顕現

週 句 神はわたしたち一人一人から 遠く離れてはおられません。
聖書    使徒言行録17章27節
説 教 「だれがあの石を転がしてくれるのか」高橋牧師
聖書    マルコ16章1~8

「恐れて終わる福音書」
 今年に入ってから『聖書教育』誌に準拠してマルコによる福音書を読み進めてきました。今日の箇所は、マルコによる福音書の結末部分です。なお、16章9節以降は後代に書き加えられたことがわかっており、礼拝で用いている新共同訳聖書でも〔かっこ〕が付されています。
 つまり、本来のマルコによる福音書の締め括りは、何とも歯切れの悪いものなのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8節)と。
 もちろん、それはそれとして私たちは、9節以降、あるいは、他の3つの福音書が描く復活や弟子たちの派遣の物語を大切に読むのです。しかし、私たちは聖書を愛するならば、それと同じくらい、元来のマルコによる福音書が伝えようとしたメッセージを大事にしてよいと思います。
墓にご遺体がないのを見て、逃げ去り、震え上がって茫然自失となり、何も言えず、恐ろしかった婦人たちの姿で終わる。この不思議な福音書のメッセージとは、今日をここで生きる私たちが、その時々に祈り、聞き取るものです。これは何を意味するのだろうかと、思いを馳せ、耳を傾け、私の心に語りかける主の御声をきき取ること。それはキリストの弟子として生きる私たちに課せられた使命でもあります。なぜなら、イエス様は、復活なさって、かねて言われていたとおりガリラヤでお目にかかれる(6~7節)のに、私たちもまたこの婦人たちと同じように、いつも恐れながら生きているからです。
今日の箇所から、さまざまな黙想へ導かれることができます。今の自分にとって、この教会にとって、現代を生きる私たちにとって、墓とはどこなのだろうか。あるいは、墓の入り口に転がされていた石とは何だろうか。私にとってのガリラヤはどこだろうか?
 今日の皆さんはこれらにどうお答えになりますか?

2022.04.21(日)の礼拝の週報

16│2022年04月17日 復活節1 キリストの復活

週 句 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
聖 書    マルコ16章6節
朗読劇 復 活 ~《ガリラヤ》へ行かん~

「主の死は共に生きるため」 高橋牧師
 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ―「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」そのように叫び、主イエス・キリストは、深い絶望のうちに、息を引き取られました。イエス様を慕う者たちが、イエス様の亡き骸が墓に納められるところを見届けていました。この場面において、イエス様は完全に死なれたのです。
 私たちは、ここでイエス様が完全に死なれたという事実を大切にしたいのです。そうであるからこそイエス様は私たちと同じ肉体を取ってこの地上を生きてくださったと言えるのです。また、この世界を生きるすべての者の苦しみや痛みを共にし、負うてくださる方であるのです。
 長く教会生活をしていると、ときにやがて来る復活やあらゆるさまざまな知識が、このキリストの死に対する感受性の豊かさを覆ってしまうことがあるのです。
 私たちは、人が死ぬときに悲しみます。厳しい現実にさらされるように感じることさえあります。私たちは最も親しい人が亡くなった時のように、主イエス・キリストの死を悲しんだことがあるでしょうか?・・・しかし、イースターの喜びが本当に感じられるのは、私たちがイエス様の死を真実に心から悲しみ嘆いた時です。そして、復活を信じる私たちの人生の課題は、その悲しみや嘆きが喜びの源であることを見出すことです。その復活は確かに、私たち自身に命を与え、新しさへと導いてくれることでしょう。
 主イエス・キリストの死と復活は、弟子たちに新たな一致を与えました。それは、弟子たちが、与えられた約束を理解することもできず、信じることもできず、本当にイエス様の死を深く悲しんだからこそ起こったことなのです。ただ予定されていたことをじっと待っていただけであったなら、この後、使徒言行録に続いていくような、あるいは歴史に残るような、イエス様の弟子たちの生き方の大変革は起こらなかったでしょう。
 弟子たちは、主の死に対する悲嘆の中で、ようやく主に行かされた命を共に生きる旅人として、互いがどんなにかけがえのない与えられた仲間であることかを思い知ったのではないでしょうか。

2022.04.15(日)の礼拝の週報