23│2017年06月04日 聖霊節1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4:6
説  教   牧師給支援から受けたこと:西條由紀夫

聖霊の賜物
ヨエ2:23~3:2、使2:1~11、マタ12:14~21、詩51:12~19。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〈霊〉が語らせるままに、他の国の言葉で話しだした。
使徒言行録 2:3,4

 権力者を恐れて、部屋に閉じ籠(こも)っていた弟子たち。しかし、彼らは、突然、語り出したのでした、イエスさまと一緒に行動していたときと同じように、内側から支えられる力をいただいて。
 イスラエルの歴史においては、神の霊は、特別に選ばれた者だけに注がれるものでしたから、「『すべての人にわが霊を注ぐ』(ヨエ3:1)との預言が成就したのだ(!)」という、ペトロの説教(宣言)は、驚くべきものでした。それを断行できたのは、聖霊がイエスさまによって、決定的に位置付けられたからでした。
 聖霊は、父なる神とイエスさまから送られ、イエスさまと同じ質をもつゆえに、イエスさまが全ての人に語りかけるごとくに、全ての人に臨み、働きかけるのです。預言者ヨエルが終末の出来事として語ったものが、今、起きたということは、今、神が介入され、新しい支配を始められたということです。その事実に触れた弟子たちは、震えるような思いで、語り出したのではないでしょうか。
 弟子たちが多くの国の言葉で話したのは、福音が広く伝えられていくことを象徴しています。マタイ福音書ではイザヤ書の言う「彼は異邦人に正義を知らせる」(マタ12:18)との言葉をイエスさまに重ねました。イエスさまによってもたらされる救いは異邦人にまで及ぶのです。世界中の人々に、聖霊が注がれ、その中でキリストが働かれる、その知らせこそペンテコステに他なりません。わたしたちの内に、教会に、あらゆる命と命の交わりに、「確かな霊を」!(詩51:12)。

2017.06.04(日)の礼拝の週報

22│2017年05月28日 復活節7 キリストの昇天

週    句

わたしは地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書 12:32
説  教    〈使命に立て!〉  :梅田 環

キリストの昇天
エレ10:1~10a、エフェ4:1~16、ルカ24:44~53、詩93:1~5。

イエスは……手を上げて祝福され、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
ルカによる福音書 24:50〜51

 十字架の死の後、悲しみと不安の中で、復活の主にお会いした弟子たちは、今や、昇天という偉大な出来事に出会い、その「威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる」(詩93:1)様に触れ、イエスさまを真の神として伏し拝んだのでした。イエスさまは、預言者エレミヤが伝えたように、偶像の神とは違う生ける神であり、「真理の神、命の神、永遠を支配する王」(エレ10:10)です。その主の勝利を見せていただき、弟子たちは喜んだのでした。
 証人として、使命を与えられた彼らにとって、イエスさまの昇天とは、新しい出発です。共にいた時間を懐かしみ、惜しむのではなく、先へと進んで行かなくてはならないのです。従いきれなかった後悔も、すべて真の神である方に委ねて、〈使命に立て!〉と召されたのです。イエスさまは「全てのものを満たすために……天よりも更に高く上られた」(エフェ4:10)のであり、もはや時間と場所の制約を超えて、高い所からの力(聖霊)をもって覆ってくださいます。その力に支えられて、弟子たちはイエスさまを証しして行くのです。
 イエスさまの昇天は、弟子たちが向かうべき先を指し示しました。十字架で死なれたイエスさまが神の栄光を帯びて天に上げられたということは、弟子たちもまた、たとえこの世でボコボコボロボロになろうとも、終わりの時には、天にいるイエスさまが迎えてくださると信じ得る信仰の基盤となったのではないでしょうか。そのように、イエスさまを信じて、悔い改めつつ、天を見上げて生きる彼らの生涯こそ、「証人」の召しを全うするものでした。

2017.05.27(日)の礼拝の週報

21│2017年05月21日 復活節6 イエスの祈り

週    句

神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれなかった。
詩編 66:20
説  教   「だから、こう祈りなさい」:梅田 環

イエスの祈り
列上18:20~39、ヘブ7:11~25、マタ6:1~15、詩95:1~11。

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ。/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/御心が行われますように、天におけるように地の上にも。……
マタイによる福音書 6:9〜10

 施しと祈りと断食は重んじられた善行でした。しかし、信仰生活は表面的に流れがちです。人間の罪と弱さを知るイエスさまは、見上げるべき先を示し、祈る言葉を教えられました。神を父と呼び、神の子とされた者として祈れと勧めます。「御名」が崇められるとは、自分を神のごとくに思う高慢から解放されて、神を神とすることができるように、との祈りです。礼拝中はもとより、生活万端に関係します。
 「国」は「支配」とも訳せることから、神の支配を求めるもので、わたしたちも、その支配下に置かれるように、という祈りでもありましょう。「御心」の祈りは、神が御心をなして行く御業の中にわたしたちが取り込まれることを前提とします。
 日々の糧と赦しを祈ることも赦されました。「わたしたちも……赦しましたように」と付されたのは、赦せないという思いを持つわたしたちが神の赦しの深さを知るためであり、「赦しなさい!」との勧めです。この祈りは、最後の「悪より救い出したまえ」という祈りと、前半の御名・御国・御心を祈る祈りに支えられています。
 十字架の主を遣わされた父の御心がなるように、わたしの罪をも神の支配下に置かれ、悪しき思いから解放されることを祈りつつ、赦しを乞い願うのです。その祈りは、イエスさまが執り成してくださいます。「ともにひれ伏し、伏し拝もう」(詩95:6)との呼びかけの通り、全地に主の御支配のなることを願いつつ、「主の祈り」を共に祈るわたしたちでありたいと思います。

2017.05.21(日)の礼拝の週報

20│2017年05月14日 復活節5 父への道

週    句

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編 98:1
説  教   「わたしは道であり、真理であり、命である」:梅田 環

父への道
サム下1:17~27、Ⅰヨハ2:1~11、ヨハ14:1~11、詩98:1~9。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書 14:1〜2

 イエスさまを逮捕しようと謀る者が迫り、弟子の裏切りが予告され、危機が迫り、不安が高まる中、「心を騒がせるな」と命じられます。「住む所」とは「留まる」と言う動詞に由来し、神の許(もと)、神に赦されてある所という意味です。そこに弟子たちがいられるように、場所を用意しに行くのが十字架なのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者……イエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハ2:1)とある通り、イエスさまが執り成しののち、「戻って来て」、すなわち、復活されて、わたしたちを天に迎え入れてくださるのです。
 トマスは不安から、イエスさまのいかれる道が分からないと言い、フィリポは父なる神を示して欲しいと願うのですが、イエスさまは、イエスを知ることで、父なる神を知るのであり、神に至る道を知るのだと言います。「わたしは道であり、真理であり、命である」とは、父へと至る「真理と命」の道(経路)は一つしかなく、それがイエスさまご自身なのだ、と言われたものでした。
 イエスさまの働きは神の働きと結びつけられ、神を信じることとイエスさまを信じることとは同じことだと言われます。信じられないなら「業そのものによって信じなさい」と言われました。イエスさまは、水を葡萄酒に変え、病人を癒し、五千人を養い、湖上を歩み、ラザロを甦らせ、など、創造者たる神の力を現す奇跡をなして来ました。イエスさまを通して「わたしたちの神の救いの御業を見た」(詩98:3)のであって、それ以外ではないのです。父なる神が内におられるがゆえに、「心を騒がせるな」とのみ言葉が重く響きます。


2017.05.14(日)の礼拝の週報

19│2017年05月07日 復活節4 イエスは復活また命

週    句

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
コリントの信徒への手紙 二 5:17
説  教    「わたしは復活であり、命である」  :梅田 環

イエスは復活また命
ネヘ2:1~18、Ⅰコリ12:3~13、ヨハ11:17~27、詩136:1~9。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
ヨハネによる福音書 11:25

 死に打ち勝つとは、死なずに済むことではなく、「死んでも生きる」ことです。死は臨みますが、屈することなく復活することが勝利なのです。イエスさまは、ご自身の中に復活の命があり、イエスさまを信じる所に、死んでも生きる命が与えられることを指し示したのでした。
 イエスさまは、マリアらの悲しみを見、泣くことしかできないと彼らに思わせている死の力に対して憤りました。人を悲しみの淵に追いやる力を打ち砕く勢いで、墓に向かったのでした。ラザロの復活は、主の復活と似ています。「わたしが復活であり、命である」(ヨハ11:25)とは、イエスさまが復活されることを予め言われたのです。
 教会はそのイエスさまを礼拝する場です。体の命を与える神を讃美するのみならず、「驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ」(詩136:4)、と歌い、聖霊によって「イエスは主である」(Ⅰコリ12:3)と告白し、復活であり命であるイエスさまを讃美するのです。
 教会を建てる作業もそのためで、「わたしたちは不幸の中であえいでいる。……エルサレムの城壁を建て直そうではないか」(ネヘ2:17)との呼びかけは、死からの復活をもたらす神のみ業がこの世の形になっていくことを物語っています。
 信仰が礼拝の場を創り、信じる者の群れを創ります。わたしたちの中に入り込み、生活を形創っていきます。「信じる者は、真でも生きる」と言われた方が、わたしたちを創り変え、その人生を導いていくのです。その命の主を仰ぎ、ひたすら従って生きていきたいと願わされます。

2017.05.07(日)の礼拝の週報

18│2017年04月30日 復活節3 新しい命

週    句

わたしは良い羊飼い。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書 10:11、27、28
説  教    「ヨナにまさるもの」 : 梅田 環

新しい命
列上17:17~24、コロ3:1~11、マタ12:38~42、詩116:1~14。

……ここに、ヨナにまさるものがある。
……ここに、ソロモンにまさるものがある。
マタイによる福音書 12:41、42

 律法学者らは、イエスさまに神の子である客観的なしるしを求めました。わたしたちも、それを求めたい気もしますが、その発想には、吟味し判定するのは自分だという思いがあります。彼らも、自分に主権をおくゆえに、「よこしまで神に背いた時代の者」(マタ12:39)と呼ばれたのでした。イエスさまはその求めを拒み、ヨナを魚に飲み込ませ、吐き出させたのは神であったのと同様に、イエスさまも神により、十字架に掛けられ、復活させられる、それがしるしだと言います。
 ヨナの預言を神の言葉として聞いたニネベの人々の姿勢は、エリヤに対して「あなた口にある主の言葉は真実です」(列上17:24)と言った女性に通じるものでした。南の国の女王は、神がソロモンに知恵を与えたとの名声を信じられず、試しに来ましたが、彼に答えられないことはなく、神を讃美して帰りました。ニネベの人々や南の女王ら、神の言葉を真摯に聞く人の姿を通して、そうではない人の本質があらわになるのです。旧約聖書の言葉を聞いて来た者の罪を異邦人が明らかにするという皮肉なことが起こるのです。
 ヨナとソロモンがおぼろげに神を表していたのに対して、ヨナ、ソロモンにまさると言うイエスさまは、神のみ心そのものでした。徹底して神に従い、み心を示し、十字架と復活によって神の存在を表すのです。
 ヨナが預言によって人々を悔い改めに導いた以上に、イエスさまにおいて、神が示されているのですから、そのイエスさまに立ち帰り、従うことが求められているのです。

2017.04.30(日)の礼拝の週報

17│2017年04月23日 復活節2 復活顕現

週    句

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えてくださった。
ペトロの手紙一 1:3
説  教    隠せない主の復活  :梅田

復活顕現
イザ65:17~25、使13:26~31、マタ28:11~15、詩16:5~11。

(兵士たちに金を与え……)「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
マタイによる福音書 28:13

 イエスさまの復活の予告を覚えていたのは、むしろ、祭司長たちでした。弟子が死体を盗んで、主が復活したなどと言いふらさないよう番兵をおいたほどで、主の復活を番兵が報告すると、多額の金を与えて、弟子が盗んだという虚偽の噂を流すことに躍起になりました。そんな疑惑が渦巻く只中で、イエスさまが復活されたという知らせがのべ伝えられたのでした。パウロも、迫害される中で、イエスさまが復活されたことを語っていき、信仰(イエスの道)に入る者たちが起こされていったのでした。
 イエスさまが復活されたという知らせは、多くの困難を乗り越えて、伝えられていったのです。今日の教会においても、同じです。神のなさることは人間の思いによっては理解できないのですが、その中で、神はみ業をなさるのです。今日の教会においても、同じです。
 神のなさることは、人間の思いによっては、理解できないのですが、その中で、神はみ業をなさるのです。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザ65:17)と言われます。「わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(イザ65:18)という神は、わたしたちに信じる思いを与え、み業を喜び楽しむ者とされます。
 主の復活を信じることは、わたしたちを新たに創造する神を信じることです。「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(詩16:7)という神の導きを信じ、主の復活の命に生かされて生きて行こうではありませんか。

2017.04.22(日)の礼拝の週報

16│2017年04月16日 復活節1 キリストの復活

週    句

わたしは一度死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
ヨハネの黙示録 1:18
朗読劇  「復活 〜〈ガリラヤ〉に行かん」 上演

キリストの復活
エゼ36:16~28、ロマ6:3~11、マタ28:1~10、詩66:1~9。

弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。
マタイによる福音書 28:7

 主の復活の意味する所は、その出来事に直接触れた弟子たちの姿から伝わって来ます。ガリラヤで「お目にかかれる」と訳された語は、目で見るという意味を超えて、認識する、体験する、との意味を持ちます。ガリラヤで病を癒し、死人をよみがえらせた方は、十字架で死なれ復活される方であって、その方が命の道を教えていたことが分かる、と言われたのです。
 主の復活は、人が新しい命に呼び覚まされるという神秘を伝えます。死者が生き返るように、新たに生きることが赦される、神の怒りの下にではなく、赦しの下、祝福の下におかれるという、神の御業を伝えるのです。「お前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」(エゼ36:26)との約束が主の復活において実現したのです。
 主の復活は、わたしたちにも復活の命が与えられる確かな保証です。「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(ロマ6:5)とあるように、罪も死も過去のものとされ、神と共に光の中を歩むことが許されるのであり、主を十字架につけたような、人間の悪意によって奪い取られることのない命、神と人に仕える命へと、弟子たちは呼ばれたのです。
 「神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない」(詩66:9)と、力強く歌う詩人と共に、復活の力に押し出されて、復活の主の光の下で、すなわち、命への新たな認識のもとで新たにされた毎日を送ろうではありませんか。

2017.04.16(日)の礼拝の週報

15│2017年04月09日 復活前1 十字架への道

週    句

人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:14
説  教    「自分は救えない」!?   :梅田 環

十字架への道
哀5:15~22、Ⅰコリ1:18~25、マタ27:32~56、詩118:19~29。

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
マタイによる福音書 27:42

 イエスさまに代り、シモンが十字架を担ぎましたが、当時、罪人に十字架の横木を運ばせ、惨めな姿をさらさせる習慣があり、兵士たちが服を分けたのも、習わしに従ったものです。罪状書きの「ユダヤ人の王」は、本来、イエスさまが王であるという本質を表します。政治的な王ではなく、わたしたちを無限に愛される王です。十字架から降りるという不思議(超能力?)をもってではなく、神にひれ伏すことによって、わたしたちに赦しをもたらす方として立たれるのです。
 「なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩22:2)の言葉は、イエスさまが幻のようなものではなく、生身で十字架に架かられ、人が味わう苦悩の全てを請け負われたことを明らかにします。人間としての死、人間性がたどり着く所の死を死なれたのであり、体の苦しみのみならず、神に見捨てられる魂の苦しみを味わい尽くされたのでした。神に裁かれ見捨てられるわたしたちの罪を、ご自分のこととして、請け負われたのです。この叫びは、神の裁きの厳しさを伝えます。全身を神に向け、神に叫びながら、なされる全てを受け入れる壮絶な死でした。
 神殿の幕が裂け、大祭司が犠牲を献げて、罪を贖う儀式をする場所との隔てがなくなったのは、だれでもが神のみ前に立つことができるようになったことを示すものです。犠牲の動物に罪を贖う力があるのではなく、イエスさまが神と人間との間に立つ大祭司となり、ご自身を神へのまったき献げ物とされたのでした。
 暗転と地震は、主の死が自然界全体、陰府にまで影響を及ぼすことを示します。百人隊長の証言は「隅の親石」の実現でした。

2017.04.09(日)の礼拝の週報

14│2017年04月02日 復活前2 十字架の勝利

週  句

人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書 20:28
説  教    「この〈杯〉を飲むことができるか?」 :梅田 環

十字架の勝利
創25:29~34、ロマ8:1~11、マタ20:20~28、詩118:1~9。

……このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。二人が「できます」というと、……
マタイによる福音書 20:22b


 イエスさまはご自分の道を「杯」と表現されました。杯は、差し出されたら受け取らなければならないものの象徴で、神が与えたものを意味します。それは、さらに、人間に対する神の怒り、裁きを意味するようになり、「杯を飲む」とは苦しむことを意味しました。弟子たちにはそれが強いられるのですが、その労苦によって、神の恵みを勝ち取るのではありません。
 信仰においても、何かを達成し、良いものにありつきたいという欲が潜むのですが、肉の思いに従う者は神に敵対しています(ロマ8:7)。「君候に頼らず、主を避けどころとしよう」(詩118:9)との言葉は、内なる名誉欲、権力欲との決別を呼びかけているのです。他の弟子たちが腹を立てたのも、ヤコブ、ヨセフの兄弟と同様に、自分が評価されたいと願うからで、イエスさまは、自らの欲に振り回されないで、人に仕えよと諭されます。イエスさまご自身がそうであったからです。
 「身代金」とは、奴隷や捕虜を解放するための命を買い取るための金で、イエスさまがご自分のことをそう呼んだのは、十字架の意味を語るためでした。神の前に罪深さを思うわたしたちは、自分で償うことで赦しを得たいと思うのですが、神はそれを赦されず、代りに、イエスさまの命をもって身代金を払ってくださったのが、十字架でした。
 そのイエスさまに従うとは、一番上でイエスさまの隣に座ることではなく、最も低い所にいるイエスさまと共に仕えることです。人間の持つ罪を見据え、自らを含めた人間というものへの深い憐れみと救いを求めて、仕えることが、僕となるということです。

2017.04.03(日)の礼拝の週報