15│2017年04月09日 復活前1 十字架への道

週    句

人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:14
説  教    「自分は救えない」!?   :梅田 環

十字架への道
哀5:15~22、Ⅰコリ1:18~25、マタ27:32~56、詩118:19~29。

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
マタイによる福音書 27:42

 イエスさまに代り、シモンが十字架を担ぎましたが、当時、罪人に十字架の横木を運ばせ、惨めな姿をさらさせる習慣があり、兵士たちが服を分けたのも、習わしに従ったものです。罪状書きの「ユダヤ人の王」は、本来、イエスさまが王であるという本質を表します。政治的な王ではなく、わたしたちを無限に愛される王です。十字架から降りるという不思議(超能力?)をもってではなく、神にひれ伏すことによって、わたしたちに赦しをもたらす方として立たれるのです。
 「なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩22:2)の言葉は、イエスさまが幻のようなものではなく、生身で十字架に架かられ、人が味わう苦悩の全てを請け負われたことを明らかにします。人間としての死、人間性がたどり着く所の死を死なれたのであり、体の苦しみのみならず、神に見捨てられる魂の苦しみを味わい尽くされたのでした。神に裁かれ見捨てられるわたしたちの罪を、ご自分のこととして、請け負われたのです。この叫びは、神の裁きの厳しさを伝えます。全身を神に向け、神に叫びながら、なされる全てを受け入れる壮絶な死でした。
 神殿の幕が裂け、大祭司が犠牲を献げて、罪を贖う儀式をする場所との隔てがなくなったのは、だれでもが神のみ前に立つことができるようになったことを示すものです。犠牲の動物に罪を贖う力があるのではなく、イエスさまが神と人間との間に立つ大祭司となり、ご自身を神へのまったき献げ物とされたのでした。
 暗転と地震は、主の死が自然界全体、陰府にまで影響を及ぼすことを示します。百人隊長の証言は「隅の親石」の実現でした。

2017.04.09(日)の礼拝の週報

14│2017年04月02日 復活前2 十字架の勝利

週  句

人の子は、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。
マタイによる福音書 20:28
説  教    「この〈杯〉を飲むことができるか?」 :梅田 環

十字架の勝利
創25:29~34、ロマ8:1~11、マタ20:20~28、詩118:1~9。

……このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。二人が「できます」というと、……
マタイによる福音書 20:22b


 イエスさまはご自分の道を「杯」と表現されました。杯は、差し出されたら受け取らなければならないものの象徴で、神が与えたものを意味します。それは、さらに、人間に対する神の怒り、裁きを意味するようになり、「杯を飲む」とは苦しむことを意味しました。弟子たちにはそれが強いられるのですが、その労苦によって、神の恵みを勝ち取るのではありません。
 信仰においても、何かを達成し、良いものにありつきたいという欲が潜むのですが、肉の思いに従う者は神に敵対しています(ロマ8:7)。「君候に頼らず、主を避けどころとしよう」(詩118:9)との言葉は、内なる名誉欲、権力欲との決別を呼びかけているのです。他の弟子たちが腹を立てたのも、ヤコブ、ヨセフの兄弟と同様に、自分が評価されたいと願うからで、イエスさまは、自らの欲に振り回されないで、人に仕えよと諭されます。イエスさまご自身がそうであったからです。
 「身代金」とは、奴隷や捕虜を解放するための命を買い取るための金で、イエスさまがご自分のことをそう呼んだのは、十字架の意味を語るためでした。神の前に罪深さを思うわたしたちは、自分で償うことで赦しを得たいと思うのですが、神はそれを赦されず、代りに、イエスさまの命をもって身代金を払ってくださったのが、十字架でした。
 そのイエスさまに従うとは、一番上でイエスさまの隣に座ることではなく、最も低い所にいるイエスさまと共に仕えることです。人間の持つ罪を見据え、自らを含めた人間というものへの深い憐れみと救いを求めて、仕えることが、僕となるということです。

2017.04.03(日)の礼拝の週報

13|2017年03月26日 復活前3 主の変容

週    句

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書 12:24
説  教    「これに聞け」!   :梅田 環

主の変容
出24:3~11、Ⅱペト1:16~19、マタ17:1~13、詩145:1~13。

すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
マタイによる福音書 17:5

 これは、イエスさまのバプテスマの時にも、天から響いた言葉です。モーセやエリヤを凌駕する神の子であるということです。神を冒涜していると非難されたイエスこそ「わたしの心に適う者」だと、神は宣言するのです。弟子たちには、「これに聞け」と勧め、仮小屋を建てるより、その言葉を聞くようにと命じたものです。
 変容は、「復活」を前もって表したものでした。イエスさまの復活の時、弟子たちが驚きつつも信じることができたのは、このときの姿を見ていたからではないかと思います。
 イエスさまは、終末に来ると言われたエリヤを「バプテスマのヨハネ」に重ね、悔い改めを説き、バプテスマを授けるバプテスマのヨハネの働きは「すべてを元どおりにする」と言われます。それは、悔い改めて、神を信じるという人間本来のあり方へとわたしたちを導くからです。そのバプテスマのヨハネを領主ヘロデは斬首し、「好きなようにあしらった」のでした。真の人であるイエスさまに神の栄光が隠されているように、わたしたちも、この世においては苦しむのですが、隠された神の恵み、導きを仰ぎたいと思います。
 ペトロの手紙では、著者は、主の変容の出来事について語りつつ、「暗い所に輝くともし火」と言い、「明けの明星があなたがたの心の中に上るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」と勧めています。「あなたの輝き、栄光と威光、驚くべき御業をわたしは歌います」(詩145:5)。神の栄光を見上げ、希望を見失わずに歩んでいきたいものです。

2017.03.26(日)の礼拝の週報

12|2017年03月19日 復活前4 受難の予告

週    句

鋤に手を掛けてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。
ルカによる福音書 9:62
説  教    「自分の十字架を背負って……」    :梅田 環

受難の予告
ヨブ1:1~12、Ⅰペト4:12~19、マタ16:13~28、詩85:5~10。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
マタイによる福音書 16:24

 ペトロはイエスさまにその名「ペトロ」(岩)と命名され、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と使命を託されました。彼の信仰告白の上に教会を建てる、という意味です。彼は弟子集団を代表して応えたのですから、弟子の群れ、すなわち信仰告白を共有する民の上に、教会は建てられるということです。
 その教会に天国の鍵が授けられました。これはペトロへの委託と同時に、弟子たちへの委託でもあります。律法遵守こそ天国に入る条件と考えられていた時代、主の贖(あがな)いによって天の門は開かれたのですから、その鍵は信仰を告白する教会に託されたのです。
 続く受難予告は、殺されねばならぬ、そう定められているとの神の意志を表したものです。主の死後、弟子たちが、迫害され動揺するという嵐の中を乗り越えることができたのは、ここで語られたメシア理解があったからではないでしょうか。それをペトロの情によって薄めてはいけないのであって、厳しく戒めることによって、弟子たちの心に刻んだのでしょう。「引き下がれ」とは、「後ろに行きなさい」との意で、前に立ちはだかって道を塞ぐのではなく「わたしについてきなさい」との呼びかけだったのです。
 自分の十字架を負うというのは、イエスさまの後に従い、主によっていかされる生を徹底する道です。ヨブが、理由も分からないままに課された試練を背負ったように(ヨブ1:12)、わたしたちにも背負うべき十字架が与えられますが、それは、キリストの苦しみに与ることであり、また、キリストのいのちに与ることでもあるのです。

2017.03.19(日)の礼拝の週報

11|2017年03月12日 復活前5 悪と戦うキリスト

週    句

キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5:8
説  教    「神の国は来ている」! :梅田 環

悪と戦うキリスト
イザ35:1~10、Ⅰヨハ3:1~10、マタ12:22~32、詩130:1~8。

まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
マタイによる福音書 12:28


 悪魔を強い人に譬え、その強い人を縛り上げるからこそ、彼に支配されていた者を解放することが、すなわち、癒しができるのです。「奪い取る」との表現に、わたしたちが捕らえられ、救われる不思議が込められています。略奪ですから一方的になされます。様々な者に支配されて、神に従えないでいるわたしたちが、神の赦しと愛の中に奪い取られていくのです。
 「(内輪で争えば)荒れ果ててしまい」をカルヴァンは「自滅し」と訳しました。神の支配を望みつつも、意に反する神の御心を受け入れないという矛盾を抱えていたら、わたしたちは自滅してしまいます。
 イエスさまは、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」と言われました。「国」は「支配」とも訳されます。神の支配を信じる所が神の国、神の支配される場で、「あなたたちのところ」、弟子たちがいる場所に来ているのです。ファリサイ派に勝手なことを言われ、言い負かすこともできず、迫害される所です。そこに、悪魔に勝った主がおられます。敵を討ち、神の平和を打ち立てる主です(イザ35:4)。
 神の力を疑わせる悪魔の力から、わたしたちは解放されなければなりません。わたしたちを恵みの中へと奪い取る神に委ねることが、わたしたちのなすべき応答です。自分の中で内輪もめしているわたしたちは、降参して、「主に望みをおき」(詩130:5)、神の支配の許に留まり続けたい者です。

2017.03.15(日)の礼拝の週報

10|2017年03月05日 復活前6 荒れ野の誘惑

週    句

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現われたのです。
ヨハネの手紙一 3:8b
説  教    「神の子なら……」    :梅田 環

荒れ野の誘惑
申30:15~20、ヤコ1:12~18、マタ4:1~11、詩91:1~16。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
マタイによる福音書 4:3

 イエスさまは悪魔の問いを受けられました。それはわたしたちが受けている誘惑でもあります。日用の糧を祈りつつも、必要が満たされるか不安で、パンを自分で用意すべきという悪魔の誘惑に心を揺さぶられます。イエスさまは、その不安の極まるところで、神に求めることを教えているのです。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは、神に求め、委ね、与えられると信じて生きるという信仰の告白であり、それを生きるという決断なのです。
 悪魔は「神は羽を持ってあなたを覆い……足が石に当らないように守る」のだから……と聖句(神の言葉)をもって誘惑します。しかし、神の全能は人が自由に使えるのではなく、神の自由において用いられるものです。わたしたちは神を思いどおりに動かせないことに忍耐しなくてはならないのです。自分にとって都合のいい信仰に埋没しないことがわたしたちに課された闘いです。
 より大きな力で支えられたいとの欲に、悪魔はつけ込みます。「悪魔を拝む」とは極端にも思われますが、〈お金、権力を拝むなら〉〈礼拝の時間を譲り渡すなら〉などに置き換えると分かります。悪魔はわたしたちの内面の罪を引き出し、神から離れていることを気づかせます。
 「神の子なら……」との言葉は、イエスさまの十字架にも向けられました。「神の子なら自分を救ってみろ」(マタ27:40)と言われても、イエスさまは最後まで、父なる神に従い、まことの人として、人間の限界の内に留まられました。悪魔的な者の下にある人間を、その支配から解放するために、悪魔と戦い、勝たれるのです。

2017.03.15(日)の礼拝の週報

03|2017年1月15日 降誕4 最初の弟子たち

週    句

 司 式: 律法は
 会 衆:   モーセを通して与えられたが、
 司 式: 恵みと真理は
 会 衆:   イエス・キリストを通して現れた。

ヨハネによる福音書 1:17
説  教    「わたしについて来なさい」:梅田 環

最初の弟子たち
エゼ2:1~3:4、黙10:8~11、マタ4:18~25、詩40:6~12。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。
マタイによる福音書 4:19

2017.01.29(日)の礼拝の週報

02|2017年1月8日 降誕3 イエスのバプテスマ

週    句

 司 式: 神の霊によって導かれる者は、
 会 衆:   神の子なのです。

ローマの信徒への手紙 8:14
説  教    僕の形を生きる    :梅田 環

イエスのバプテスマ
サム上16:1~13a、ロマ6:12~23、マタ3:13~17、詩2:1~12。

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書 3:17

2017.01.08(日)の礼拝の週報

01|2017年1月1日 降誕2 エジプト逃避

週    句

 司 式: すべてを
 会 衆:   主イエスの名によって行ない、
 司 式: イエスによって、
 会 衆:   父である神に感謝しなさい。

コロサイの信徒への手紙 3:17
説  教    神は人となった!  :梅田 環

エジプト逃避
エレ31:15~17、Ⅱコリ1:3~11、マタ2:13~23、詩70:2~6。

「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」
マタイによる福音書 2:15

2017.01.01(日)の礼拝の週報

47|2016年11月13日 誕前6 救いの約束

週    句

 司 式: わたしたちは
 会 衆:   皆、
 司 式: キリストの裁きの座の前に
 会 衆:   立たなければなりません。

コリントの信徒への手紙二 5:10
説  教    「目を上げて、見渡せ」   :梅田 環

救いの約束(モーセ)
申18:15~22、使3:11~26、マタ5:38~48、詩77:17~21。

あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同朋の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
申命記 18:15

2016.11.12(日)の礼拝の週報