32│2019年08月04日 聖霊9 女性の働き

週    句

あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。
エフェソの信徒への手紙 2:19
説  教  「主によってしっかりと」  :梅田 環

女性の働き
ヨシュ2:1~14、フィリ4:1~3、ルカ8:1~3、詩97:7~12。

……わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
フィリピの信徒への手紙 4:1b

 男性と同様に女性にも集団の中での役割が与えられることは、古代のヘレニズム世界では、珍しいことです。それが実現したのは、キリスト教会が「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子」である者の集まりであり、「そこでは、もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません」(ガラ3:28)と、パウロ自身が言うように、その集いに招かれる者の存在の意味は、イエス・キリストとの関係においてのみ、与えられるからです。それゆえ、身分やその他の属性を超えて、教会に招かれる者には、それぞれ固有の役割が与えられました。
 フィリピの教会の女性指導者たち、エボデアとシンティケの間の不一致について、パウロは手紙で「主において同じ思いを抱きなさい」と勧め、よって立つところは「主」のみなのだということを、改めて確認させます。教会の人々に対しても、この教会の働き人たちを支えるように、彼らは「命の書」に名を記されている者の同労者なのだから、と言います。「命の書」に名を記されるとは、人がその生の道筋において、神のものとして神に憶えられているということを意味します。
 人間が、まして、社会の中で、存在の意味が極めて限定的であった「女性」が、その命の歩みを神によって知られているということは革新的な恵みです。同じ恵みをわたしたちも受け取っています。
 主おいて一致し、その命を神のものとして全うする、それが、女性においても男性においても、いずれの性に属さないものにとっても、存在の意味であることを、わたしたちは証ししよう。

2019.08.04(日)の礼拝の週報

31│2019年07月28日 聖霊8 キリストの心

週    句

恐れるな。わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書 43:1
説  教  「霊から永遠の命を刈り取る」:梅田 環

キリストの心
サム上24:8~18、ガラ6:1~10、ルカ7:36~50、詩38:10~23。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
ガラテアの信徒への手紙 6:8

 集会(教会・教団)は、いつでも、簡単に、人間の本性を丸出しにしたエゴイストの集まりになってしまうものです。ですから、パウロは集会が神の教会であるための注意事項を与えます。例えば、構成員同士の仲たがいを諌めようとするならば、「そういう人を(キリストの心に)立ち返らせなさい」と命じて、すぐに、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と、語ります。
 集団の中に自分を埋没させる「あなたがた」の中のひとりとしてではなく、「あなた」個人の有り様を、パウロは問います。「あなた」、とパウロに呼びかけられる集会につどう個人は、神の教会であるために、何を求められているのでしょうか。それは、神の前において、正直に自分を見つめること、イエスの十字架によって取り戻された者としての自分を、改めて想起することです。そうすることで、人は、相対的な比較の物差しではなく、神を基準とした基本原則的な物差しを持つことになります。
 「互いに重荷を担いなさい」(2節)と「めいめいが、自分の重荷を担うべき」(5節)という、集会に勧められる一見矛盾する二つの事柄は、「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに支えなさい」(ガラ5:13)という前章の言葉から理解される時、立体的なものとなって、人の現実の生活を支えるでしょう。
 神によって自由にされた人間は、自分の固有の課題を神への応答として、担うことになり、その応答は隣人への愛として発現するのです。

2019.07.27(日)の礼拝の週報

30│2019年07月21日 聖霊7 生命の回復

週    句

あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙 2:8
説  教    「まだ生きている」 :梅田 環

生命の回復
エレ38:1~13、使20:7~12、ルカ7:11~17、詩35:1~10。

パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
使徒言行録 20:10

 使徒言行録には、パウロのなしたことが、一人称で伝えられる資料があります。その中に、「わたしたちがパンを裂くために集まっていた」トロアスの教会において、パウロが若者を死から取り返す話が伝えられています。通常、人間が、抗うことのできない力の前に敗北し、涙を流すしかない時に、なおそうではないところに、パウロは立ち、人々にそのパウロと同じものを見上げ、求めさせた、ということを伝えています。
 パウロの訪ねた集会で悲劇的な事故が起こります。パウロの長い話の間に眠ってしまい、3階の窓から落下した若者は「死んでいた」と伝えられる状態に陥ります。この取り戻すことのできない喪失に対して、しかし、パウロは、この若者を抱きかかえて、言いました。「まだ生きている」。
 このパウロの言葉は、あきらめること、放棄することから、人間の視点を転じさせるものです。抗うことのできない力の前に敗北することを、決して受け入れさせないパウロの言葉によって、そこにいた人々はいのちを見ることへと、目を向けさせられます。そして、「まだ生きている」者を受け取り、「大いに慰め」られることになりました。
 そして、それは、パウロだけが持っている力というより、教会の宣教が持っている力である、と聖書は考えています。だからこそ、パウロは、中断された「話」を再開するにあたり、「パンを裂いて食べ」るのであり、そのような慰めはキリストの名によって集められる共同体の通常の礼拝行為において起こるものであることが分かるのです。

2019.07.21(日)の礼拝の週報

29│2019年07月14日 聖霊6 全ての人に対する教会の働き

週    句

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテアの信徒への手紙 6:2
説  教    「神が清めた物」      :梅田 環

全ての人に対する教会の働き
ルツ1:1~18、使11:4~18、ルカ17:11~19、詩22:25~32。

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
使徒言行録 11:9

 ペトロは、幻を見て、コルネリウスのもとへ向かい、彼にバプテスマを授けます。ところが、のちに、このことがエルサレム教会で、「割礼を受けている者たち」、つまり、ユダヤ人キリスト者から、問題にされます。それで、この出来事の当事者であるペトロは、弁明をしなくてはならなくなりました。
 ペトロが見た幻は、律法において汚れたものと定められていた食べ物を、食べるように、と勧められるものでした。それは、ある文化・風習において育てられた者にとっては、大きなタブーへの挑戦です。しかし、それは、どれほど主観的には乗り越えることが難しい・抵抗感を持つような行為であったとしても、「ある文化・風習におけるタブー」にすぎず、他の文化の枠組みにおいては存在すらしないものです。
 ペトロは、それを乗り越えることを、求められます。ペトロ自身の経験したことによれば、それを乗り越えさせるのが、「霊」の力です。「ためらわないで……行きなさい」と勧め、また、行った先で、ペトロが出会う人々に働きかけるのは「霊」です。ペトロは自分が見た幻について語り、タブーを乗り越えることを、共に経験できるように、仲間に語りました。
 自分たちの上に降ったのと同じ霊が「彼らの上にも降ったのです」と、自分たちの共同体がスタートした場所に仲間のキリスト者たちを立たせるペトロは、自分が証人となった「異邦人」が中心となる教会の成立を伝えます。こうして、ペトロへの神の言葉はユダヤ人キリスト者にも共有されたのでした。

2019.07.13(日)の礼拝の週報

28│2019年07月07日 聖霊5 個人に対する教会の働き

人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。
ルカによる福音書 19:10
説  教    「手引きしてくれる人」 :梅田 環

個人に対する教会の働き
エゼ34:1~6、使8:26~38、ルカ15:1~10、詩23:1~6。

宦官は「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」と言い、……フィリポに頼んだ。
使徒言行録 8:31

 フィリポが出会ったのは、エチオピアの女王に仕える男性(宦官)。彼は、聖書に親しみ、エルサレムに礼拝に来るほど、聖書の神に引きつけられています。しかし、彼は、その身体的な理由で、エルサレムの核心に近づくことはできないのでした。宦官であり、エチオピア人である彼は、申命記の定めによって、厳しく排除されるべき存在であったからです。こうして、自国においては、多大な権力を持つこの人は、なおそれによって埋められることのない求めを抱え、神殿に参詣し、そこでもまた、魂を周辺におかれたまま、帰途についたのでした。
 フィリポはこの男性に請われて、イザヤ書から始めて、イエスについて証ししました。イザヤ書53章に伝えられる「羊のように屠り場に引かれて行った」人物について「誰についてこう言っているのでしょう」と、問われたからです。フィリポによってイエス・キリストの福音に出会ったこの人は、道端の水辺においてバプテスマを希望し、その希望は叶えられます。
 天使に導かれ、エチオピアの男性に、フィリポは出会い、「手引きしてくれる人がなければどうして分かりましょう」という求めに応えて、聖書を解き明かしました。「異邦人」であること、また、律法の定めに触れる身体的な課題があること、さまざまなことを理由に、聖書の神から遠ざけられていたエチオピアの人は、聖書の伝える良い知らせに出会うことを願っていました。この人を、福音から遠ざけて来たのは、人間が作る宗教の約束事です。
 神は人間の造る隔てを超えて、求める人に福音を届けます。

2019.07.06(日)の礼拝の週報

27│2019年06月30日 聖霊4 キリストを信任する教会


週    句

疲れた者、重荷を負う者は、誰でも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28
説  教  「この方こそ『隅の親石』」 :梅田 環

キリストを信任する教会
申8:11~20、使4:5~12、ルカ8:40~56、詩52:3~11。

この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。
使徒言行録 4:11

 ペトロは、言葉で、イエスがキリストであることを証しするのみならず、その行いでも、キリストの力を証ししていたと、使徒言行録は伝えます(使徒3:6)。その癒しの出来事を目の当たりにしたエルサレム神殿の運営に関わる人々は、「だれの名によって」そんなことをしたのか、とペトロとヨハネに問いただしました。
 「ナザレ人、イエス・キリストの名による」癒しは、かつてイエス自身が行った癒しとは異なるものです。それは、イエス・キリストが、自分、そして、自分が出会っている人との間で、絶対的な力を有していると信じ、告白する者の存在がなければ、成り立たないものです。イエスが癒しを行う時には、イエスの上に、神の力が働いていました。けれども、イエスが不在のところで起こる奇跡はイエス・キリストを信じる存在にのみ働く力によるものです。
 ペトロが「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石になった」と言うとき、この言葉は「信じないもの」との断絶を意識させるものです。「あなたがた」は理解しないで、それを捨てる、ということをはっきり言っているからです。けれども、続けて、ペトロは、「他の誰によっても救いは得られません」と、その断絶を乗り越えて、「あなたがた」をこちらがわ、すなわち、イエス・キリストを信じる存在になることへと招きます。
 「わたしたちが救われるべき名」は、人の存在を回復し、回復を経験した者に、また他者を招くことへと向かわせるような力をもたらすものです。

2019.06.29(日)の礼拝の週報

26│2019年06月23日 聖霊3 教会の一致と交わり

週    句

あなたがたに耳を傾けるものは、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカによる福音書 10:16
説  教  「そうすれば、聖霊を受ける」:梅田 環

教会の一致と交わり
サム下7:4~16、使2:37~47、ルカ14:15~24、詩133:1~3。

「悔い改めなさい。イエスの名によるバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊を受ける……」。
使徒言行録 2:38

 ペトロの言うこの指示は、ペトロが説教で伝えたイエス・キリストの生涯を通して示された「福音」が教えることを大切にする生き方を選び取れ、という勧めです。
 イエスのいないところで(物語上、既にイエスは昇天している)「悔い改め」を伝えて、人の生きる向きを変えさせ「バプテスマ」によって新しいいのちへと招き「罪の赦し」を宣言することができるのは、教会です。イエスの十字架によって示された神の愛に従って、それに応えて生きることは、今、ここにある目に見える教会にメンバーとして加わることでした。それは「主が招いてくださる者になら誰でも」と、ひらかれている救いです。
 そして、多くの人がそこに加わり、心を一つにして神を待ち望んだ、と聖書は伝えています。ここに伝えられる使徒言行録の教会は、そこに加わることで、ある決定的な違いを人に付与する、人の生き方に刻印する教会です。「皆一つになり」「心を一つにし」「一緒に」いることができるのは、この共同体が「主が招いてくださる者なら誰にでも」開かれているからです。共同体の目的は、「神殿に参り」礼拝することと、「一緒に食事をし」、神の国での食卓を先取りすることによって、「神を賛美すること」でした。
 ただ、神を賛美するために神から招かれた者の集まりである教会は、誰をも排除しない共同体であるからこそ、一致することができるのです。わたしたちの教会は、今も、なお、そのような性格を持っているでしょうか。

2019.06.25(日)の礼拝の週報

25│2019年06月16日 聖霊2 教会の使信

週    句

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。
イザヤ書 6:3
説  教   「神の栄光を現す」 :佐野静樹

教会の使信
出19:3~8a,16~20、使2:22~36、ルカ10:17~24、詩8:2~10。

あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。
使徒言行録 2:36b

 聖霊を受けた弟子たちが一斉に語り出したあと、ペトロは「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と証しします。ペトロは、イスラエルの人たちによって、十字架にかけられて殺されたイエスが神によって復活させられた、と語りかけます。そして、詩編から「あなたの聖なる者を朽ち果てるままにはしておかれない」と引用し、ダビデによるイエス復活の預言としています。
 この証しの中で、ペトロは聞き手であるイスラエルの人々の過ちを大目に見ることはしません。「ナザレの人イエス」はイスラエルの人々の間で「奇跡と、不思議な業と、しるしとによって」神から遣わされた者であることを証ししていたのに、人々はそれを理解せずに「律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」と。
 けれども、この一連の出来事はペトロの語るところによれば、すべて神の主導する出来事です。神が、人々にイエスを引渡し、イエスを死の苦しみから解放し、復活させた、というのです。神は、イスラエルの人々の過ちから、復活という死の克服をもたらす。それが、ペトロの語りの中心になります。だからこそ、人は自分の過ちを正面から見据えることができます。
 この説教を通して、イスラエルの人々はペンテコステを眺めている立場から、当事者になることに招かれます。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです」と結ばれるメッセージはわたしたちをイエス・キリストの十字架と復活の出来事をどう受けとめ、生きるのか、との問いへと招きます。

2019.06.16(日)の礼拝の週報

24│2019年06月09日 聖霊1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4:6
説  教    「舌が一人一人の上に」 :梅田 環

聖霊の賜物
創11:1~9、使2:1~11、ルカ11:1~13、詩146:1~10。

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
使徒言行録 2:2〜3

 教会がどのように生まれたかを伝えるときに、聖書は、「一同が」「一つ」になっていること、人が、共通の願いを持って、一致していることを前提としています。しかし、続いて、「分かれ分かれ」「一人一人」に「舌」が与えられるとあり、人間の集団が「舌」を与えられるのは、その集団の中の個別、固有の存在に対してである、と言います。固有の存在、個別の存在が、神の霊を経験し、その「倍音」から何を聞き取るかは、それぞれの個体において異なっているものなのです。
 そのような経験を外側から言い表しているのが「あらゆる国から帰って来た」人々が「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」という表現でしょう。一つの霊を経験して、人は固有の音を聞き取ります。その人にとって、もっとも聖なる音、もっとも宗教的な、もっとも慰めと癒しを与えられる音において、神の霊を体験します。そして、それを伝えようとする時には、「一人一人」異なる多様な仕方で表現される(「ほかの国の言葉」)ことを聖書は保証しています。それは、つまり、そのような形で霊を経験した者、なんらかの「倍音」を耳にしたものは誰でも、その経験を、人とは違う、「別の言葉」で、語り始めることへと、招かれるということです。
 一同が「一つになって」いるところに「分かれ分かれ」に舌が与えられる、と描き出されるペンテコステの物語は、教会に連なる者ひとり一人に、自分の言葉でその経験を言い表す自由と責任を確認させてくれます。

2019.06.09(日)の礼拝の週報

23│2019年06月02日 復活7 キリストの昇天

週    句

わたしは、地上から上げられるとき、全ての人を、自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書 12:32
説  教    「すべての民を弟子に」 :梅田 環

キリストの昇天
エゼ43:1~7a、使1:12~26、マタ28:16~20、詩105:12~24。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
マタイによる福音書 28:19

 復活は弟子たちの作り話だという批判が投げかけられます。イエス・キリストを実際に目にすることのできる人も稀少である以上、信じていない人から、信じる根拠を問われるのは当然かもしれません。
 マタイ福音書は、その結びで、イエス・キリストを信じる根拠を、その「言葉」である、と示しています。復活のイエスに出会う人たちの間には「疑う者もいた」と言いますが、その彼らに伝えられるのは、イエスの言葉だけです。「天と地の一切の権能」をイエスが持つこと、それを「すべての民」に伝えて、イエスの弟子にして、イエスが「命じておいたことをすべて」守るように教えること……。イエスに従う者の中に、曖昧さや不信があったとしても、イエスの語る言葉は「すべて」欠けるところのないものです。そして、同時に、その言葉に従って、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け」ることも命じられています。
 つまり、イエス・キリストを信じる根拠は、その言葉のみであり、その言葉に従ってバプテスマを授けられた群れ〈教会〉が誕生していくということが、宣言されます。そして、イエスの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束で、福音書は結ばれます。
 こうして、最終的に、福音書が示す復活を信じる根拠は、信じる者が言葉を他者に伝えていくという行為、そして、さらに信じる者の輪が広がっていくという現象の中にある、ということが示され、また、信じる者たちのただ中に、イエス・キリストは存在する、と伝えます。

2019.06.01(日)の礼拝の週報