40│2018年09月30日 聖霊降臨20 執り成し

週    句

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
ヨハネの手紙 一 4:21
説  教    「見倣う者となって欲しい」:梅田 環

執り成し
出32:7~14、ヘブ6:4~12、マル14:43~52、詩106:6~23。

あなたがたが……信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となって欲しいのです。
ヘブライ人への手紙 6:12

 不安に陥ると、わたしたちは手っ取り早く入手できそうな安心や依存先を求めます。しかし、聖書は、自分自身で救いを造り出すことや、不正を行う者への追従を許しません。それらは、わたしたちを生かすのではなく、滅ぼすことになるからです。いのちを与えた神は、わたしたちが生き生きと幸せを生きることを望まれる。しかし、安易な安心の裏には、過剰な負担が隠されているものです。わたしたちの力、時間、そして、自立心さえも奪い、それなしでは生きていけないようにしてしまいます。
 山口県岩国市には極東最大の軍事基地があり、戦闘機の爆音が昼も夜もひっきりなしに響く。基地を置く代わりに、商工観光の振起、騒音地域への住宅整備、子育て支援、など、「地域活性化への財源」と称して、交付金が与えられている。だから、文句を言うな、という内外からの無言の圧力を感じさせる。為政者は、これがなければ、市は衰退するという。この脅しによって、市民(わたしたち)は、知らず知らずの内に、依存させられ、自立心と力を奪われていく。
 この現実に生きているわたしたちを、成熟した人となり、社会に対応できるだけの信仰を養うように、と聖書は励ましてくれる。圧倒的な力がわたしたちを黙らせようとしても、しっかりとみ言葉に立ち、神による希望を語り続けなければなりません。
 エジプトから民を導き出し、生きる道を示された神、罪を赦し、愛を実現する生き方へと導かれた主イエスにこそ希望はあります。この根底的な希望にわたしたちは立ち続けます

2018.09.29(日)の礼拝の週報

39│2018年09月23日 聖霊降臨19 苦難の共同体

週    句

世に打ち勝つ勝利それはわたしたちの信仰です。
ヨハネの手紙 一 5:4
説  教    「信仰に踏みとどまる」 :梅田 環

苦難の共同体
創32:23~33、コロ1:21~29、マル14:26~42、詩43:1~5。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
コロサイの信徒への手紙 1:23

 「共同体としての苦難」と「個人が抱える苦難」、両者には大きな隔たりがある。必要な助けも共通することが多い。しかし、個人が抱える苦しみは千差万別であり、さらけ出すことが困難な場合も多々ある。個人的な悩みや苦しみは理解してもらえないのではないか、また、非難されて幾重にも傷つけられるのではないか。そのことを恐れて、心の奥深くに隠してしまうことはないだろうか。
 教会には、み言葉を伝える使命が与えられている。その相手は、それぞれに、痛みと苦しみを抱えている。そのような人々に何を語るべきなのであろうか。その苦しみは、本来、喜ぶべきもの、神から与えられた試練だ、と語るべきなのだろうか。苦しみの経験が喜びや幸せに勝る信仰体験であるとするならば、苦しむ人に手を差し伸べるどころか、さらに苦しみを与えてしまうだろう。苦しみを個人的なものとして押し付けてしまうならば、その人を孤独へと追いやってしまう。イエスは、十字架の苦しみをイエス個人のものとして押し付けられ、孤独の内に死なれた。そうして、共同体から切り捨てられ、孤独の中で苦しむ人々の友となられた。
 教会は、隣人を孤独へと追いやるためではなく、孤独に追いやられた人の隣人となるために遣わされている。その使命は重い。隣人と同じ経験をすることも、100%気持ちを理解することもできない。み言葉を語っても、その心に届かず、虚しく響いているようにさえ感じることもある。しかし、神は、み言葉が虚しく天に戻ることはないと約束する。神が共におられることを示す働きへと出かけよう。

2018.09.23(日)の礼拝の週報

38│2018年09月16日 聖霊降臨18 キリストに贖われた共同体

週    句

キリストは、死を滅ぼし、福音を通して、不滅の命を現してくださいました。
テモテへの手紙 二 1:10
説  教  「あなたの怒ることはよいことであろうか」:鳥井正也

キリストに贖われた共同体
出12:21~27、ヘブ9:23~28、マル14:10~25、詩96:1~9。

キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる…
ヘブライ人への手紙 9:28

 闇に支配されている人間は、雰囲気(空気)に流され、無罪の者に罪を着せ、死へと追いやる。これらの行動は、隣人だけでなく、自分自身をも、滅びへと到らせるもの。わたしたちは、そのことを知りながら、そうしなければ、生きる場所がないのではないかという不安に駆られ、良心、魂、賜物、いのちでさえも、闇の力に差し出す。神は、このような苦しみに押しつぶされている人々を見、救い、本来あるべき場所に連れ戻すために、イエスを世に送られたのだ。
 滅びへの道を歩むわたしたちを、イエスは、いのちの道へと連れ戻そうとする。イエスは、滅びゆくために、わたしたちのいのちを犠牲にする必要はない、と教える。そして、わたしたちが、今、現在、不当な扱いを受けていること、交わりから疎外されて、孤独にされていること、裏切られて、絶望していること、権力の言いなりになっている状況に目覚め、いのちを失う道ではなく、いのちを得る道に転換するよう、導く。
 贖いには、土地や奴隷を買い戻す、という意味がある。神は、イエスを「代価」として与えることによって、わたしたちのいのちとイエスのいのちを同等のものと見なし、わたしたちもイエスと同じく神の子であると宣言している。そこに、条件は、一切、ない。全てのいのちは、いのちの源である神の御手の内にあるのだから。
 闇に光を与え、いのちを与え、そのいのちを育み育てる救いのことばに、わたしたちの心を向けよう。

2018.09.16(日)の礼拝の週報

37│2018年09月09日 聖霊降臨17 奉仕する共同体

週    句

思い煩いは、何もかも、神にお任せしなさい。神があなたがたのことを、心にかけていてくださる。
ペトロの手紙 一 5:7
説  教    「慈しみは永遠に続く」  :梅田 環

奉仕する共同体
申15:1~11、Ⅱコリ9:6~15、マル14:1~9、詩112:1~10。

「彼は惜しみなく与え、貧しい人に施した。/彼の慈しみは永遠に続く」(詩112:9)/と書いてあるとおりです。
コリントの信徒への手紙 二 9:9

 イエスさまは、その生涯の間、貧しく、人に分け与えるお金も物も持ち合わせておられなかった。不足は人々と協力して補い合い、神の恵みを祝い喜んだ。そのようなイエスさまの生き方から、人々は「多くを与えられた」と喜びにあふれた。このイエスの姿から、わたしたちは「真の献げ物とは何か」という問いを、自分自身に、隣人に、教会に、そして、世界に、投げかけなければならない。
 パウロは、イエスが与えたものについて、詩編の言葉を引用し「慈しみ」であるという。その慈しみという種がわたしたちにも与えられており、パウロは、その種を蒔くという奉仕に勤しむよう勧めている。
 種は持っているだけでは目を出さないし、実を結ばない。蒔いてはじめて成長するのである。だから、いつまでも惜しんで種を持っておく人はいない。むしろ、蒔くべき時に、すべてを蒔いて、豊かな実りを信じ、希望を持って育てるのではないだろうか。慈しみという種も、だれにも与えず、自分自身の内に留めていては、何の変化も起こらないだろう、差し出してはじめて、芽を出し、成長し、実を結ぶ。神は、惜しみなく与えるようにと促しているのです。
 慈しみは正義と同義の言葉です。自分自身の欲望の達成のため、自分自身を守るために、他者を困窮させることは、正義ではありません。全ての人に目を注ぎ、豊かに与えることが、神の正義なのです。この正義に立って、慈しみと愛を行う日々を生きたいものです。物質的なもののみならず、愛を基とした働きすべてが、神によって育まれ、さらに実ることを信じましょう。

2018.09.08(日)の礼拝の週報

36│2018年09月02日 聖霊降臨16 生涯のささげもの

週    句

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを、何ひとつ忘れてはならない。
詩編 103:2
説  教    「神によって使徒とされた」:梅田 環

生涯のささげもの
列上21:1~16、ガラ1:1~10、マル12:35~44、詩119:73~80。

人々からでも、人を通してでもなく、イエス・キリストと、……神とにによって使徒とされたパウロ、
ガラテアの信徒への手紙 1:1c

 〈福音か、律法か〉(恵みか、裁きか)! ガラテアの人々は、パウロの告げる福音によって、新しい道を歩みはじめていた。しかし、律法をどうするのかという問題に直面していた。パウロは叱責するが、律法が書かれている文書も、神の言「聖書」である。取捨選択できるのか。パウロの語る〈律法からの解放〉とどう折り合いをつければよいのか、との問いがでて来るのも当然であろう。
 パウロは律法からの解放を語ったが、それは律法を捨てることを意味するものではない。パウロは、かつて、この律法が何を意味しているか、どう生きるべきか、を自分で考えることなしに思考停止に陥ったがゆえに、他者の信仰を受け入れられず、キリスト者を迫害した。キリストとの出会いによって、パウロは自分の思考や自由を奪う縄目から解放され、自由を得た。ガラテアの人々にかつての自分自身を見、なんとかしてこの呪縛から解き放たれるようにとの思いから、これほどの厳しい口調になってしまったのであろう。
 マルコ福音書では、律法学者とやもめが対比されている。権力を持つ律法学者は、やもめを食い物にしていた。財産等を横領し、その理不尽な扱いに、もの言わせず、諦めさせ、この権力者の保護がなければ生きていけないと思い込ませていた。財産のみならず、自分自身で判断する自由をも奪っていたのだ。そのやもめが、自分の足で、神のもとに向かい、心のままに捧げものをした。彼女は彼女を解放してくださる神に心を向け、自らの足で立っているのである。
 聖霊を受けた弟子たち、パウロも、自らの言葉で語った、自由を!


2018.09.02(日)の礼拝の週報

35│2018年08月26日 聖霊降臨15 最高の道

週    句

わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
マタイによる福音書 25:40
説  教    「最も大いなるものは愛」 :梅田 環

最高の道
ホセ11:1~9、Ⅰコリ12:27~13:13、マル12:28~34、詩62:2~13。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙 一 13:13

 〈あなたのためを思って言っているのよ!〉。言われたこともあり、言ったこともある言葉だ。それを聞くと、自分自身を尊重するよりも、まず、相手が何を求めているか、そして、それを果たすことができるかと考え、愛されるための努力をする。自分の思いは二の次になり、自分の心と体とがバラバラになり、疲れ果て、傷つく。
 最も重要な掟は何か、と尋ねられたイエスは、「愛すること」と答えている。パウロも「最も大いなるものは愛である」と宣言する。神がわたしたちを愛しておられるのだから、わたしたちも神を愛し、隣人を愛するのである。律法や神の言葉は愛するという生き方のための導き手であるはずだ。それを「こうしなければ愛されない」と教えるならば、「愛されていない」という不安を与え、「愛されるため」にどうすればよいか、と苦悩させることになる。このような悩みは自分自身を見失わせる。
 聖書は、失われたわたしたちのために、神が働かれていることを証ししている。ホセア書には、苦悩しつつ、心痛めつつ、民を愛する神の姿がある。その愛はイエス・キリストを通して示された。イエスは、愛されるために自分自身を失っている者を閉じ込めている囲いを打ち破られた。神の愛は、人知を超えた高さ・広さ・深さがある。
 そのイエスに従っていきようとするとき、パウロが言うように、「忍び、信じ、耐える」努力が必要になる。この努力によって、わたしたちは、自分の心の狭さを打ち破り、広大な神の愛に生きることができる。わたしたちは既に愛されているのだ!

2018.08.25(日)の礼拝の週報

34│2018年08月19日 聖霊降臨14 全ての人に対する教会の働き

週    句

彼は傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ書 42:3
説  教    「地の果てにまでも救いをもたらす光」 :梅田 環

全ての人に対する教会の働き
イザ5:1~7、使13:44~52、マル12:1~12、詩40:2~12。

……、『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』
使徒言行録 13:47

 ねたみは、幾度でも現れる感情である。ねたみに支配されると、自分自身を見失い、劣等感を抱き、相手に対して攻撃的になってしまいます。自分自身とかけ離れた人や状況に対してねたみを抱くことはほとんどない。ねたみは、自分の興味・関心の範囲にあるものに対して抱く感情で、「こうありたい」という願望の裏返しともいえる。
 なぜ、ユダヤ人は、神の言葉を聞こうとして集まった群衆にねたみを抱いたのであろうか。もし、異邦人に対して神の言葉が語られることが許せないのであれば、感じるのは、怒りや憤りであろう。パウロたちの人気がうらやましかったのであろうか。「ねたみ」という言葉には、「熱心」という意味も含まれている。
 ユダヤ人たちも、皆、み言葉や信仰生活に対して熱心であった。熱心になればなるほど、自分の信仰の正しさを絶対化し、そこから外れる者を排除してしまう危険性がある。ねたみに支配された人々は、パウロたちを追放したが、彼らの心は晴れなかったであろう。なぜなら、彼らが排除した人々や光景に、彼らの願望や憧れが現れており、それが自分自身にはまだ起こっていなかったからである。
 彼らの見たものは、人々が神の言葉を聞く生き生きとした姿や、敵対者をものともせずに大胆に語る姿、ユダヤ人と異邦人とが共に救いに与る姿だった。彼らが追い求めていた生き方を目の当りにし、これまでの熱心さにもかかわらず、それを実現できていないために、ねたみに燃えて、それらを排除したのではないだろうか。神に仕えているようで、実は自分自身に仕えているわたしたちの姿がここにある。

2018.08.19(日)の礼拝の週報

33│2018年08月12日 聖霊降臨13 新しい人間

週    句

神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には、恵みをお与えになる。
ペトロの手紙一 5:5
説  教    「心の底から新たにされて」:梅田 環

新しい人間
ミカ6:1~8、エフェ4:17~32、マル10:46~52、詩8:2~10。

滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け……
エフェソの信徒への手紙 4:23〜24

 エリコの盲人バルテマイに対する人々の、威圧的・差別的・暴力的な振る舞いは人間の関係を破綻させてしまうものだ。エフェソ書はそのような生き方を「古い生き方」と呼び、「古い人」を脱ぎ捨てよ、と勧める。古い生き方を続けるなら、さらに、神の命から遠ざかってしまいます。今、わたしたちは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけなければなりません。
 新しい人を着るために、イエス・キリストから学ぶことができます。バルテマイを非難し、暴力的に排除しようとする人々に、イエスは言われました。「あの男を呼んで来なさい」。人々を叱りつけたり、彼らを罰したりするのではありません。バルテマイのもとに駆け寄るのでもありません。彼らをバルテマイに近づけようとし、ご自分とバルテマイとの間を仲介させるのです。
 イエスに促され、人々は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、声をかけます。この瞬間、人々は古い人を捨て、新しい人を着たのです。バルテマイとの関係を切っていた人々が、彼との人間関係を再構築しようとするのです。背を向け、見下していた人々がバルテマイと同じ目線で、顔と顔とを遭わせる隣人として生きる道に方向転換したのです。これがイエスから学ぶ生き方ではないでしょうか。
 新しい命に生きるとは、神が創造された命を回復すること、対面し、対話して、祝福された共同体を創ることです。人間関係や被造物と人間との関係も、破れが顕著に現れている今、わたしたちは新しい人として生きる道へと招かれているのです。

2018.08.13(日)の礼拝の週報

32│2018年08月05日 聖霊降臨12 家   族

週    句

いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。
詩編 33:12
説  教    「神の国はこのような者たちのもの」  :梅田 環

家   族
イザ54:1~8、エフェ5:21~6:4、マル10:13~16、詩127:1~5。

子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。
エフェソの信徒への手紙 6:1

 エフェソ書には家父長的家族理解が根底的に横たわっている。家族の長は夫であり、父親! 男性が絶対的な権力を持っていた。家族間で主従関係・支配関係があった。現代人には受け入れがたいと思われる反面、未だにこのような価値観に縛られている現実がある。
 マルコ福音書の記事では、人々が子どもたちをイエスの許に連れて来るが、弟子たちはそれを非常識だと叱りつけ、イエスから遠ざけようとする。子どもは両親に従属する者として育てられ、律法教育の対象として位置付けられていた。そのような常識から外れることなく、自分を支配する者が求める「よい子」に従った子どもはどうなるか。
 マルコ10:17以降に登場する人物は、大人の求めるよい子として生きて来たが、どうすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか、が分からない。つまり、彼は、周囲の人々からは認められても、神から受け入れられているという安心感が得られていなかったのだろう。
 わたしたちは、様々な役割を背負って生きているが、中には押し付けられた役割もある。その役割を果たすことでしか評価されないとき、不安に襲われ、自分自身を見失ってしまうだろう。そのようなわたしたちに、イエスは「子どものよう」でいることを教える。それは、大人が求めるようなよい子・矯正された子どもではない。強い者にとって都合の良い存在になるのではなく、ありのままの姿を回復することが重要なのだ。イエスは、神の掟を、強い者・権力を持つ者を守るために用いるのでも、弱い者・小さい者が統治者の都合の良いように変わることを求めるのでもない。むしろ、権力を持つ者の意識を変革することへと導かれる。

2018.08.04(日)の礼拝の週報

31│2018年07月29日 聖霊降臨11 主に従う道

週    句

主なる神は弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。
イザヤ書 50:4
説  教    言葉を与える主    :井東 元

主に従う道
申10:12~11:1、ヘブ12:3~13、マル9:42~50、詩94:8~15。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじては行けない。/主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。/主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、むち打たれるから。」
ヘブライ人への手紙 12:5〜6

 分断と排除の論理が力を振るう世において「じゃなかシャバ」(そうではない社会)を生きたい者たちはどう生きるのであろうか。なすべき務めとして神から与えられた掟は、「心の包皮を切り捨て、寄留者を愛しなさい」(申10:16,19)である。
 寄留者とは、わたしたちと常識・価値観・考え方が違う人たちであり、ともすれば、わたしたちの暮らしを脅かす存在でもある。ヘブライ人への手紙を聞いていた人々は、自分たちを抑圧する世界に異質さを感じ、自分を苦しめるものを排除したいという思いに駆られていたのではないだろうか。聖書の登場人物は、しばしば「わたしの信仰や考え方は正しい、これこそ神の御旨に適うことである」と信じ、多くの争いをし、他民族や自分たちとは相容れない者を排除しようとした。
 しかし、神は、他民族を滅ぼし尽くそうとするイスラエルの人々のなかに、異邦人を残された。異質な者と出会わせ続け、さらに、彼ら自身が「寄留者」として生きることを求めた。たとえ、少数者であっても、力が弱くても、いのちあるものはすべて神の御手の内にあること、イエス・キリストの救いが約束されていることを示されている。
 寄留者として生きることも、寄留者を受け入れることも、忍耐が必要であり、時に、苦しみ、無力さを感じるかもしれない。しかし、イエス・キリストご自身も同じように苦しまれたことを思い起こすとき、イエス・キリストが共にいて、共に苦しみつつ、わたしたちの人生の伴走者となってくださることを知るだろう。

2018.07.28(日)の礼拝の週報