32│2018年08月05日 聖霊降臨12 家   族

週    句

いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。
詩編 33:12
説  教    「神の国はこのような者たちのもの」  :梅田 環

家   族
イザ54:1~8、エフェ5:21~6:4、マル10:13~16、詩127:1~5。

子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。
エフェソの信徒への手紙 6:1

 エフェソ書には家父長的家族理解が根底的に横たわっている。家族の長は夫であり、父親! 男性が絶対的な権力を持っていた。家族間で主従関係・支配関係があった。現代人には受け入れがたいと思われる反面、未だにこのような価値観に縛られている現実がある。
 マルコ福音書の記事では、人々が子どもたちをイエスの許に連れて来るが、弟子たちはそれを非常識だと叱りつけ、イエスから遠ざけようとする。子どもは両親に従属する者として育てられ、律法教育の対象として位置付けられていた。そのような常識から外れることなく、自分を支配する者が求める「よい子」に従った子どもはどうなるか。
 マルコ10:17以降に登場する人物は、大人の求めるよい子として生きて来たが、どうすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか、が分からない。つまり、彼は、周囲の人々からは認められても、神から受け入れられているという安心感が得られていなかったのだろう。
 わたしたちは、様々な役割を背負って生きているが、中には押し付けられた役割もある。その役割を果たすことでしか評価されないとき、不安に襲われ、自分自身を見失ってしまうだろう。そのようなわたしたちに、イエスは「子どものよう」でいることを教える。それは、大人が求めるようなよい子・矯正された子どもではない。強い者にとって都合の良い存在になるのではなく、ありのままの姿を回復することが重要なのだ。イエスは、神の掟を、強い者・権力を持つ者を守るために用いるのでも、弱い者・小さい者が統治者の都合の良いように変わることを求めるのでもない。むしろ、権力を持つ者の意識を変革することへと導かれる。

2018.08.04(日)の礼拝の週報

31│2018年07月29日 聖霊降臨11 主に従う道

週    句

主なる神は弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。
イザヤ書 50:4
説  教    言葉を与える主    :井東 元

主に従う道
申10:12~11:1、ヘブ12:3~13、マル9:42~50、詩94:8~15。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじては行けない。/主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。/主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、むち打たれるから。」
ヘブライ人への手紙 12:5〜6

 分断と排除の論理が力を振るう世において「じゃなかシャバ」(そうではない社会)を生きたい者たちはどう生きるのであろうか。なすべき務めとして神から与えられた掟は、「心の包皮を切り捨て、寄留者を愛しなさい」(申10:16,19)である。
 寄留者とは、わたしたちと常識・価値観・考え方が違う人たちであり、ともすれば、わたしたちの暮らしを脅かす存在でもある。ヘブライ人への手紙を聞いていた人々は、自分たちを抑圧する世界に異質さを感じ、自分を苦しめるものを排除したいという思いに駆られていたのではないだろうか。聖書の登場人物は、しばしば「わたしの信仰や考え方は正しい、これこそ神の御旨に適うことである」と信じ、多くの争いをし、他民族や自分たちとは相容れない者を排除しようとした。
 しかし、神は、他民族を滅ぼし尽くそうとするイスラエルの人々のなかに、異邦人を残された。異質な者と出会わせ続け、さらに、彼ら自身が「寄留者」として生きることを求めた。たとえ、少数者であっても、力が弱くても、いのちあるものはすべて神の御手の内にあること、イエス・キリストの救いが約束されていることを示されている。
 寄留者として生きることも、寄留者を受け入れることも、忍耐が必要であり、時に、苦しみ、無力さを感じるかもしれない。しかし、イエス・キリストご自身も同じように苦しまれたことを思い起こすとき、イエス・キリストが共にいて、共に苦しみつつ、わたしたちの人生の伴走者となってくださることを知るだろう。

2018.07.28(日)の礼拝の週報

30│2018年07月22日 聖霊降臨10 キリストの体

週    句

光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。
エフェソの信徒への手紙 5:8、9
説  教    イエスの心を心に  :梅田 環

キリストの体
民11:24~29、Ⅰコリ12:12~26、マル9:33~41、詩13:2~6。

……皆、一つの体となるためにバプテスマを受け、皆、一つの霊をのませてもらったのです。
コリントの信徒への手紙 一 12:13

 パウロは必死に語りかける。人々を分断するものは何か。福音書においては、弟子たちはだれが一番偉いのかを論じ合っている。相手より優位に立とうとすると、そのとき、いがみ合いが起こる。信頼関係は崩れ、疑い、貪り、怒りがわたしたちの心を支配する。
 パウロは語る。体の中で最も弱い部分、格好の悪い部分、見苦しい部分こそ必要かつ不可欠である、と。仲間である隣人を信頼できず、神の御心に沿う働きもできず、共同体が分裂と崩壊に向かっているとき、その最も弱く見苦しい部分はどこかと尋ねられれば、自分自身の内面、わが心なり、と思わざるを得ない。心の弱さこそイエスとの関係性を壊し、イエスを十字架へと追いやっているのだ。
 しかし、イエスは、わたしたちのその弱さを否定しない。また、それを隠して生きることを勧めるのでもない。その弱さをこそ用いて生きる道へとわたしたちを導かれたのだ。最も弱い部分に、イエスがおられることを自覚したとき、この弱い部分が、他の部分同士をつなぐ役割を果たすことになる。
 教会でも、生活の場でも、信頼関係の破れが、心と心の絆を引き裂き、傷つけ、群れの生命力を弱らせる。最も遠ざけたい怒りや憎しみに支配されることもある。しかし、十字架のイエスは、共に傷を負い、あなたを見捨てない、と宣言されている。わたしたちの絆を繋ぎとめるイエスの愛がそこにある。コリントの信徒への手紙第一13章には、愛はすべてを完成させる絆であると記されている。世にある教会は、神の創造された部分と部分を繋ぐ役割を担っていくのだ。

2018.07.22(日)の礼拝の週報

29│2018年07月15日 聖霊降臨9 神による完全な武器

週    句

あなたがたは、もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。
エフェソの信徒への手紙 2:19
説  教    「神の協力者」    :梅田 環

神による完全な武器
サム上17:38~503、Ⅱコリ6:1~10、マル9:14~29、詩18:26~35。

わたしたちは、また、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
コリントの信徒への手紙 二 6:1

 コリント教会のパウロを批判する勢力は、パウロの使徒職を疑問視し、非難していた。パウロ自身は、病も抱えており、肉体的にも、精神的にも、苦しめられた。しかし、パウロは、彼に背を向ける者に対しても、「神の協力者」と呼びかける。
 わたしたちは、皆、神に招かれ、神の働きに参与するよう、呼びかけられている。その仲間は、人種も、風習も、言語も、指向も、何もかもが違う。通常、仲間とは、地位や職業など共通のものを持つ者たちの集まりや、一つの物事に取り組む者たち集まりを意味する。しかし、パウロが「協力者」と呼びかけた人々は、立場、状況、考えが違うどころか、パウロを徹底的に苦しめる者も含むのだ。
 パウロは、イエス・キリストを信じる者がこの世界に宣べ伝えるべきは、和解の知らせである、と語る。わたしたちは、イエス・キリストによって救われた。それを、自分の内だけのこととして完結させてはならない。また、この恵みを無駄にしてはならない。わたしたちは、受けた愛を実践する器として用いられるのだ。パウロは、共同体が神の言葉や神の真理、イエス・キリストの教えや救いを、生身のこの体で示す共同体へ成長するよう導こうとしているのです。
 キリスト教は、歴史を振り返ると、不寛容によって、甚大な問題を引き起こし、隣人を苦しめて来た。それは、神がイエス・キリストを通してわたしたちに示された愛を具現化する使命を放棄したことに他ならない。わたしたちはどうだろうか。わたしたちに、「神の協力者」と呼びかけ、わたしたちを繋ぎ止めようとする声が、ここに、ある。

2018.07.14(日)の礼拝の週報

28│2018年07月08日 聖霊降臨8 神からの真理

週    句

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書 43:1
神からの真理
列上10:1~13、Ⅰテモ3:14~16、マル8:22~26、詩119:129~136。

キリストは肉において現れ/〈霊〉において義とされ/天使たちに見られ/異邦人の間で宣べ伝えられ/世界中で……
テモテへの手紙 一 3:16

 これは当時歌われていた讃美歌です。限界ある肉体、痛み、衰える肉体に、神が宿っておられることが示されています。それは、キリストに限ったことではなく、わたしたちの内にも、神が宿り、救いの御業を成し遂げられるのです。その神秘が歌われています。
 しかし、わたしたちは、限界性を持つ肉体よりも、不変で永遠である(?)天的存在に憧れます。そればかりを追い求めるとき、教会は肉なるものに背を向け、天を仰ぐことにのみ関心を向けてしまい、現実からかけ離れてしまうのではないでしょうか。テモテへの手紙は、教会が担うべき責任、果たすべき責任を認識するよう、促している。
 礼拝が個人的なものに留まることなく、世界のために祈るものとして、歩むよう促されている。教会は、時代の流行を追い求めない。流行を追い求めもしないが、この世の動きに無頓着になっていないだろうか。この世に派遣され、福音を宣べ伝えた使徒たちは、肉なるものとの出会いの中で、キリストを再発見した。イエスと共に行動していた時には分からなかったことが、派遣された先々で、限界性に苦しむ人々の内に、また、限界性に悩む自分自身の内に、神がおられることに気づいた。イエスが教えてくださったことを、それぞれの現場で、実感を伴って経験し、キリストを再発見することができたのです。
 わたしたちは、もろく、弱く、倒れやすい存在です。そのわたしたちのために、イエス・キリストは来られたのです。真理であるキリストを土台とし、柱として立ち、遣わされているこのいのちの現場で、イエス・キリストを発見する喜びを分ち合おうではありませんか。

2018.07.08(日)の礼拝の週報

27│2018年07月01日 聖霊降臨7 パン種に注意せよ

週    句

あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙 2:8
説  教    「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」 :梅田 環

パン種に注意せよ
エレ23:23~32、ガラ5:2~11、マル8:14~21、詩52:3~9。

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
ガラテアの信徒への手紙 5:6

 人々がいつもしるしを求めることに、パウロは怒り、イエスはあきれる。人は常に「どうすれば、認めてもらえるか」との問いを抱く。ガラテア書では、信仰のしるしとしての割礼が問題になっている。割礼を受けなければ神に認められないという声に、不安になり、揺らぎ、それを求めてしまったガラテアの人々は、これまで、出自を理由に、神の救いの外にいる、と言われて来た。パウロが語る福音は、そのような差別的な信仰観から解放した。しかし、次第に、〈それでよいのか〉というささやき声が彼らの心の中で膨れ上がり、〈これではダメだ〉という声に支配されるに至ったのではないか。
 わたしたちを否定したり、不安にさせたりする声は、たとえ小さなものでも、少しずつ大きくなり、わたしたちの心の大部分を占めてしまう。それを「パン種」と聖書は言う。しかし、イエスはそのようなパン種ではなく、愛のパン種を心に蒔いてくださっている。
 イエスは、周囲の人々が期待するような、大々的な社会変革を起こしたわけではない。一人ひとりとの出会い、関わりという人の目には小さいと思われる事柄ばかりがなされた。イエスは、この小さな愛の業こそ大切であり、小さな種蒔きがどれほどの喜びと救いを与えることになるのかと言うことを弟子たちに教えている。
 パウロもまた、信仰は形ではなく、「愛の実践を伴う信仰こそ」わたしたちが身につけるべきことで、その小さな種蒔きを行うことが、イエスに従うことだと教えている。わたしたちが行うべきは、自己を誇示することではなく、受けた愛を隣人に示すことであろう。

2018.06.30(日)の礼拝の週報

26│2018年06月24日 聖霊降臨6 神の計画

週    句

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテアの信徒への手紙 6:2
説  教    神の恵みの選びを語る   :梅田 環

神の計画
エス4:10~5:8、使13:13~25、マル6:14~29、詩33:4~11。

この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、……御腕をもってそこから導き出してくださいました。
使徒言行録 13:17

 「励ましの言葉を聞きたい」と、人々はパウロに願う。人々は1週間の仕事に疲れ果て、また、様々な課題や重荷を抱えていたことだろう。そんな彼らが聞きたいのは、裁きの言葉ではなく、「福音」だ。
 パウロはイスラエルの歴史を語る。長い歴史の中で、時に、神を疑い、恨み、逆らう姿があり、おおよそ、模範的な信仰者とは言い難い姿があった。しかし、神は、イスラエルのそばを離れることはせず、彼らに力を与え、歩みを導いて来た。この救済史は、会堂のユダヤ人が幼いときから聞いて来たことであろう。親から子へと繰り返し語られて来たことであり、彼らも語ることができた内容であった。
 しかし、パウロは全く新しい福音を宣べ伝える。ユダヤの人々が待ち望んでいた救い主が来られたということである。そして、「その方はわたしのあとから来られる」というバプテスマのヨハネの言葉を引用する。このヨハネの言葉は、救い主イエス・キリストを通して過去を振り返るよう、促しているように感じる。今まで聞いて来た救済の歴史も、自分自身の歴史も、イエス・キリストを通して見ることで、神の恵みを再発見し、そしてそれが、これからの歩みを変えることとなるのだ。
 イエスは、十字架につけられる前の夜、弟子たちの足を洗い「あとで分かるようになる」と語られた。わたしたちは、自分を襲った困難が大きければ大きいほど、犯した罪が深ければ深いほど、振り返ることが怖い。しかし、イエスの促しによって、振り返ったとき、そこで、イエスも共に苦しんでおられることを知るだろう。

2018.06.24(日)の礼拝の週報

25│2018年06月17日 聖霊降臨5 宣教への派遣

週    句

人の子は、失われた者を探して、救うために来たのである。
ルカによる福音書 19:10
説  教    「主のまっすぐな道を」  :梅田 環

宣教への派遣
アモ7:10~15、使13:1~12、マル6:1~13、詩107:17~22。

パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「……主のまっすぐな道を……」
使徒言行録 13:9

 魔術師バルイエスと地方総督セルギウス・パウルスは、単なる知り合いではなく、彼は言わばブレーンのような存在であり、パウルスが何を言うべきか、どう振る舞うべきか、を進言していたと思われる。地位こそパウルスの方が上だが、パウルスを操っていたのはバルイエスだった。自分自身の考えではなく、ブレーンによって生きているパウルスは主体性を失っていると言える。
 そのパウルスが、ブレーンの意見に逆らって、神の言葉を聞こうとした。バルイエスはそれを阻止しようとしている。もし、パウルスが神の言葉を聞いてしまったら、自分の地位が危うくなり、捨てられるかもしれない。その危機感から、パウルスが自分で判断するのは許せないという思いがあったのではないだろうか。
 パウルスが求めた神の言葉とは、ブレーンが指示するように、「こうでなければならない」と言わない。神は、歩むべきレールを敷き、そこから外れることを許さない存在ではない(!)。それはパウロ自身が証ししている。かつてのパウロであれば、確固たるレールに沿って生きることが全てであり、そこから外れる者はだれであろうと許さなかった。それが神の言葉に従って生きることだと信じ込んでいた。
 しかし、パウロは目が見えなくなるという経験をする。それは、今まで自分を導いていると思っていたものが実はそうではなかった、そこに価値を見いだせなくなったことを表している。わたしたちは様々なブレーンに支配されて生きている。しかし、恐れを捨て去り、神の言葉を聞いたとき、解放の言葉が与えられるだろう。

2018.06.18(日)の礼拝の週報

24│2018年06月10日 聖霊降臨4 悪霊追放

週    句

疲れた者、重荷を負う者は、だれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28
説  教    出会いの祝福      :梅田 環

悪霊追放
サム上16:14~23、使16:16~24、マコ5:1~20、詩32:1~7。

わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取り憑かれている女奴隷に出会った。
使徒言行録 16:16

 「教会の迫害者」だったパウロは、イエスとの出会いによって、福音宣教者となった。今でこそ、「異邦人の伝道者」と呼ばれるが、当初の宣教対象はもっぱらユダヤ人であった。この時もユダヤ人が集う場所である「祈りの場所」に行こうとしていたのである。
 その途上、占いの霊に取り憑かれた女性に出会う。彼女は、霊の力を悪用され、自分自身を失っていた。彼女の存在価値は、その主人に利益をもたらすことにのみあった。彼女は叫びながら、何日も、パウロにつきまとった。宣教の意気に燃えていたパウロは、きっと、彼なりの宣教の計画をもっていただろう。まずユダヤ人の集う場所に行ったことから、そこで自分のような人々と接触し、「その道」(イエスの道)を分ち合おうと思っていたのではなかろうか、と推察される。そこに、異邦人であり、しかも、悪霊に取り憑かれて、主体性を失った女性がしつこく声をかけて来たのだ。
 パウロは彼女を無視し続けた、しかし、彼女は諦めなかった。その姿に、イエスの言葉が重なる。「執拗に頼めば、起きて来て必要な物は何でも与えるであろう。……求めなさい。そうすれば、与えられる」(ルカ11:8~9)。パウロは、仕方なく、振り向き、彼女を癒す。
 これは、彼女の癒しの物語というよりも、パウロ自身の回心の物語ではないだろうか。パウロにとって、彼女との関わりは想定外で、歓迎できるものではなかった。これさえなければ、自分の計画通り進めることができたのに、といらだちもしただろう。しかし、これさえなければという出会いに体と心を傾けたとき、救いの出来事は起こる。

2018.06.10(日)の礼拝の週報

23│2018年06月03日 聖霊降臨3 伝道する教会

週    句

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカによる福音書 10:16
説  教  「大胆に御言葉を語ることを」:梅田 環

伝道する教会
歴下15:1~8、使4:13~31、マコ1:29~39、詩69:17~22。

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。
使徒言行録 4:20

 伝道に励む使徒たちと、それを阻もうとする世との対決とも言えるシーン。発端は、足の不自由な人の癒しだった。問題とされたのは、癒しそのものではなく、何によって癒したかということだった。
 使徒たちは、癒すにしても、語るにしても、祈るにしても、常に、「イエス・キリストの名」において行っていた。彼らの力で、奇跡を行ったのでも、彼ら独自の考えを語っていたのでもない。神の恵みが豊かにあること、人々の内にイエス・キリストおられること、を証ししていた。それを、あろうことか、エルサレムで語り、かつ、行っていたのである。イエスの十字架刑から数ヶ月しか経っていないにもかかわらず。
 エルサレムには、イエスの十字架を目撃し、それが本当に正しいことであったのか、と疑念をもつ者もいたであろう。権力者が最も恐れるのは世論である。彼らは、世論を先導して、イエスを十字架にかけることに成功した。もし、今、それが虚偽に基づくものだという世論が大きくなったら……、と恐れたのではないだろうか。彼らは「神のみ心は何か、神の目から見て正しいことか」を神に尋ね、祈ることを忘れている。彼らの中心は、神ではなくなっている。わたしたちも世間の声に左右され、恐れを抱く。その声の前では、信仰は弱いかのように思われる。
 この不当な仕打ちを受け、使徒たちは祈る。「彼らの脅しに目を向けてください」と。しかし、それに続く祈りは「彼らを懲らしめてください」ではなく、「大胆に語らせてください」との願いである。

2018.06.02(日)の礼拝の週報