42│2017年10月15日 聖霊節20 信仰による生涯

週    句

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
ヨハネの手紙 一 4:21
説  教   「走り抜こう、イエスを見つめ」    :梅田 環

信仰による生涯
ヨシュ6:1~20、ヘブ11:17~22、マタ21:18~32、詩31:22~25。

自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者でありまた完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙 12:1c〜2a

 信仰を持って生きかつ死んだ先達の名が列挙されています。イサク、ヤコブが将来の来るべきことを信じて子孫のために祈り、年老いたヤコブが杖で体を支えつつ礼拝したことを記し、信仰を最期まで貫いたことを伝えました。22節の「脱出」とは出エジプトのことで、イスラエルの救いの原体験として語り継がれて来ました。
 信仰により、紅海をわたることができ、エリコの城壁が崩れ、イスラエルに神さまの存在を見出したラハブが救い出されたことに触れ(ヨシュ6:1~20)、神さまはそれぞれの信仰ゆえに導いて来たということを思い起こさせるのです。
 ヘブライ語聖書(旧約のこと)が語るように、彼らにも罪があるのですが、それにもかかわらず、神の導きを証しする者として、用いられて来たことを思いますと、この書簡の根底には、大祭司キリストが執り成してくださるという福音が響いているのです。「御目の前から断たれた」と、絶望した者が嘆き祈るとき、その声を聞いてくださる神さまの慈しみがあるのです(詩31:23)。だから、「考え直して」(悔い改めて)、従う者となるように、と勧めるのです。
 続く12章では、多くの証人に囲まれているのだから、忍耐強く走り抜こう、と、著者は呼びかけます(ヘブ12:1~2)。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ」走ることこそ、11章の結論です。迫害の厳しい時代にあって、すでに、先達がこれに耐えて来たのだから、あなたがたも、最期まで忍ぶように、と勧めます。

2017.10.15(日)の礼拝の週報

41│2017年10月08日 聖霊節19 労働の意味

週    句

世に打ち勝つ勝利、それは、わたしたちの信仰です。
ヨハネの手紙 一 5:4
説  教   「落ち着いて仕事を」    :梅田 環

労働の意味
コヘ3:1~13、Ⅱテサ3:6~13、マタ20:1~16、詩90:1~17。

……主イエス・キリストに結ばれた者として、命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事を……。
テサロニケの信徒への手紙 ニ 3:12

 当時、再臨が近いゆえ、働くのは時間の無駄で無意味だと考える者がいました。パウロは、再臨の教えを自分に都合良く解釈していることに対して、警告し、彼らを避けなさいと命じます。食事を与え、世話をして、甘やかすようなことはするなという意味です。それは、彼らを更に怠惰にさせ、正しい信仰から遠ざけることになると考えたのでした。
 パウロは、テント造りの仕事をしていたと言われ、援助を受けずに苦労して働きました。自分の教えが生活に表されるよう言葉と行いが一つになる生活を、自ら示し、信徒にも求めたのですが、それは、異なった教えに振り回されずに戦うために役立つものでした。苦労して働くことは、霊的な生活を損なうことではなく、むしろ、両者を結びつけるべきであることを示したのでした。
 「働きたくない者は、食べてはならない」(Ⅱテサ3:10)とは、働けない者のことではなく、上記の再臨理解のために、働けるのに働くことを欲しない者のことで、「働かざる者、食うべからず」という冷たい訓示ではありません。
 「働かず、余計なことをしている」は語呂合わせで、無益なことをしているという意味で、「落ち着いて仕事をしなさい」と命じます。再臨を待つ者は、神が各自に託した仕事に専念するように勧めるのです。神さまは、「労働者を雇う」主人であり、(労働者が)「その労苦によって満足するのは、神の賜物」だからです(コヘ3:13)。「たゆまず善いことをしなさい」との勧めに従って、歩みましょう。

2017.10.08(日)の礼拝の週報

40│2017年10月01日 聖霊節18 新しい戒め

週    句

もの皆があなたに目を注いで待ち望むと、あなたは、時に応じて、食べ物をくださいます。
詩編 145:15
説  教   「神に倣う者となれ」?! :梅田 環

新しい戒め
出20:1~17、エフェ5:1~5、マタ19:13~30、詩119:33~40。

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
エフェソの信徒への手紙 5:1

 パウロは、苦難に耐えることにおいては、「わたしに倣うように」と模範を示して来ました(Ⅱテサ3:9)。そう教えられた者は、キリストが苦難を耐え忍ばれたことに倣うべきことを学び、「主に倣う者となっていきました(Ⅰテサ1:6)。倣うべきはパウロではなく、神なのだ(!)という「新しい戒め」を明確に打ち出したのが、「神に倣う者となりなさい」という勧めでした。
 その基は、キリストがわたしたちを愛して、ご自身を神に献げてくださったことにあります。わたしたちは、罪に死んで新しい命に生きる者、神の子とされたのだから、「神に愛されている子供」として、新たに生きよ、と言われているのです。
 「愛によって歩みなさい」とは、「愛において生きよ」という言葉で、まず自分自身が愛の内にあることが命じられています。そのように生きることで、言葉と行いが生まれてくるように、と願ったのです。
 3節以下は、内面に潜む欲望に関するもので、これらの言葉を口にするのは、どこか楽しくもあるのですが、それを制するように、と十戒においても教えられています(出20:1~17。肉の体を持つわたしたちには難しく、「だれが救われるのだろうか」(マタ19:25)と言わざるを得ないのですが、その体が贖われることが、神の子とされることなのです(ロマ8:23)。親が子を見捨てることがないように、「神に愛されている子供」とされされたわたしたちのことを、神さまは見捨てることなく、導いてくださいます。うめきつつも、待ち望みつつ、神の愛のうちを歩んでいきたいと願わされます(詩110:40)。

2017.10.03(日)の礼拝の週報

39│2017年09月24日 聖霊節17 隣人

週    句

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださいます。
ペトロの手紙 一 5:7
説  教  「いずれは裁かれる者として」:梅田 環

隣   人
創45:1~15、ヤコ2:8~13、マタ18:21~35、詩15:1~5。

自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、また、ふるまいなさい。
ヤコブの手紙 2:12

 信仰義認が誤解され、行いが軽視される傾向を正すために、ヤコブの手紙は書かれたそうです。イエスさまは「わたしの軛は負いやすい」「わたしに学びなさい」(マタ11:29~30)と言われ、主を信じる信仰ゆえに、律法を重んじることを教えられました。ヤコブは、完全な律法とはキリストの律法で、それこそがわたしたちを律法奴隷から解放する「自由をもたらす律法」(ヤコ2:12)と見、信仰者の行動の基盤としたのです。律法に思いを馳せるだけでなく、み言葉を聞いて行うことが、神の祝福に留まることであると見ていました。
 ここでは、隣人愛の戒め(レビ19:18)を引用し、人を分け隔てすることのないようにと勧めます。教会内で身なりによる差別があったためで(ヤコ2:3)、一方の律法を守っても他方を守らないならば、律法違反となることを、11節の例をもって語りました。律法を漏れなく守れと言うのではなく、「神と人とを愛せよ」と言う律法の基を大切にしようとしているのでしょう。異言を語ろうとも、知識に通じようとも、「愛がなければ、無に等しい」(Ⅰコリ13:1~3)と言ったパウロの理解に通じます。
 わたしたちは1万タラントンを帳消しにしてもらいながら、百デナリオンを取り立てるという間違いを犯すのですが(マタ18:28)、最後の審判によって「いずれは裁かれる者」(ヤコ2:12)として、悔い改めつつ、主の教えに留まりたいと思います。
 隣人を憐れむことで、わたしを憐れむキリストをわたしたちは知ります。そのキリストの憐れみこそが、裁きの中に立ちうる盾です。

2017.09.24(日)の礼拝の週報

38│2017年09月17日 聖霊節16 教会の一致と交わり

週    句

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。
詩編 103:2
説  教  「心を一つにし思いを一つに」:梅田 環

教会の一致と交わり
エゼ37:15~28、Ⅰコリ1:10~17、マタ18:10~20、詩147:1~7。

兄弟たち……、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
コリントの信徒への手紙 一 1:10

 教会形成の途上には、様々な困難があります。パウロはそれをキリスト信仰によって整理し、「キリストの名によって」勧告し、信仰と服従をもって聞くように、と諭します。「仲たがい」は「分争/分派」とも訳される語で、あなたがたの行為はこのように見える、とパウロは言います。
 「思いを一つに」とは、「同じ判断/意見」という語で、「意志」とも訳されますが、「わたしの手の中で一つとなる」(エゼ37:19)と言われているように、神によってなされることです。それはわたしたちの祈りの根底にあるべきもので、「心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言われます(マタ18:19)。
 「固く結び合いなさい」とは、「正常の状態/完全にする」との意で、教会の活動がバラバラに自分本位になされるのではなく、一心同体になるよう求めました。それはバプテスマにかかわる重要なことでした。「パウロの名によって」とは、パウロと相手との繋がりを表し、「キリストの名によるバプテスマ」を否定します。だからこそ、キリストのみの信仰に立つよう勧めるのです。たとえ指導者がすぐれていようとも、キリストを引き裂き、党派を造ることは許されません。「キリストにつく」と主張する者も同様で、「自分だけが……」という姿勢は教会を解体します。
 パウロは、キリストから遣わされた者としての自覚に生き、福音を「言葉の知恵によらないで告げしらせる」ことに徹しました。このことは、教会を建てようと願う者の根底的な課題です。

2017.09.17(日)の礼拝の週報

37│2017年09月10日 聖霊節15 究極の希望

週    句

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
マタイによる福音書 25:40
説  教  「わたしたちは変えられる」 :梅田 環

究極の希望
列上3:17~19、Ⅰコリ15:35~52、マタ13:44~52、詩104:24~35。

わたしたちは皆、……最後の……ラッパがなると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
コリントの信徒への手紙 一 15:52

 死んでも自分というものがどこかに残ることを、人は期待しているそうです。わたしたちが朽ちる(滅びる、破滅する、の意)ものとして蒔かれたのは、「御心のままに……体を与え」る神さまの業でありました。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」と言いますが、「霊の体」とは、人間の霊魂の意味ではなく、神の霊によって造り出されたものです。「最後のアダム」であるキリストが「命を与える霊」となったと言うのは、直訳すると、「生かす霊」という言い方で、神さまの救いの業を意味する言葉を使っています。アダムが「命ある生き物となった」と言うのとは、違う言葉です。
 キリストがわたしたちと共に死なれたことで、「古い人」を滅ぼし、新たにして、天に属するキリストの似姿にしてくださるのです。それは、神が「御自分の息を送って、彼らを創造し、地の面を新たにされる」(詩104:30)という業の成就です。その終末の様をまだ見ていない「兄弟たち」が信仰を持って生きることができるよう、復活を確かなものとして語ったのです。
 「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず」とパウロが言う時、自らの「肉なるもの」(生まれや育ちや信仰歴)を誇ることを放棄して来たことと重なります。それらは朽ちるものであって、終わりの時には、一瞬にして、今とは異なる状態に変えられるのです。
 だから、朽ちるものに心を奪われずに、見えざる「神秘」(奥義)を見つつ、この世の日々を生きようではないか」と、パウロは呼びかけるのです。

2017.09.09(日)の礼拝の週報

36│2017年09月03日 聖霊節14 忍耐

週    句

彼は、傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ書 42:3
説  教  「〈見えないもの〉を望む」  :梅田 環

ハバ3:17~19、ロマ8:18~25、マタ13:24~43、詩90:1~12。

わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
ローマの信徒への手紙 8:25

 当時、殉教をも強いる厳しい状況は、信仰者を、肉体を持つがゆえの苦悩へと追いやりました。毒麦が放置されるかのような(マタ13:30)空しさがあり、人生の労苦と災いは避けがたかったのです。神の似姿を失った人間は、キリストによって神の子とされ、聖霊を「初穂」として与えられているのですが(ロマ8:23)、この世にあっては「滅び」を思わざるを得ない現状の中で「うめく」のです(ロマ8:21)。このうめきは、信仰を捨てずにとどまるがゆえの嘆き、祈り、呟(つぶや)きなのでありましょう。
 そこから贖(あがな)い出されるのは、人間のみならず、自然界も同様である、とパウロは言います。「共に産みの苦しみを味わっている一語は、新しいメシアの時代が始まるという黙示的なイメージを語った言葉といわれます。すべてはキリストの終末的支配に向かって導かれていることを語っているのであり、その見えざる希望によってわたしたちは救われているのです。
 「忍耐」(ロマ8:25)という語には、「身に引き受ける」と言う意味もあります。わたしたちの忍耐は「贖われることを待ち望みつつ、キリストのゆえに引き受けたものではないか」と呼びかけているのです。忍耐は終わりの時に裁く神様を見上げる信仰を養います。
 わたしたちは「葡萄の木は実をつけない」(ハバ3:17)現実(「フクシマ」を見よ!)にあっても、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と言い切ることによって、信仰者としての足をたしかなものとされるのです。

2017.08.31(日)の礼拝の週報

35│2017年08月27日 聖霊節13 家族

週    句

神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。
ペトロの手紙 一 5:5
説  教  〈主にあって〉仕え合う   :梅田 環

創24:62~67、コロ3:18~4:1、マタ12:43~50、詩128:1~6。

妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当ってはならない。子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち…。奴隷たち…。主人たち…。
コロサイの信徒への手紙 3:18〜21

 わたしたちは、最も近い者に対して配慮に欠ける所があり、その罪が生活の中で形になるのを、自分のことながら、戦慄するのです。「主にあって」ということを家族関係においても覚えるようにしたい。
 当時、ローマ人は奴隷に対して冷酷で、人間として見なさなかったと言われますが、経済的な理由で奴隷とされた者を一人の人間として扱うことで、その風潮に否を述べたのです。
 奴隷たちへの勧めでは、「肉による主人」と限定をつけ、本来の主人は神であることを伝えています。神に仕える者が地上の秩序の下にあるのであって、へつらおうとすることは、経済的な事情が内面にまで入り込み、自分の生き方までも変えてしまうことですから、「キリストに仕え」ていることを忘れないようにと勧めます。主人には、天におられる主人である神に仕えるよう命じ、奴隷を含む家族は主によってあるべき関係に置かれることを教えたのです。
 そのような場は主の祝福を現します。イサクは妻リベカを愛することで慰めを得(創24:67)、人との関係において心が癒されていくことを物語っています。そのような関係は、「家族」、「主人と奴隷」というこの世の枠においてだけではありません。「御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタ12:50)と言われた通り、信仰ゆえの交わりは、好ましい家族の関係に匹敵します。また、教会での交わりからも、家族関係のあり方を教えられます。

2017.08.27(日)の礼拝の週報

34│2017年08月20日 聖霊節12 苦難の共同体

週    句

いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。
詩編 33:12
説  教  「この言葉は、あなたがたを造り上げ……」:梅田 環

苦難の共同体
エレ20:7~13、使20:17~35、マタ10:16~25、詩57:2~12。

そして今、神と恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
使徒言行録 20:32

 エフェソの長老へのパウロの遺言は、使徒言行録に収められることで、すべての教会への伝言となりました。第3次伝道旅行を総括するように話したのは、試練に遭いながらも、主に仕えて来たことでした。苦難が待ち受けていることを知りつつも、福音を力強く証しする任務を喜びとする姿勢をもって、長老たちに勧めを述べたのでした。
 その中心は、あなたがた自身と教会全体とに気を配ることで、群れの監督者として上に立って見守るように、との勧めです。「気を配る」という語には、用心するという意味もあり、後に、「残忍な狼」が入り込むことを心配して語ったのです。
 イエスさまは、弟子の派遣に際して、「狼の群れに羊を送り込むようなもの」(マタ10:16)と言われましたが、弟子たちを案じる主の心情に通じるものがパウロの心中にもあったのではないでしょうか。
 エフェソの教会は、パウロを送り出すことによって、自分たちの足で立ち始めるのです。パウロが、伝道する中で自分の弱さに気付き、自分の罪と人間たるものの罪、国家の罪、に出会って、神の赦しと導きとを祈ったように、今度は、わたしたちが、自分の罪の中にイエスさまがいてくださることを知る歩みを始めるのです。そういう信仰者を育てることで、教会が建てられていきます。神がご自分のものとされた教会ゆえに、「受けるよりは与える方が幸いである」(使20:35)との主の言葉を思って、奉仕する、そのような群れとなるよう、道を示したのでした。

2017.08.19(日)の礼拝の週報

33│2017年08月13日 聖霊節11 宣教への派遣

週    句

すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。
ルカによる福音書 12:48
説  教  「教会は…聖霊の慰めを受け、基礎が固まって」:梅田 環

宣教への派遣
ヨナ3:1~5、使9:26~31、マタ9:35~10:16、詩71:14~19。

こうして、教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を恐れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって
使徒言行録 9:31

 サウロ(パウロ)は、回心したあと、キリスト者と自称してキリスト者の集会に入り込み、共同体を根絶しようとしているのではないか、と疑われ、仲間として加わるのを拒まれます。それも予想していたでしょうが、それでも、使徒たちと共に宣教活動を担うことを望みました。執り成したのはバルナバです。大胆な宣教(例えば、使9:27など)は使徒的宣教の特徴で、博識や形式的な権威には依らず、主の霊によって大胆に語る権威を与えられていたためでした。
 サウロはユダヤ人とも「議論」しましたが、これは敵対的な意味で用いられる語を使っています。ステファノとの議論に負けたユダヤ人が、彼を逮捕し殺したのと同様、ここでもサウロを殺すべく、企みが始まることを予感させます。その事情を知った兄弟たちに助けられ、タルソスへと向かうのでした。
 迫害者であったサウロが回心したことによって、ユダヤ人による迫害は一時治まり、教会は基礎を固めることができました。これは「建て上げる」という語で、パウロが後の手紙の中で教会形成を意味する言葉として用いているものです。
 教会が受けた「聖霊の慰め」とは日本語のいう「慰め」より広い意味があり、勧め、励まし、力づけ、勇気を与え、警告することです。聖霊が彼らを、具体的に、導き、押し出していったのでした。「信者の数が増えていった」と訳されたのは、「増大され、豊かに分け与えられる」という言葉ですから、内的に充実し、恵みが増していったと言うことです。わたしたちもひたすら恵みの御業を語り続けます。

2017.08.13(日)の礼拝の週報