26│2017年06月25日 聖霊節4 世の光としての使命

週    句

疲れた者、重荷を負う者は、だれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28
説  教  「自分の救いを達成するように努める」  :梅田 環

世の光としての使命
イザ60:19~22、フィリ2:12~18、マタ5:13~16、詩67:2~6。

……わたしが共にいるときだけではなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
フィリピの信徒への手紙 2:12b

 使徒パウロは、キリスト賛歌(フィリ2:6~11)に続き、その救いに与っている群れのあり方を教えます。パウロは、自分が去った後も、信徒たちが主体的に教会造りに心を砕いて欲しいと願ったのです。
 「従順」とは、神の言葉に聞き従う信仰を貫くよう勧めた言葉。それによって、「自分の救いを達成するように努めなさい」と言います。これは「引き出す、実現させる」という言葉を使っていて、神から救いを与えられることによって、自分の中で救いが形になっていくことを語ったものです。だから、「あなたがたの内に働いて……おられるのは神である」というのです。「内に」というと、「個々の内面に」という印象を持ちますが、「その者たちの間で、その者たちに何かが生起する」という意味です。「あなたがた」という群れの中に神が働いているという点こそが重要です。
 その神の働きに与ることによって、神に対して従順な群れ、命の言葉を保つ群れが形づくられるのです。「不平や理屈を言わずに」とは、自分が清い者となるために黙々と、ということではなく、「神に反抗することなく、むなしい議論で終わることなく」という意味です。
 そうすれば、「神の子として、世にあって星のように輝き」と言います。神の子とは神から生まれた者、神によって神のものとされた、という意味です。そのわたしたちは、終末を待つまでもなく、今、輝くのです。命の言葉、すなわち、福音を聞き、信じ、語り、内在させ、思い起こし、伝えるという教会の働きそのものが、輝きなのです。

2017.06.24(日)の礼拝の週報

25│2017年06月18日 聖霊節3 悔い改めの使信

週    句

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカによる福音書 10:16
説  教    「低みに立って見直しを」 :梅田 環

悔い改めの使信
エゼ18:25~32、使17:22~34、マタ3:1~6、詩25:1~11。

さて、神は、このような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今は、どこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
使徒言行録 17:30

 アテネの町の至るところに偶像があるのを見て、パウロは憤慨します。パウロはそこに人間の内なる罪を見ました。彼は偶像の問題を明らかにしながら、本当の神を示します。人間が造った神殿に、創造者なる神が住むのではないという主張は、ステファノの説教にもありました(使7:48)。また、神は何かを必要としているのでもない、と、祭儀批判をします。神は、すべての民族を造り、住まわせ、神を求めさせるのだから、人間の造った像とは違う、と語ったのです。
 神が無知の時代を大目に見られたというのは、キリストの復活以前のことで、神はキリストを復活させ、救いの確証を与えられたゆえ、悔い改めを求めたのです。その悔い改めとは、従来の世界観を覆すことです。人間が、自分で神を把握し、献げ物によって怒りを宥めることができると考える、人間を中心とした神観を砕くことです。
 バプテスマのヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけますが(マタ3:2)、人々がやがて復活のイエスさまに出会うに至ることを思いますと、神の御心、御計画に、心を向けるよう勧めたことが分かります。
 わたしたちは、ここで登場した「哲学者」から「信仰者」へと変わっていかなければならないのではないでしょうか。「あなたのまことにわたしを導いてください」(詩25:5)との祈りのように、神の真理の中に導かれなくてはならないのです、わたしたちは。「新たにしたまえ、このわたしを、聖霊によって」!

2017.06.18(日)の礼拝の週報

24│2017年06月11日 聖霊節2 神の富

週    句

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地を全て覆う。
イザヤ書 6:3
説  教    「天の祝福で満たし」   :梅田 環

神 の 富
イザ6:1~8、エフェ1:3~14、マタ11:25~30、詩99:1~9。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめ讃えられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
エフェソの信徒への手紙 1:3

 父なる神は「赦す神」であることを、イエスさまを通して明らかにしてくださいました。その「神の秘められた計画」とは、キリストにおいてあらゆるものが一つにまとめられることによって、神の創造と救いのみ旨が実現することです。イエスさま御自身、父なる神と子なる神の関係を語った後で、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました(マタ11:28)。「休む」とは、救いの賜物としての安息のことであり、その御業に向けて、だれでも集められるのです。
 万物は、それ自体で完結しているのではなく、目標に向けて方向付けられたもので、わたしたちも、キリストにおいて祝福され、選ばれ、神の子とされ、恵みを与えられ、贖われ、罪を赦される者です(エフェ1:3~7)。それを信じての「押される証印」とは、バプテスマのことです。イザヤが火をもって罪の赦しを宣言されたように(イザ6:7)、聖霊によって、証印を押していただいたのです。
 神は、ペンテコステにおいて聖霊を注いだように、わたしたちにも聖霊を与えて、御国を受け継ぐための保証としてくださいます。わたしたちが最後に受け継ぐものの保証は、自分の心のもち方や行いではなく、聖霊であるという真理は、どれほどパウロを支えたことでしょう。自分に絶望するとき、信仰が疑わしくなるとき、聖霊がわたしたちを導きます。その聖霊は、父なる神、キリストなる神、と繋がっています。あの天地を創造された神、十字架でわたしの罪を贖ってくださった神が、聖霊を送り、わたしたちの今日を支えます。

2017.06.11(日)の礼拝の週報

23│2017年06月04日 聖霊節1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4:6
説  教   牧師給支援から受けたこと:西條由紀夫

聖霊の賜物
ヨエ2:23~3:2、使2:1~11、マタ12:14~21、詩51:12~19。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〈霊〉が語らせるままに、他の国の言葉で話しだした。
使徒言行録 2:3,4

 権力者を恐れて、部屋に閉じ籠(こも)っていた弟子たち。しかし、彼らは、突然、語り出したのでした、イエスさまと一緒に行動していたときと同じように、内側から支えられる力をいただいて。
 イスラエルの歴史においては、神の霊は、特別に選ばれた者だけに注がれるものでしたから、「『すべての人にわが霊を注ぐ』(ヨエ3:1)との預言が成就したのだ(!)」という、ペトロの説教(宣言)は、驚くべきものでした。それを断行できたのは、聖霊がイエスさまによって、決定的に位置付けられたからでした。
 聖霊は、父なる神とイエスさまから送られ、イエスさまと同じ質をもつゆえに、イエスさまが全ての人に語りかけるごとくに、全ての人に臨み、働きかけるのです。預言者ヨエルが終末の出来事として語ったものが、今、起きたということは、今、神が介入され、新しい支配を始められたということです。その事実に触れた弟子たちは、震えるような思いで、語り出したのではないでしょうか。
 弟子たちが多くの国の言葉で話したのは、福音が広く伝えられていくことを象徴しています。マタイ福音書ではイザヤ書の言う「彼は異邦人に正義を知らせる」(マタ12:18)との言葉をイエスさまに重ねました。イエスさまによってもたらされる救いは異邦人にまで及ぶのです。世界中の人々に、聖霊が注がれ、その中でキリストが働かれる、その知らせこそペンテコステに他なりません。わたしたちの内に、教会に、あらゆる命と命の交わりに、「確かな霊を」!(詩51:12)。

2017.06.04(日)の礼拝の週報

22│2017年05月28日 復活節7 キリストの昇天

週    句

わたしは地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書 12:32
説  教    〈使命に立て!〉  :梅田 環

キリストの昇天
エレ10:1~10a、エフェ4:1~16、ルカ24:44~53、詩93:1~5。

イエスは……手を上げて祝福され、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
ルカによる福音書 24:50〜51

 十字架の死の後、悲しみと不安の中で、復活の主にお会いした弟子たちは、今や、昇天という偉大な出来事に出会い、その「威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる」(詩93:1)様に触れ、イエスさまを真の神として伏し拝んだのでした。イエスさまは、預言者エレミヤが伝えたように、偶像の神とは違う生ける神であり、「真理の神、命の神、永遠を支配する王」(エレ10:10)です。その主の勝利を見せていただき、弟子たちは喜んだのでした。
 証人として、使命を与えられた彼らにとって、イエスさまの昇天とは、新しい出発です。共にいた時間を懐かしみ、惜しむのではなく、先へと進んで行かなくてはならないのです。従いきれなかった後悔も、すべて真の神である方に委ねて、〈使命に立て!〉と召されたのです。イエスさまは「全てのものを満たすために……天よりも更に高く上られた」(エフェ4:10)のであり、もはや時間と場所の制約を超えて、高い所からの力(聖霊)をもって覆ってくださいます。その力に支えられて、弟子たちはイエスさまを証しして行くのです。
 イエスさまの昇天は、弟子たちが向かうべき先を指し示しました。十字架で死なれたイエスさまが神の栄光を帯びて天に上げられたということは、弟子たちもまた、たとえこの世でボコボコボロボロになろうとも、終わりの時には、天にいるイエスさまが迎えてくださると信じ得る信仰の基盤となったのではないでしょうか。そのように、イエスさまを信じて、悔い改めつつ、天を見上げて生きる彼らの生涯こそ、「証人」の召しを全うするものでした。

2017.05.27(日)の礼拝の週報

21│2017年05月21日 復活節6 イエスの祈り

週    句

神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれなかった。
詩編 66:20
説  教   「だから、こう祈りなさい」:梅田 環

イエスの祈り
列上18:20~39、ヘブ7:11~25、マタ6:1~15、詩95:1~11。

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ。/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/御心が行われますように、天におけるように地の上にも。……
マタイによる福音書 6:9〜10

 施しと祈りと断食は重んじられた善行でした。しかし、信仰生活は表面的に流れがちです。人間の罪と弱さを知るイエスさまは、見上げるべき先を示し、祈る言葉を教えられました。神を父と呼び、神の子とされた者として祈れと勧めます。「御名」が崇められるとは、自分を神のごとくに思う高慢から解放されて、神を神とすることができるように、との祈りです。礼拝中はもとより、生活万端に関係します。
 「国」は「支配」とも訳せることから、神の支配を求めるもので、わたしたちも、その支配下に置かれるように、という祈りでもありましょう。「御心」の祈りは、神が御心をなして行く御業の中にわたしたちが取り込まれることを前提とします。
 日々の糧と赦しを祈ることも赦されました。「わたしたちも……赦しましたように」と付されたのは、赦せないという思いを持つわたしたちが神の赦しの深さを知るためであり、「赦しなさい!」との勧めです。この祈りは、最後の「悪より救い出したまえ」という祈りと、前半の御名・御国・御心を祈る祈りに支えられています。
 十字架の主を遣わされた父の御心がなるように、わたしの罪をも神の支配下に置かれ、悪しき思いから解放されることを祈りつつ、赦しを乞い願うのです。その祈りは、イエスさまが執り成してくださいます。「ともにひれ伏し、伏し拝もう」(詩95:6)との呼びかけの通り、全地に主の御支配のなることを願いつつ、「主の祈り」を共に祈るわたしたちでありたいと思います。

2017.05.21(日)の礼拝の週報

20│2017年05月14日 復活節5 父への道

週    句

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編 98:1
説  教   「わたしは道であり、真理であり、命である」:梅田 環

父への道
サム下1:17~27、Ⅰヨハ2:1~11、ヨハ14:1~11、詩98:1~9。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書 14:1〜2

 イエスさまを逮捕しようと謀る者が迫り、弟子の裏切りが予告され、危機が迫り、不安が高まる中、「心を騒がせるな」と命じられます。「住む所」とは「留まる」と言う動詞に由来し、神の許(もと)、神に赦されてある所という意味です。そこに弟子たちがいられるように、場所を用意しに行くのが十字架なのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者……イエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハ2:1)とある通り、イエスさまが執り成しののち、「戻って来て」、すなわち、復活されて、わたしたちを天に迎え入れてくださるのです。
 トマスは不安から、イエスさまのいかれる道が分からないと言い、フィリポは父なる神を示して欲しいと願うのですが、イエスさまは、イエスを知ることで、父なる神を知るのであり、神に至る道を知るのだと言います。「わたしは道であり、真理であり、命である」とは、父へと至る「真理と命」の道(経路)は一つしかなく、それがイエスさまご自身なのだ、と言われたものでした。
 イエスさまの働きは神の働きと結びつけられ、神を信じることとイエスさまを信じることとは同じことだと言われます。信じられないなら「業そのものによって信じなさい」と言われました。イエスさまは、水を葡萄酒に変え、病人を癒し、五千人を養い、湖上を歩み、ラザロを甦らせ、など、創造者たる神の力を現す奇跡をなして来ました。イエスさまを通して「わたしたちの神の救いの御業を見た」(詩98:3)のであって、それ以外ではないのです。父なる神が内におられるがゆえに、「心を騒がせるな」とのみ言葉が重く響きます。


2017.05.14(日)の礼拝の週報

19│2017年05月07日 復活節4 イエスは復活また命

週    句

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
コリントの信徒への手紙 二 5:17
説  教    「わたしは復活であり、命である」  :梅田 環

イエスは復活また命
ネヘ2:1~18、Ⅰコリ12:3~13、ヨハ11:17~27、詩136:1~9。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
ヨハネによる福音書 11:25

 死に打ち勝つとは、死なずに済むことではなく、「死んでも生きる」ことです。死は臨みますが、屈することなく復活することが勝利なのです。イエスさまは、ご自身の中に復活の命があり、イエスさまを信じる所に、死んでも生きる命が与えられることを指し示したのでした。
 イエスさまは、マリアらの悲しみを見、泣くことしかできないと彼らに思わせている死の力に対して憤りました。人を悲しみの淵に追いやる力を打ち砕く勢いで、墓に向かったのでした。ラザロの復活は、主の復活と似ています。「わたしが復活であり、命である」(ヨハ11:25)とは、イエスさまが復活されることを予め言われたのです。
 教会はそのイエスさまを礼拝する場です。体の命を与える神を讃美するのみならず、「驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ」(詩136:4)、と歌い、聖霊によって「イエスは主である」(Ⅰコリ12:3)と告白し、復活であり命であるイエスさまを讃美するのです。
 教会を建てる作業もそのためで、「わたしたちは不幸の中であえいでいる。……エルサレムの城壁を建て直そうではないか」(ネヘ2:17)との呼びかけは、死からの復活をもたらす神のみ業がこの世の形になっていくことを物語っています。
 信仰が礼拝の場を創り、信じる者の群れを創ります。わたしたちの中に入り込み、生活を形創っていきます。「信じる者は、真でも生きる」と言われた方が、わたしたちを創り変え、その人生を導いていくのです。その命の主を仰ぎ、ひたすら従って生きていきたいと願わされます。

2017.05.07(日)の礼拝の週報

18│2017年04月30日 復活節3 新しい命

週    句

わたしは良い羊飼い。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書 10:11、27、28
説  教    「ヨナにまさるもの」 : 梅田 環

新しい命
列上17:17~24、コロ3:1~11、マタ12:38~42、詩116:1~14。

……ここに、ヨナにまさるものがある。
……ここに、ソロモンにまさるものがある。
マタイによる福音書 12:41、42

 律法学者らは、イエスさまに神の子である客観的なしるしを求めました。わたしたちも、それを求めたい気もしますが、その発想には、吟味し判定するのは自分だという思いがあります。彼らも、自分に主権をおくゆえに、「よこしまで神に背いた時代の者」(マタ12:39)と呼ばれたのでした。イエスさまはその求めを拒み、ヨナを魚に飲み込ませ、吐き出させたのは神であったのと同様に、イエスさまも神により、十字架に掛けられ、復活させられる、それがしるしだと言います。
 ヨナの預言を神の言葉として聞いたニネベの人々の姿勢は、エリヤに対して「あなた口にある主の言葉は真実です」(列上17:24)と言った女性に通じるものでした。南の国の女王は、神がソロモンに知恵を与えたとの名声を信じられず、試しに来ましたが、彼に答えられないことはなく、神を讃美して帰りました。ニネベの人々や南の女王ら、神の言葉を真摯に聞く人の姿を通して、そうではない人の本質があらわになるのです。旧約聖書の言葉を聞いて来た者の罪を異邦人が明らかにするという皮肉なことが起こるのです。
 ヨナとソロモンがおぼろげに神を表していたのに対して、ヨナ、ソロモンにまさると言うイエスさまは、神のみ心そのものでした。徹底して神に従い、み心を示し、十字架と復活によって神の存在を表すのです。
 ヨナが預言によって人々を悔い改めに導いた以上に、イエスさまにおいて、神が示されているのですから、そのイエスさまに立ち帰り、従うことが求められているのです。

2017.04.30(日)の礼拝の週報

17│2017年04月23日 復活節2 復活顕現

週    句

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えてくださった。
ペトロの手紙一 1:3
説  教    隠せない主の復活  :梅田

復活顕現
イザ65:17~25、使13:26~31、マタ28:11~15、詩16:5~11。

(兵士たちに金を与え……)「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
マタイによる福音書 28:13

 イエスさまの復活の予告を覚えていたのは、むしろ、祭司長たちでした。弟子が死体を盗んで、主が復活したなどと言いふらさないよう番兵をおいたほどで、主の復活を番兵が報告すると、多額の金を与えて、弟子が盗んだという虚偽の噂を流すことに躍起になりました。そんな疑惑が渦巻く只中で、イエスさまが復活されたという知らせがのべ伝えられたのでした。パウロも、迫害される中で、イエスさまが復活されたことを語っていき、信仰(イエスの道)に入る者たちが起こされていったのでした。
 イエスさまが復活されたという知らせは、多くの困難を乗り越えて、伝えられていったのです。今日の教会においても、同じです。神のなさることは人間の思いによっては理解できないのですが、その中で、神はみ業をなさるのです。今日の教会においても、同じです。
 神のなさることは、人間の思いによっては、理解できないのですが、その中で、神はみ業をなさるのです。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザ65:17)と言われます。「わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(イザ65:18)という神は、わたしたちに信じる思いを与え、み業を喜び楽しむ者とされます。
 主の復活を信じることは、わたしたちを新たに創造する神を信じることです。「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(詩16:7)という神の導きを信じ、主の復活の命に生かされて生きて行こうではありませんか。

2017.04.22(日)の礼拝の週報