30│2017年07月23日 聖霊節8 生活の刷新

週    句

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書 43:1
説  教    「お前たちは何者だ」   :梅田 環

生活の刷新
エレ7:1~7、使徒19:13~20、マタ7:15~29、詩119:105~112。

悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
使徒言行録 19:15

 イエスの名の効力を見て、イエスの名を騙(かた)る者も現れました。しかし、「お前たちは何ものだ」と、その実存を問われ、信仰という中身のない彼らは、結局、逃げるしかありません。
 エレミヤは、自らの行いを正すことなく「主の神殿」という虚しい言葉により頼む者を戒めました(エレ7:4)。イエスさまも、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない、と言われました(マタ7:21)。わたしたちを救うのは「主の名」という魔術ではなく、イエスさまによって示された神の御心です。自らを無に等しくされる方が罪の身のわたしたちを砕き、復活の命をもってわたしたちを生かすという神の御心に、わたしたちの命の基はあるのです。この福音を自らのこととして聞くのが信仰です。
 信仰に入った大勢の人が自らの悪行を告白し、焼かれた魔術の本は銀貨五万枚分にもなりました。銀貨一枚が日当と言われた時代、相当な額でした。イエスさまに生きる基を見出した者が、他のものに頼っていた自分を捨て、新たな生き方へと踏み出したのです。この出来事はイエスさまの教えの深みを示しています。
 「悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタ7:18)と言われているように、いくらイエスの名を唱えても、信仰という中身がないことには、実りがないのです。信じて従う者には、イエスさまご自身が良い実を結ばせると約束してくださいました。信仰は、わたしたちが本気で心を向けるべき先を教えます。

2017.07.23(日)の礼拝の週報

29│2017年07月16日 聖霊節7 祈り

週    句

あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙 2:8
説  教    「(祈りを)すべての人々のために」  :梅田 環

祈   り
歴下6:12~21、Ⅰテモ2:1~8、マタ7:1~14、詩143:1~6。

そこで、まず、第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
テモテへの手紙 一 2:1

 この聖句のキーワードは「すべての人々のために」という所です。王たちや高官という権力を握っている為政者たちも含まれます。異教徒であり迫害者でもある彼らへの執り成しを信仰の課題としました。それは、キリストがすべての人の「仲介者」だからです。この原語は、調停する中立的な人、あるいは証人、保証人を意味しますが、転じて、神と人との間での交渉者、および仲介者、または、執り成し人を表す言葉として用いられて来ました。イエスさまはすべての人の執り成し人なのです。だれもが罪人であるにもかかわらず、贖われています。
 わたしたちは、そのように執り成されたのですから、自らの信仰生活の課題として、執り成しを生きるのです。ソロモンは神殿奉献の際、「この所に向かって、僕がささげる祈りを……聞き届けて、罪を赦してください」と祈り(歴下6:20~21)、それに続けて、さまざま場合のさまざまな罪を挙げて、赦しを願ったのでした。ソロモンはそれぞれの状況に置かれた人の罪を想像し、その重荷を負う人を思いやり、わがこととして祈ったのではないでしょうか。
 執り成しとは、その罪深さを自らのこととして理解したものが神にひれ伏しつつなすものでありますから、わたしたち信じる者に託されたのです。相手を咎めたり、裁いたりすることなく、「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われた主の言葉を信じて、祈りたいと思います。
 「男は怒らず争わず……祈ること」とあるのは、当時、公的な場で祈るのは男性であったようですが、男女を問わない戒めです。

2017.07.16(日)の礼拝の週報

28│2017年07月09日 聖霊節6 主にある共同体

週    句

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテアの信徒への手紙 6:2
説  教  「……自分のものだというものはなく……」 :梅田 環

主にある共同体
イザ49:14~21、使4:32~37、マタ6:22~34、詩133:1~3。

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだというものはなく、すべてを共有していた。
使徒言行録 4:32

 十字架のキリストを信じる信仰は、信じる者たちの心を隣人へと向かわせます。その結果、初代教会の群れの中には「貧しい人がいなかった」のです。それは、一時のことだったかもしれませんが、使徒言行録が敢えてそう記すのは、そこに、終末時の祝福を重ね合わせて想い見ているからです。終末時には、貧しいままに捨て置かれる人はなく、等しく神に満たされる。その様を幻に見ながら、教会がその片鱗を表すようにと、歩んだのです。すべてが神のものとなることを思い、明日のことまで思い悩まないで済むように、群れを形成したのです。
 この箇所(使徒4:32~37)は、わたしたちに隣人との関わり、また、教会と社会との関わりを考えさせますが、隣人の事情や相手の満足を考えるだけでは、わたしたちは行き詰まってしまいます。ですから、人に為す行為も、分配される金も、神に献げるものであることを明確にする必要がありました。「使徒たちの足もとに置いた」のは、キリストの足もとに置くためでした。
 わたしたちの行いは、神に献げられる時、それはただの慈善事業に終わってしまわないのです。限りある時間と富において、この世の問題を担うのですから、理想通りには行きませんが、この地の祝福が完成する神の国と神の義を求めつつなされる時に、必要なものは、加えて与えられることでしょう(マタ6:33)。
 わたしたちも、兄弟が共に座っている恵みを喜び(詩133:1)、共に重荷を負う群れを形成し、また、「主のご用のためにお用いください」と祈りつつ、主への献げ物をしたいと思います。

2017.07.08(日)の礼拝の週報

27│2017年07月02日 聖霊節5 生涯の献げもの

週    句

人の子は、失われた者を探して、救うために来たのである。
ルカによる福音書 19:10
説  教  「この慈善の業においても豊かな者となる」 :梅田 環

生涯の献げもの
申26:1~11、Ⅱコリ8:1~15、マタ5:21~37、詩14:1~7。

あなたがたは、……すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
コリントの信徒への手紙 二 8:7

 この箇所(Ⅱコリ8:1~15)は、使徒パウロがエルサレム教会の困窮への支援をコリントの人々に求めた言葉です。パウロはこの募金を「慈善の業」と呼んでいます。原語は「恵み」という言葉です。
 パウロはこの言葉を、わたしたちが想像する以上の深い意味をもって使っています。使徒職を自覚させられた時も、「恵み」が与えられたと表現しますが(ガラ1:15/2:9)、彼にとって、「恵み」とは、神の特別な愛と使命(神の求め)が臨むことであり、それに応えつつ生きる所に押し出されることでした。彼の使徒としての生涯は苦難の連続ですから、それを「恵み」と呼ぶのは、「神が召しを与えてくださることは、自らへの愛と憐れみのしるしであって、その召しがいかに厳しくても、それに応えることは幸いなことだ」という、彼の信仰があってのことでした。
 ですから、ここでも、キリストの恵みを語り、それに応えるよう促します。マケドニアの信徒たちが、迫害と貧困の中にあるにもかかわらず、力以上に献げたことを語り、献金とは、主イエスに自分自身を献げることだと教えるのです。
 互いの欠乏を補い合うことは「釣り合いがとれる」ことであると説明するために、出エジプトの際、マナが与えられたことを引き合いに出します。教会が導かれて来たのは、イスラエルの民が奇跡をもって導かれたのと同じようなもので、神の憐れみと赦しがあってのものです。そのしるしとして、天から与えられたマナを分けていたように、今、神から与えられたものを分けることが平等なのだ、と語ります。

2017.07.02(日)の礼拝の週報

26│2017年06月25日 聖霊節4 世の光としての使命

週    句

疲れた者、重荷を負う者は、だれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28
説  教  「自分の救いを達成するように努める」  :梅田 環

世の光としての使命
イザ60:19~22、フィリ2:12~18、マタ5:13~16、詩67:2~6。

……わたしが共にいるときだけではなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
フィリピの信徒への手紙 2:12b

 使徒パウロは、キリスト賛歌(フィリ2:6~11)に続き、その救いに与っている群れのあり方を教えます。パウロは、自分が去った後も、信徒たちが主体的に教会造りに心を砕いて欲しいと願ったのです。
 「従順」とは、神の言葉に聞き従う信仰を貫くよう勧めた言葉。それによって、「自分の救いを達成するように努めなさい」と言います。これは「引き出す、実現させる」という言葉を使っていて、神から救いを与えられることによって、自分の中で救いが形になっていくことを語ったものです。だから、「あなたがたの内に働いて……おられるのは神である」というのです。「内に」というと、「個々の内面に」という印象を持ちますが、「その者たちの間で、その者たちに何かが生起する」という意味です。「あなたがた」という群れの中に神が働いているという点こそが重要です。
 その神の働きに与ることによって、神に対して従順な群れ、命の言葉を保つ群れが形づくられるのです。「不平や理屈を言わずに」とは、自分が清い者となるために黙々と、ということではなく、「神に反抗することなく、むなしい議論で終わることなく」という意味です。
 そうすれば、「神の子として、世にあって星のように輝き」と言います。神の子とは神から生まれた者、神によって神のものとされた、という意味です。そのわたしたちは、終末を待つまでもなく、今、輝くのです。命の言葉、すなわち、福音を聞き、信じ、語り、内在させ、思い起こし、伝えるという教会の働きそのものが、輝きなのです。

2017.06.24(日)の礼拝の週報

25│2017年06月18日 聖霊節3 悔い改めの使信

週    句

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカによる福音書 10:16
説  教    「低みに立って見直しを」 :梅田 環

悔い改めの使信
エゼ18:25~32、使17:22~34、マタ3:1~6、詩25:1~11。

さて、神は、このような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今は、どこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
使徒言行録 17:30

 アテネの町の至るところに偶像があるのを見て、パウロは憤慨します。パウロはそこに人間の内なる罪を見ました。彼は偶像の問題を明らかにしながら、本当の神を示します。人間が造った神殿に、創造者なる神が住むのではないという主張は、ステファノの説教にもありました(使7:48)。また、神は何かを必要としているのでもない、と、祭儀批判をします。神は、すべての民族を造り、住まわせ、神を求めさせるのだから、人間の造った像とは違う、と語ったのです。
 神が無知の時代を大目に見られたというのは、キリストの復活以前のことで、神はキリストを復活させ、救いの確証を与えられたゆえ、悔い改めを求めたのです。その悔い改めとは、従来の世界観を覆すことです。人間が、自分で神を把握し、献げ物によって怒りを宥めることができると考える、人間を中心とした神観を砕くことです。
 バプテスマのヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけますが(マタ3:2)、人々がやがて復活のイエスさまに出会うに至ることを思いますと、神の御心、御計画に、心を向けるよう勧めたことが分かります。
 わたしたちは、ここで登場した「哲学者」から「信仰者」へと変わっていかなければならないのではないでしょうか。「あなたのまことにわたしを導いてください」(詩25:5)との祈りのように、神の真理の中に導かれなくてはならないのです、わたしたちは。「新たにしたまえ、このわたしを、聖霊によって」!

2017.06.18(日)の礼拝の週報

24│2017年06月11日 聖霊節2 神の富

週    句

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地を全て覆う。
イザヤ書 6:3
説  教    「天の祝福で満たし」   :梅田 環

神 の 富
イザ6:1~8、エフェ1:3~14、マタ11:25~30、詩99:1~9。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめ讃えられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
エフェソの信徒への手紙 1:3

 父なる神は「赦す神」であることを、イエスさまを通して明らかにしてくださいました。その「神の秘められた計画」とは、キリストにおいてあらゆるものが一つにまとめられることによって、神の創造と救いのみ旨が実現することです。イエスさま御自身、父なる神と子なる神の関係を語った後で、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました(マタ11:28)。「休む」とは、救いの賜物としての安息のことであり、その御業に向けて、だれでも集められるのです。
 万物は、それ自体で完結しているのではなく、目標に向けて方向付けられたもので、わたしたちも、キリストにおいて祝福され、選ばれ、神の子とされ、恵みを与えられ、贖われ、罪を赦される者です(エフェ1:3~7)。それを信じての「押される証印」とは、バプテスマのことです。イザヤが火をもって罪の赦しを宣言されたように(イザ6:7)、聖霊によって、証印を押していただいたのです。
 神は、ペンテコステにおいて聖霊を注いだように、わたしたちにも聖霊を与えて、御国を受け継ぐための保証としてくださいます。わたしたちが最後に受け継ぐものの保証は、自分の心のもち方や行いではなく、聖霊であるという真理は、どれほどパウロを支えたことでしょう。自分に絶望するとき、信仰が疑わしくなるとき、聖霊がわたしたちを導きます。その聖霊は、父なる神、キリストなる神、と繋がっています。あの天地を創造された神、十字架でわたしの罪を贖ってくださった神が、聖霊を送り、わたしたちの今日を支えます。

2017.06.11(日)の礼拝の週報

23│2017年06月04日 聖霊節1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4:6
説  教   牧師給支援から受けたこと:西條由紀夫

聖霊の賜物
ヨエ2:23~3:2、使2:1~11、マタ12:14~21、詩51:12~19。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〈霊〉が語らせるままに、他の国の言葉で話しだした。
使徒言行録 2:3,4

 権力者を恐れて、部屋に閉じ籠(こも)っていた弟子たち。しかし、彼らは、突然、語り出したのでした、イエスさまと一緒に行動していたときと同じように、内側から支えられる力をいただいて。
 イスラエルの歴史においては、神の霊は、特別に選ばれた者だけに注がれるものでしたから、「『すべての人にわが霊を注ぐ』(ヨエ3:1)との預言が成就したのだ(!)」という、ペトロの説教(宣言)は、驚くべきものでした。それを断行できたのは、聖霊がイエスさまによって、決定的に位置付けられたからでした。
 聖霊は、父なる神とイエスさまから送られ、イエスさまと同じ質をもつゆえに、イエスさまが全ての人に語りかけるごとくに、全ての人に臨み、働きかけるのです。預言者ヨエルが終末の出来事として語ったものが、今、起きたということは、今、神が介入され、新しい支配を始められたということです。その事実に触れた弟子たちは、震えるような思いで、語り出したのではないでしょうか。
 弟子たちが多くの国の言葉で話したのは、福音が広く伝えられていくことを象徴しています。マタイ福音書ではイザヤ書の言う「彼は異邦人に正義を知らせる」(マタ12:18)との言葉をイエスさまに重ねました。イエスさまによってもたらされる救いは異邦人にまで及ぶのです。世界中の人々に、聖霊が注がれ、その中でキリストが働かれる、その知らせこそペンテコステに他なりません。わたしたちの内に、教会に、あらゆる命と命の交わりに、「確かな霊を」!(詩51:12)。

2017.06.04(日)の礼拝の週報

22│2017年05月28日 復活節7 キリストの昇天

週    句

わたしは地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書 12:32
説  教    〈使命に立て!〉  :梅田 環

キリストの昇天
エレ10:1~10a、エフェ4:1~16、ルカ24:44~53、詩93:1~5。

イエスは……手を上げて祝福され、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
ルカによる福音書 24:50〜51

 十字架の死の後、悲しみと不安の中で、復活の主にお会いした弟子たちは、今や、昇天という偉大な出来事に出会い、その「威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる」(詩93:1)様に触れ、イエスさまを真の神として伏し拝んだのでした。イエスさまは、預言者エレミヤが伝えたように、偶像の神とは違う生ける神であり、「真理の神、命の神、永遠を支配する王」(エレ10:10)です。その主の勝利を見せていただき、弟子たちは喜んだのでした。
 証人として、使命を与えられた彼らにとって、イエスさまの昇天とは、新しい出発です。共にいた時間を懐かしみ、惜しむのではなく、先へと進んで行かなくてはならないのです。従いきれなかった後悔も、すべて真の神である方に委ねて、〈使命に立て!〉と召されたのです。イエスさまは「全てのものを満たすために……天よりも更に高く上られた」(エフェ4:10)のであり、もはや時間と場所の制約を超えて、高い所からの力(聖霊)をもって覆ってくださいます。その力に支えられて、弟子たちはイエスさまを証しして行くのです。
 イエスさまの昇天は、弟子たちが向かうべき先を指し示しました。十字架で死なれたイエスさまが神の栄光を帯びて天に上げられたということは、弟子たちもまた、たとえこの世でボコボコボロボロになろうとも、終わりの時には、天にいるイエスさまが迎えてくださると信じ得る信仰の基盤となったのではないでしょうか。そのように、イエスさまを信じて、悔い改めつつ、天を見上げて生きる彼らの生涯こそ、「証人」の召しを全うするものでした。

2017.05.27(日)の礼拝の週報

21│2017年05月21日 復活節6 イエスの祈り

週    句

神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれなかった。
詩編 66:20
説  教   「だから、こう祈りなさい」:梅田 環

イエスの祈り
列上18:20~39、ヘブ7:11~25、マタ6:1~15、詩95:1~11。

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ。/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/御心が行われますように、天におけるように地の上にも。……
マタイによる福音書 6:9〜10

 施しと祈りと断食は重んじられた善行でした。しかし、信仰生活は表面的に流れがちです。人間の罪と弱さを知るイエスさまは、見上げるべき先を示し、祈る言葉を教えられました。神を父と呼び、神の子とされた者として祈れと勧めます。「御名」が崇められるとは、自分を神のごとくに思う高慢から解放されて、神を神とすることができるように、との祈りです。礼拝中はもとより、生活万端に関係します。
 「国」は「支配」とも訳せることから、神の支配を求めるもので、わたしたちも、その支配下に置かれるように、という祈りでもありましょう。「御心」の祈りは、神が御心をなして行く御業の中にわたしたちが取り込まれることを前提とします。
 日々の糧と赦しを祈ることも赦されました。「わたしたちも……赦しましたように」と付されたのは、赦せないという思いを持つわたしたちが神の赦しの深さを知るためであり、「赦しなさい!」との勧めです。この祈りは、最後の「悪より救い出したまえ」という祈りと、前半の御名・御国・御心を祈る祈りに支えられています。
 十字架の主を遣わされた父の御心がなるように、わたしの罪をも神の支配下に置かれ、悪しき思いから解放されることを祈りつつ、赦しを乞い願うのです。その祈りは、イエスさまが執り成してくださいます。「ともにひれ伏し、伏し拝もう」(詩95:6)との呼びかけの通り、全地に主の御支配のなることを願いつつ、「主の祈り」を共に祈るわたしたちでありたいと思います。

2017.05.21(日)の礼拝の週報