54│2019年12月29日 降誕1 先 駆 者

週    句

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネによる福音書 1:14
説  教    祈られている私たち    :草苅祐子
ヨハネによる福音書 17: 20~26

東方の学者たち
イザ11:1~10、ガラ3:26~4:7、マタ2:1~12、詩145:10~21。

ところが、「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書 2:12

 「ユダヤ人の王」を捜す旅が、聖なる都エルサレムで完結すると思いきや、舞台はベツレヘムへと移されます。「ユダヤ人の王」として生まれた方を、当然のようにヘロデのもとに探し求めようとした占星術の学者たちの姿には、代々受け継がれた当時の「当たり前」が影響を及ぼしているかのようです。しかし、当時、寒村であったとされる「ユダの地、ベツレヘム」にてユダヤ人の王として、救い主としてお生まれになった主イエスは、人間の思い描く「常識」や「当たり前」を凌駕した神の恵みと救いの業を現されました。
 王宮に身を置くのではなく、ごく一般の人々の生活が根付く場所でお生まれになり、ベツレヘムの家の中で、地上での最初の歩みを始められた「ユダヤ人の王」。この方のご降誕を通して、これまで繋がるはずのなかった関係が繋がり、断たれていた交わりが回復する。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)とのみ言葉は確かなものです。クリスマスを迎える一つの意味を思い、回復と解放の喜びへと皆が招き入れられるのです。全ての人に与えられる恵みを告げ知らせる教会としての使命を確認したいと思います。
 と、同時に、教会が、キリスト者一人ひとりが、この世にあって、どこに立っているのか、立たねばならないのか、わたしたちの「当たり前」は、はたして、「当たり前」か。幼子主イエスを通して、今わたしたちに問われれているのではないでしょうか。