40│2019年09月29日 聖霊17 十字架を背負う

週    句

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方のことを心にかけていてくださる。
ペトロの手紙 一 5:7
説  教    「共に喜び、共に泣く」 
           〜地域宣教を担うわたしたち〜:草苅隆幸

新しい人間
創37:12~28、コロ3:12~17、ルカ15:11~32、詩37:7~22。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
コロサイの信徒への手紙 3:12

 コロサイの教会に与えられている徳目表は他の書簡にも見られる一般的なものです。キリスト教に、また、キリスト教徒にとってのみ、それらが必要なわけでも、実行可能なわけでも、決して、ないものです。ギリシャ哲学においても要求される徳であったそれらのものは、しかし、キリスト者においては「主」が基準となっています。
 イエス・キリストによって悪や過ちから買い戻してもらった者であるから、これらの徳がキリスト者に求められるのだ、と言うのです。著者は、その徳の実践には、人間の意思や努力が必要だとは語りません。求めるべきは、キリストが人間に示してくださった「全てを完成させる愛であり、それに「与らせるために」招かれているところの平和です。
 この両者は、いずれも人間の外からやって来るものです。著者が伝えようとしていることは、その人間の外からやって来るものに対して、心開かれてあれ、ということ。それは、著者の伝えるところによれば、「言葉」を受け取り、「互いに教え」、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して、心から神をほめたたえ」ること、すなわち、礼拝行為です。
 キリスト者であることは、社会の中で生きる時に、高い倫理基準を持って生きることではありません。キリスト者であることは、神に生かされ、担われ愛された喜びと感謝を持って、礼拝する人間として生きることです。わたしたちも、著者の書き上げる徳目を喜び、力まないで、主の日の賛美を建てる礼拝者集団でありたい。