04│2019年01月20日 降誕4 宣教の開始

週    句

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられた。
ヨハネによる福音書 1:17
説  教  「この聖書の言葉は実現した」:梅田 環

宣教の開始
民9:15~23、Ⅰコリ1:1~9、ルカ4:16~30、詩111:1~10。

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
ルカによる福音書 4:21

 「イエスを信じる」と言う時には、心のどこかに視点の転換が起こっているものです。人は、何か人生の肥やしや生きるための癒しを求めて、教会に来たり、聖書をひも解いたりするのですが、結果として、受け取るものは、そうした自分の人生にとって漠然と「プラスになる」ものではない(!)ことが多いものです。
 イエスが育ったその場所ナザレでどのようにして受け入れられたのかを、ルカ福音書は伝えます。会堂で、イエスが朗読するのは、来るべきメシアについてのイザヤの預言です。朗読を通して、自らを、公(おおやけ)に、救いの業を行う者として示すイエスに対して、人々は、それを肯定的に受け入れます。ナザレの人々にとって、地元に根ざして生活を共にしているこの人が、聖書の伝えるメシアであることに対する驚きはあるにしても、決定的な拒絶には至りません。メシアが、当たり前の出自をもつ一般人だとしてもなお、自分がなんらかの形で救いに与ることができるのであれば、問題はなかったのです。
 ところが、イエスは故郷の人々の期待に対して水を差します。「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と、エリヤやエリシャを例に出して、救いはイスラエル民族の枠組みを超えていることを伝え、イエスとの物理的な距離の近さや心情的な近さなどは、イエスの示す救いに与る根拠にはならないことを告げました。
 イエスがなそうとする業は、こうして、本来自分に優先権があると考えていた人々の期待を大きく裏切る形で始められることが示され、それゆえ「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨」しました。