49│2018年12月02日 降誕前4 主の来臨の希望

週    句

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書 9:9
説  教  「〈主は我らの救い〉と呼ばれる」    :梅田 環

主の来臨の希望
エレ33:14~16、ヤコ5:1~11、ルカ21:25~36、詩25:1~14。

『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
エレミヤ書 33:16

 民を正しく導こうとしない指導者によって、混乱し、苦難を味わう人々に対して、神は「若枝」を与えると約束し、その王は「主は我らの救い」と呼ばれる、と言われます(23章)。苦しみの中に導き手を求める人々に対して、正義の王が与えられる、その約束は不正がはびこる世界の一筋の光りです。ところが、エレミヤの預言の中では、この約束が実現する様子は描かれません。この言葉を語ったあと、エレミヤはバビロニアによる占領と捕囚を預言します。不吉なことばかりを口にするエレミヤに、王は腹を立て、牢につないでしまいます。
 指導者は全うな政治を行うことをせず、正しい道に立ち帰らない。その結果、国民が戦争被害を免れ得ないことが明らかになるときに、33章で、もう一度同じ預言が繰り返されます。神が「正義の若枝を生え出させる」、とエレミヤがあらためて預言するとき、その若枝は、「王」とは呼ばれません。現実の政治指導者は決して「公平」や「正義」という、人々が心から待ち望んでいるものをもたらすことは、ない(!)。それが、もはや、エレミヤにとって避けようのない明白な事実となっていたからです。
 こうして、かつて、「王」に結びつけられていた「主は我らの救い」という名前は、ここでは、個人ではなく、エルサレムという街に結びつけられます。政治指導者への不信の中、「主は我らの救い」という名は、人ではなく、街、小さなもの・個別的なものではなく、より普遍的なものに結びつけられています。
 「主は我らの救い」と呼ばれるべきは、地上の指導者でもなければ、暴力の進行している街でもないことを心に刻もう!アドベントの今