36│2018年09月02日 聖霊降臨16 生涯のささげもの

週    句

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを、何ひとつ忘れてはならない。
詩編 103:2
説  教    「神によって使徒とされた」:梅田 環

生涯のささげもの
列上21:1~16、ガラ1:1~10、マル12:35~44、詩119:73~80。

人々からでも、人を通してでもなく、イエス・キリストと、……神とにによって使徒とされたパウロ、
ガラテアの信徒への手紙 1:1c

 〈福音か、律法か〉(恵みか、裁きか)! ガラテアの人々は、パウロの告げる福音によって、新しい道を歩みはじめていた。しかし、律法をどうするのかという問題に直面していた。パウロは叱責するが、律法が書かれている文書も、神の言「聖書」である。取捨選択できるのか。パウロの語る〈律法からの解放〉とどう折り合いをつければよいのか、との問いがでて来るのも当然であろう。
 パウロは律法からの解放を語ったが、それは律法を捨てることを意味するものではない。パウロは、かつて、この律法が何を意味しているか、どう生きるべきか、を自分で考えることなしに思考停止に陥ったがゆえに、他者の信仰を受け入れられず、キリスト者を迫害した。キリストとの出会いによって、パウロは自分の思考や自由を奪う縄目から解放され、自由を得た。ガラテアの人々にかつての自分自身を見、なんとかしてこの呪縛から解き放たれるようにとの思いから、これほどの厳しい口調になってしまったのであろう。
 マルコ福音書では、律法学者とやもめが対比されている。権力を持つ律法学者は、やもめを食い物にしていた。財産等を横領し、その理不尽な扱いに、もの言わせず、諦めさせ、この権力者の保護がなければ生きていけないと思い込ませていた。財産のみならず、自分自身で判断する自由をも奪っていたのだ。そのやもめが、自分の足で、神のもとに向かい、心のままに捧げものをした。彼女は彼女を解放してくださる神に心を向け、自らの足で立っているのである。
 聖霊を受けた弟子たち、パウロも、自らの言葉で語った、自由を!