13│2019年03月24日 復活前4 受難の予告

週    句

鋤に手をかけてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。
ルカによる福音書 9:62
説  教   「自分を捨て、自分の十字架を背負って」 :梅田 環

受難の予告
イザ63:7~14、Ⅱテモ2:8~13、ルカ9:18~27、詩107:1~16。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
ルカによる福音書 9:23

 イエスは重ねて、今度は弟子たちに向かって、同じ問いを投げかけます。そして、筆頭弟子のペトロは答えます。イエスこそメシアである、と。イエスがメシアであると信じる人たちに対して、イエスは使徒復活を予告し、さらには、そのイエスに従うことを願う者がどのように生きればよいか、を語ります。それは、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」イエスに従うことであり、その結果、「わたしのために命を失う者は、それを救う」ことが約束されます。
 イエスは、人が期待したような形では、働かないし、現れません。また、圧倒的な力で、自分たちの脅威となる力を排除するようなこともありません。イエスが示すのは、人々の間に入り、癒し、飢えを満たすという、その場所で、人間が生きることに密着した行為でした。
 イエスがメシアであることを明らかにするのは、十字架と復活の出来事です。イエスは、不確かな人間の歩みを神の前に正しいものとすることのために十字架で命を捨て、過ちの中に、人間を置き去りにするようなことはなさいませんでした。十字架と復活の出来事によって、人間は、あやふやで、不確かな、自分自身を信じることも難しいような日々の、いのちの歩みを続けることができるのです。
 イエスをメシア〈キリスト〉と信じることは「捨てること」だと聖書は教えます。自分にしがみつくのではなく、自分の思いや、自分中心の命のあり方に固執するのでもなく、それを捨てること、日々、捨て続けることだと、福音書は教えます。

2019.03.24(日)の礼拝の週報

12│2019年03月17日 復活前5 悪と戦うキリスト

週    句

キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は、わたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5:8
説  教   「主 に 従 う」!    :大森章弘

悪と戦うキリスト
創6:11~22、Ⅰヨハ4:1~6、ルカ11:14~26、詩140:2~8。

しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
ルカによる福音書 11:20

 悪を克服するために、どのような手段を用いるか、わたしたち人間に思いつくのは、より大きな、より強い力で、それを制するという程度のことでしょう。それがイエスの敵対者たちの理解でした。ところが、イエスは敵対者たちに対して「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と宣言します。
 イエスが悪と対決する仕方は、およそ人間が思いつく仕方とは違うのです。より強い力によって悪を制するのではなくて、全く異なる性質のものによって、悪を制するのだ、というのです。イエスは、それは「神の指によって」、つまり、イエスが行使することができる神の力によるのだ、と語りました。
 同じ質のものとして、また、同じ観点から、より強い力をもって悪を克服するのではないのです。そのような可能性を、イエスは示しています。イエスが共にあるとき、それが可能なのだ、とイエスは言います。つまり、イエスが共にあれば、力によらずに、悪を克服できる、ということなのです。
 人間は強い力を信用します。けれども、イエスによって示される悪の排除は、そのような力を意味のないものにします。人は、無意味な力ではなく、イエスによって示される「神の力」を信じなくてはならないのでしょう。イエスのことを公に言い表す霊を受けて生きよう。「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて神から出ていません」(Ⅰヨハ4:3)。

週    句

キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は、わたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5:8


2019.03.20(日)の礼拝の週報

11│2019年03月10日 復活前6 荒れ野の誘惑

週    句

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ神の子が現れたのです。
ヨハネの手紙 一 3:8b
説  教    「誘惑を受けられた」   :梅田 環

荒れ野の誘惑
申6:10~19、ロマ10:8~13、ルカ4:1~13、詩66:1~12。

「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」「もしわたしを拝むなら、(権力と繁栄は)みんなあなたのものになる。」「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」

ルカによる福音書 4:3、6、9

 荒れ野で断食したイエスが直面した誘惑の性質は、イエスさまを信じる人が、世界の中で、それぞれに経験するチャレンジと本質的には変わらないものではないでしょうか。「石をパンに変えてみろ」、「自分(悪魔)を崇拝すれば栄華が手に入るようにしてやる」、「神の子なら高いところから飛び降りても守られているはずだろう」と……。
 だからこそ、福音書は、イエスの宣教活動の冒頭で、経験し、打ち勝ったこととして、イエスが直面した誘惑の物語を語るのです。なぜなら、イエスがこれから携わろうとしている活動の根本的な性格を、誘惑に打ち勝つこと自体が示しているからです。つまり、自分の意志や自分の持てるもの、自分という存在を、大いなるもの、永遠なるもの、滅びることのないいのち、に従わせること、キリスト教の言葉でいえば、「神の栄光を表すために自分のいのちを用いる」という、イエスの姿勢が表現されているのです。
 イエスが受けた誘惑は、わたしたちが経験するチャレンジと、本質的に変わりはありません。わたしたちは、自分自身を神の意志に従わせることに、いつも、苦労している者です。
 教会はレントの時期に入りました。イエスが自らを神の意志に従わせたことを想起する期節であり、また、同時に、そのイエスに従うということが、一人ひとりの信じる者にとってどのような意味をもつのかを、黙想する期節でもあるのです。

2019.03.20(日)の礼拝の週報

10│2019年03月03日 降誕10 奇跡を行うキリスト

週    句

今、わたしたちは、エルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
ルカによる福音書 18:31
説  教    「あなたがたが食べ物を与えなさい」  :梅田 環

奇跡を行うキリスト
イザ41:8~16、使28:1~6、ルカ9:10~17、詩46:2~12。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
ルカによる福音書 9:13a

 多くの人々の大きな窮乏に直面するとき、それを満たすことは、自分の力では到底不可能だ、と思われることがあります。そのとき、わたしたちは、神の国について、聞いたり、語ったりすることと、現実の窮乏を満たすこととを、簡単に切り離してしまいます。そして、現実の困難から気をそらせるために、「神の国を仰ぎ見る」ことを伝えたり、または、現実の窮乏を「この世的なこと」として神(信仰)の介入することではない、と語ったり……。
 イエスの周りに多くの人が集まり、神の国の話を聞き、病を癒されていた時のことです。時間がたち、弟子たちは、イエスに、人々を解散させるように求めます。食事をとり、体を休ませるといった身体的な必要を満たすことは、イエスの、そして、弟子たちの管轄外のことだと思ったからです。
 しかし、イエスにとってはそうではありません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と、イエスは弟子たちに命じます。神の国について語ることは、求める人の身体的な必要を満たすことと結びついていること、そこに責任をもってかかわらなければならないことを、イエスは弟子たちに伝えます。そして、イエスが祈り、祝福して分けたわずかな食べ物は、多くの人の空腹を満たします。
 この物語に聴く者は、自分の力が小さいことや僅かしか持たないことを、諦めの理由にしてはなりません。神の国について語るイエスは、食べさせ、しかも、満腹させます。イエスの示した行為によって、神の国の姿は信じる者にしるしとして与えられています。多くの人の、多くの窮乏を満たすために小さな自分であっても、担う者でありたい。

2019.03.02(日)の礼拝の週報

09│2019年02月24日 降誕9 いやすキリスト

週    句

今日、あなたたちが、神の声をきくなら。心を、かたくなにしてはならない。
ヘブライ人への手紙 3:15
説  教  「今日、驚くべきことを見た」:梅田 環

いやすキリスト
ヨブ2:1~10、使3:1~10、ルカ5:12~26、詩103:1~13。

人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
ルカによる福音書 5:26

 「主よ」とイエスに呼びかけて、思い皮膚病をいやされる人は、「誰にも話してはいけない」とイエスに命じられます。そして、従来からの皮膚病からの回復の手続きとして、「行って、祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの捧げ物をし、人々に証明するように」と言われますが、この人がその規定を守るより先に、イエスの評判が広まっていきます。
 体が動かせなくて、床に就いていた人は、イエスによって罪の赦しと癒しを共に宣言されます。そこに居合わせた宗教家にとっては、本来、宗教家が管轄すべき赦しをイエスが宣言することなどあってはならないことでした。けれども、イエスに赦しと癒しを宣言されたこの人は、その場で立ち上がり、神を讃美しながら家に帰っていきます。それは、この人にとって、新しい信仰の始まりでした。そして、その様子を見ていた人たちは、皆、大変驚き、神を讃美し始めました。この人たちにとっては、「今日」ここで起こっていることが、神が新たに人間に対して示そうとしている救いの出来事の始まりとなったのです。
 イエスの癒しは、今までの社会が決めて来た枠を超えて、人々に神の力を示しました。そして、その力に触れて、人々は、今まで自分の理解してきたものとは異なる仕方で、神に出会い直すことになります。
 新たに神と出会い、神を讃美することができるようになった人々は、そこから始まる人生の新しいステージで経験する様々な出来事において、神を見失うことは二度とないでしょう。神が新たに人に触れて来ることをこの人たちは経験したからです。

2019.02.25(日)の礼拝の週報

08│2019年02月17日 降誕8 教えるキリスト

週    句

わたしたちは、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して、嘆願の祈りをささげます。
ダニエル書 9:18
説  教   「あなたは幸いだ」 :大竹敏生

教えるキリスト
箴3:1~8、Ⅰコリ4:8~16、ルカ8:4~15、詩147:1~11。

イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
ルカによる福音書 8:8b

 この譬えは、もともとは、種を蒔くこととその結果についての単純な教えだったそうです。種を蒔くと、蒔いた種は、様々な場所に落ちて、芽が出たり出なかったり、場合によっては、予想外の収穫ができたり……。要約すれば、そういうお話し。それは、種蒔きという行為を知っている人々にとっては、耳新しいものではありません。
 で、当然、人々は混乱し、「このたとえはどのような意味かと尋ね」ました。種とは神の言葉であり、土地は人のありようです。神の言葉は多様な人々によって聞かれ、受け入れられたり、受け入れられなかったりするものです。場合によっては、よい土地に落ちることもあるものだ、とイエスは説明されました。
 このたとえは、初代教会の中で大切に受け継がれ、教えられて来ました。なぜなら、イエスは、単に、農業における常識を語ったわけではなかったからです。また、その解釈も、単に、道徳的向上を勧める言葉ではなかったからです。それは、「神の国の秘密」について語っているものであり、だからこそ、教会はそれを大切に伝えたのです。
 神の国は、種を蒔く人の働きのように、多くは徒労に終わります。五つのうち、四つは達成できないかもしれない。しかし、それでも、いつかは、五つ目が豊かに実りを得るかもしれない。また、神の国は、多様な人間が神の言葉を聞くようなものかもしれません。聞き方は多様であり、神の言葉によって養われるかどうか、生きることが支えられるかどうか、分からないものです。けれども、もしかすると、人によっては、それが起こるかもしれません。心して神に期待せよ!

2019.02.19(日)の礼拝の週報

07│2019年02月10日 降誕7 安息日の主

週    句

あなたの上には、主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
イザヤ書 60:2
説  教    「人の子は安息日の主である」    :梅田 環

安息日の主
出20:8~11、Ⅰコリ3:18~23、ルカ6:1~11、詩42:2~12。

そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
ルカによる福音書 6:5

 イエスは、ダビデの行為を引き合いに出し、律法をどのように受け取り、実践するかの権威は、「人の子」にある、と言います。この「人の子」が終末的メシアのことを意味するのか、それとも、イエス時代の一人称の表現としての「人の子」(つまり、「わたし」)を意味するものなのか、それとも、一般的な意味においての人間を意味するものなのか、諸説あります。
 または、「人の子は安息日の主である」とイエスが語るとき、その言葉が意味しているものは、一般的な意味においての「人の子」であろうと、理解することもできるでしょう。すなわち、人は安息日に支配されるものではない、ということをイエスは伝えたということです。そのように理解した場合、イエスはこの言葉によって、律法を根拠にして、人間の間で、権威を振りかざす当時の宗教勢力の姿勢に、正面から対峙しようとしている、ということになります。イエスは、その勢力との対決によって、権力によって排除される全ての人を、神の恵みのもとにあるいのちへと取り戻そうとしているのです。
 そこで、そのような発言の実践として、イエスは「ほかの安息日に」片手が不自由な人を公の場所で治癒するという行為に出ました。
 それは、人を分断し、排除する社会に広がり、人の世界を支配する価値観を乗り越えようとする行為でした。この挑戦は、対立する者たちの憎悪を掻き立て、イエスの十字架を招くことになります。それゆえ、「人の子」は、神の国の姿が示される終末的なメシアとなってゆくことになります。

2019.02.09(日)の礼拝の週報

06│2019年02月03日 降誕6 新しい教え

週    句

来て、神の御業を仰げ、人の子らになされた恐るべき御業を。
詩編 66:5
説  教    「新しいぶどう酒は新しい革袋に」  :梅田 環

新しい教え
エレ13:1~11、Ⅰコリ2:1~5、ルカ5:33~39、詩109:21~31。

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。

ルカによる福音書 5:38

 「徴税人や罪人」と一緒に、飲んだり食べたりするイエスに対して、「断食をしない」という批判が寄せられました。断食は分かりやすい宗教行為であったのに、イエスは、それを実践するというよりは、むしろ、その逆の行為を行いました。
 イエスは、食卓の交わりを目に見える神の支配の象徴と、理解していました。そして、とりわけ、自分が人々と共にあることは、「婚礼」のような喜びの時であるべきものだと考えていました。そのような考えは、伝統的なイスラエルの宗教からは、逸脱するものです。神の民は神の花嫁であるとたとえられ、そのように、神と神の民との契約を理解することはありましたが、イエス自身が花婿であると考えることは、伝統的な宗教の枠組みに生きる者にとっては、あまりにも大胆な考えに映りました。
 イエスは、それゆえ、それほどに新しい神の支配の理解を、古い価値観において受け取ろうとすることを「新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当て」ることにたとえました。そんなことをすれば、新しい服を台無しにしてしまう、とルカ福音書では伝えます。そして、また、「古い」ものに慣れ親しんだ者は誰も新しいものを欲しがらない、とも言います。
 イエスが伝えた神の支配を受け入れることは、形の上で、それをなぞることではありません。イエスの語る神の支配を、もし、「古い服」に適応させて運用するのだとすれば、むしろ、それは、新しいものの方を無効にしてしまう行為なのです。

2019.02.03(日)の礼拝の週報

05│2019年01月27日 降誕5 新しい神殿

週    句

人々は、東から西から、また、南から北から、来て、神の国で宴会の席に着く。
ルカによる福音書 13:29
説  教    「惑わされないように」  :梅田 環

新しい神殿
ハガ2:1~9、Ⅱコリ6:14~7:1、ルカ21:1~9、詩48:2~12。

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」
ルカによる福音書 21:8

 天災や人災を〈世の終わり〉の兆候と看做(みな)し、ことさらに不安を煽(あお)り、信仰心を掻き立てる、という宗教団体の遣り口は、キリスト教会とも無縁ではありません。
 物語は「やもめの献げもの」の話から始まります。彼女は、この後の一連の流れの中で、信仰に生きる者のモデルとして機能します。それは、貧しいながらも、持てる全てを神に捧げることのできる姿、自分の存在の根拠を神にのみおいて生きる姿です。そのような生き方が、一人ひとりの信徒たちの内側に確かに根付いているならば、来るべき「終末」において、どのように生きれば良いのかということはおのずから明らかになる、とルカは考えているのではないでしょうか。
 貧困の中で、神にのみ信頼する者がいる一方で、神殿という宗教施設は壮麗に飾り立てられていました。けれども、イエスによれば、「一つの石も崩されずに……残ることのない日が来る」のです。堅固、かつ、きらびやかな、信仰の象徴たるべき建物よりも、確かに存在する者は何であるのか、ルカは知っています。そのように、人が神に信頼することを知っていれば、さまざまな天災や、また、戦争被害のような人災が拡大する中で、「惑わされる」ことなく、神に繋がって生きることができるはずです。
 その神との繋がりは、困難や災害の中で絶望して、明日を生きることをあきらめるのではなく、そこになお自分の責任的関わりを見出させてくれます。

2019.01.27(日)の礼拝の週報

04│2019年01月20日 降誕4 宣教の開始

週    句

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられた。
ヨハネによる福音書 1:17
説  教  「この聖書の言葉は実現した」:梅田 環

宣教の開始
民9:15~23、Ⅰコリ1:1~9、ルカ4:16~30、詩111:1~10。

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
ルカによる福音書 4:21

 「イエスを信じる」と言う時には、心のどこかに視点の転換が起こっているものです。人は、何か人生の肥やしや生きるための癒しを求めて、教会に来たり、聖書をひも解いたりするのですが、結果として、受け取るものは、そうした自分の人生にとって漠然と「プラスになる」ものではない(!)ことが多いものです。
 イエスが育ったその場所ナザレでどのようにして受け入れられたのかを、ルカ福音書は伝えます。会堂で、イエスが朗読するのは、来るべきメシアについてのイザヤの預言です。朗読を通して、自らを、公(おおやけ)に、救いの業を行う者として示すイエスに対して、人々は、それを肯定的に受け入れます。ナザレの人々にとって、地元に根ざして生活を共にしているこの人が、聖書の伝えるメシアであることに対する驚きはあるにしても、決定的な拒絶には至りません。メシアが、当たり前の出自をもつ一般人だとしてもなお、自分がなんらかの形で救いに与ることができるのであれば、問題はなかったのです。
 ところが、イエスは故郷の人々の期待に対して水を差します。「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と、エリヤやエリシャを例に出して、救いはイスラエル民族の枠組みを超えていることを伝え、イエスとの物理的な距離の近さや心情的な近さなどは、イエスの示す救いに与る根拠にはならないことを告げました。
 イエスがなそうとする業は、こうして、本来自分に優先権があると考えていた人々の期待を大きく裏切る形で始められることが示され、それゆえ「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨」しました。

2019.01.20(日)の礼拝の週報