33│2020年08月09日 聖霊降臨11 聖餐

週    句

多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。
ルカによる福音書12:48
説  教  「聖餐」

箴言9:1~11、Ⅰコリ11:23~29、ヨハ6:41~59、詩編78:23~39。

「わたしがあなた方に伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち…」この第一コリントの箇所は、聖餐式において繰り返し読まれ、また聞かれてきた言葉です。11章において「主の晩餐」についての指示、制定、その守り方に関する論が展開されていきます。初代の教会、ことにコリントの教会における主の晩餐のあり様については様々に論じられてきており、また今日の教会においてもそれぞれの伝統や理解の中で多様な聖餐が行われています。ここで聖餐に関する議論を深める余白はありませんが、「パンを取り、感謝の祈りをささげて、それを裂き、与える」という4つの行いがここに提示されています。
「聖餐」を表す語もまた多様ですが、近年エウカリスティア(「感謝の祈りをささげて」)に当たるギリシア語が、呼び名としてエキメニュカルな対話の中で好んで用いられるとのことです。聖餐の意味を表すものとしてこの語が持つ意味を思わされます。
主イエス・キリストが私たちのために苦しみを負われ、自ら十字架の死を引き受けていかれた。裂かれたパンと杯を受けることを通して、私たちは主の救いの業を思い起こし、この私もその業の中に入れられているという恵みの現実を知らされていきます。そして、様々な分裂の危機にあったコリントの教会に対してパウロが共同体の一致を説いたように、イエスを主と告白するすべての者が等しく共同の食卓へと導かれていきます。この救いと招きに与り、共に座す恵みを覚える時、私たちは感謝せずにはいられない、感謝の祈りをささげずにはいられません。救いに与る、招きを受けるという体験から、私たちはそれぞれの形で主と共に、主に従う生き方へと導かれていきます。感謝と喜びのうちにこの招きを受け、一人一人に委ねられた働きを担う者とされていきましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.08.11(日)の礼拝の週報

32│2020年08月02日 聖霊降臨10 命の糧

週    句

光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。
エフェソの信徒への手紙5:8,9
説  教  「命の糧」


列王上17:8~16、ローマ14:10~23、ヨハ6:22~27、詩編68:2~11。

パウロは教会内の具体的な課題への勧告として、人間同士の関係を取り上げています。コリントの信徒への手紙一においてもこの課題が切実なものとして取り上げられていますが、まだ訪れたことのないローマの教会に対してこのような具体的課題について書き送るということは、この課題がどこにおいても、いつの時代も起きうることであるということを如実に表しています。三人集まれば派閥が生まれるとはよく言ったものです。
もちろん、この個所では教会内のこと、特に「信仰」を巡る事柄の中で議論がなされていますが、教会にとどまらず、この世界の様々な状況に当てはまることは言うまでもありません。しかもそれが「強い」と「弱い」という対比の中でなされていることから、より深い闇を感じます。あるいは、「清さ」と「汚れ」という概念において、これまでの歴史の中で一体どれだけの人々が傷つけられ、苦しめられ、退けられてきたことでしょう。パウロはそのような裁き合いについて、もう終わりにしようと言います。さらに自己絶対化によって異なる存在を切り捨てることは「もはや愛に従って歩んでいません」とさえ指摘するのです。
誰しも自分が大切にしていること、自分が拠りどころとしていること、これだけは譲れないことを有しています。それはアイデンティティに関わる問題です。しかし、私の隣には自分とは異なることを大切にしている人がいることに心が向けられて行かない。「兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15)との言葉は、この私の視点を異なる他者のあり様へと向けさせていきます。キリストが宣べ伝えた神の国は「聖書によって与えられる義と平和と喜びなのです」との言葉を、平和聖日のこの日、心に刻み、違いを超えて互いに受け入れ、尊び合う中で平和を実現するものとしての歩みを始めましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.07.29(日)の礼拝の週報

31│2020年07月26日 聖霊降臨9 破局からの救い

週    句

あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属するもの、神の家族です。
エフェソの信徒への手紙2:19
破局からの救い
イザヤ43:1~13、使徒27:33~44、ヨハ6:16~21、詩編54:3~9。

古代の航海が今日の航海よりもはるかに危険に満ちていたことは今更言うまでもありません。旧約の時代のヨナの船旅、ガリラヤ湖の上で嵐に巻き込まれる舟等々、聖書の様々な場面が思い浮かびますし、海が神と敵対する竜の住む所と認識され、また陰府を象徴するものとされてきた言葉などを見出します。
パウロはその宣教旅行において船旅を繰り返してきました。福音を宣べ伝えるために出立する中で、聖書には書かれていない危険に遭遇したことも一度や二度ではなかったでしょう。そして今回の船旅は、囚われの身となったパウロが他の囚人たちと共に護送されるためでした。着く先に何が待ち構えているのか、決して先行き明るいものではないことを悟らずにはいられません。その船が嵐に巻き込まれるとは、宣教者が直面する数多の困難を象徴するようでもあります。
しかしここでパウロは主体的に、かつ極めて前向きな姿勢で人々に働きかけます。意気消沈する人々に対し、「生き延びるために必要だから」と食事を勧め、「頭から髪の毛一本もなくなることはありません」と励ますのです。
そして一同の前で「パンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ」る。それは主イエスがかつて人々の前でパンを分け与え、皆が満たされたことを想起させます。この嵐のただ中に主イエスが共におられる、神の守りがあるという確信が、パウロを突き動かしていたのでしょう。
一人の人間の人生の旅路、しばしば舟に喩えられる教会の歩み、その一つ一つもまた時に嵐によって吹き飛ばされてしまいそうになるようなものかもしれません。しかしその船旅に、旅路に主イエスが共におられるという確信に立つ時、私たちは恐れながらも前を向くものとされ、悲しみが喜びに、絶望が希望に変えられていくものではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.07.29(日)の礼拝の週報

30│2020年07月19日 聖霊降臨8 復活の希望

週    句

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書43:1
説  教 「私だ。恐れることはない。」:片山寛牧師
ヨハネによる福音書6:16~21

復活の希望
ミカ7:14~20、使徒24:10~21、ヨハ5:19~36、詩編96:7~13。

エルサレムの神殿の境内で逮捕されたパウロは、カイサリアへと護送され、総督フェリクスに対する訴えが起こされます。すでに様々な人々がパウロの命を狙い、陰謀が渦巻いていた中での護送、告発であり、舞台は使徒言行録の最後の部分、エルサレムからローマの途上にあります。
パウロはここで疫病のような人間であり騒動を引き起こす者、ナザレ人の分派の首謀者、神殿の冒涜者との罪状を着せられていますが、総督フェリクスの前で堂々と弁明を行います。ルカ文書に顕著に表れる「弁明する」という言葉は、裁判制度に由来する述語で、キリスト者であるが故の敵意と拘留が前提なっているとされます。パウロとしては身の危険が迫る中でなされるこの「弁明」は、まず法廷における自らの無罪の立証のためになされますが、それにとどまらず、キリスト教信仰の核心について語る、宣教としての要素を持ったものとして進んでいきます。それはこの出来事の舞台設定を考えると驚くほかはないものでありましょう。
「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が」(ミカ7:18)と予言者が語るその言葉を信じるパウロは、「『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました」(使徒22:8)と人々の前で語る通りの体験を通して、かつての迫害者から福音を宣べ伝える者へと変えられていきました。弟子たちが、その姿変えられ、宣教者として遣わされていった、復活の主イエスとの出会いにも通じるものを見る思いがいたします。復活の主が私に語りかけ、この私を赦し、私と共におられる。そのことを信じる時に、パウロは危機の中にあっても大胆に語りました。私たちもまた、それぞれの形で、主共にいます幸いと喜びを語り、希望に生きる信仰者としての歩みをなしていきたいと思います。
「礼拝と音楽」より

2020.07.20(日)の礼拝の週報

29│2020年07月12日 聖霊降臨7 生命の回復

週    句

あなた方は恵みにより、信仰により救われました。この事は自らの力によるのではなく神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙2:8
説  教  「生命の回復」

ホセ14:2~8、使徒9:36~43、ヨハ4:43~54、詩編49:13~21。

タビタの奇跡物語は、使徒言行録の中でも特徴的なものと言えます。彼女は癒しの奇跡を受ける者として使徒言行録の中での最初の女性であり、また「婦人の弟子」と訳される言葉は新約聖書の中で唯一の箇所であり、そして彼女はキリスト教宣教が拡張されていく、その初期の働きに参与して代表的人物と評価されます(E.S.フィオレンツァ)。
彼女の詳細については分かりませんが、彼女が寡婦となった女性のために仕えていたことが明らかにされます。「弟子」と言われることから彼女が何らかの指導的立場にあったことが推測されますが、もしかすると他の女性たちと同様に経済的に強くないところで共同の生活をしていたのではないかとの見方もなされているようです。
当時の社会の中でも最も低くされ、奴隷とされてしまう、死の危険にさらされてしまう可能性も高かった女性たちに仕えたタビタ。彼女の死が即共にあった女性たちを危機にさらすものであったことは想像に難くありません。「泣きながら、ドルカスが一緒にいた時に作ってくれた数々の下着や上着を見せた」という女性たちの姿、ここにどのような思いが込められているのか、答えは一つではありませんし、それぞれが思い巡らすことは有益なことでしょう。
ペトロはこのような女性たちの姿を見、タビタを生き返らせようとします。それはその女性たちに連帯しようとするぺトロの姿であり、また失意のどん底にたたき落され、弱さに弱さを、困難に困難を塗り重ねられようとしている女性たちがそのまま放っておかれることはないという神の業が現わされていると受け止められます。それは主イエスの語られた言葉、行い、特になされた奇跡にも通じるものです。
人々を失望のうちに終わらせられない、弱さや困難の中にある人々を省みられる神の業に信頼しながら、それぞれが仕える働きへと召されていきたいと思います。
「礼拝と音楽」より

2020.07.13(日)の礼拝の週報

28│2020年07月05日 聖霊降臨6 異邦人の救い

週    句

互いに、重荷を負い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテアの信徒への手紙6:2
説  教  「異邦人の救い」

ヨナ4:1?11、エフェ2:11~22、ヨハ4:27?42、詩編126:1?6。

ニネべの町を滅ぼすことを中止した神の決定に大いに不満を覚え、怒りを露にするヨナに対して、神は「この大いなる都ニネべを惜しまずにいられるだろうか」と語りかけます。あまりに正直なヨナの反応は潔いと感じるほどですが、ヨナ書という短い書物の結びは、偏狭な民族主義に対する痛烈な風刺として読み取ることができます。
そして今、排外主義、自国優先主義がはびこるこの世界、この国の状況の中で、エフェソの信徒への手紙2章において語られる言葉は、燦然と輝く光を放っているように思えてなりません。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と宣言されるキリストによって、隔ての壁が取り壊されていきます。相互の不寛容や選民意識、敵意が滅ぼされていきます。そしてバラバラになっていたものが一つとされ、和解と平和が実現していくのです。
しかし同時に、「かなめ石はキリスト・イエス御自身」、「キリストによって」、「キリストにおいて」という言葉を、キリスト教こそが絶対であるという視点で読むならば、先の宣言はすべて無に帰すと言っても過言ではないでしょう。私の隣には私とは異なる別のもの、別の何かを大切にしておられる人がいるということを私たちは心していかねばなりません。
昨年亡くなられた医師の中村哲さんは「『共に生きる』とは美醜・善悪・好き嫌いの彼岸にある本源的な人との関係だと私は思っている」と記されました。(『天、共に在り』より)。キリストによって実現される「平和」とは、争いのない時がもたらされるということにとどまらず、異なる他者が共に出会い、互いに平和な関係が結ばれていくということを意味するのではないでしょうか。私たちは聖書が告げ知らせる和解と平和の福音に聞きながら、多様な出会いの中で平和を築き上げる歩みへと踏み出すものとされていきたいのです。
「礼拝と音楽」より

2020.06.28(日)の礼拝の週報

27│2020年06月28日 聖霊降臨5 天のエルサレム

週    句

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。
ルカによる福音書19:10
説  教  「天のエルサレム」

ミカ4:1?7、ヘブ12:18?29、ヨハ4:5?26、詩編84:2?13。

ヘブライ人への手紙12章では、旧約の時代と新約の時代を比較しながら言葉が紡がれていきます。その対比とは「モーセ、シナイ山」に対して「イエス、シオンの山」という形にまとめることができるでしょう。
天のエルサレムという目標を目指して前進しようというテーマは、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」という、12章冒頭の言葉を思い起こさせます。この地上におけるキリスト者たちの歩みについて問いかけを受けていきます。
旧約と新約の対比ということを考えると、裁きが頻出する旧約に対して、愛の満ちた新約というイメージが先行することがあるかもしれません。しかし、その対比は例えば「裁き」と「愛」というような分断されたものを描くものではなく、創造主なる神の御業の中に生かされる者たちに約束された救いが主イエスにおいて一つの形になって現れたという、神の救いの歴史の継続を私たちに示すものとして受け止められます。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」との言葉は、当時の迫害下に生きる人々に対して語りかけるという意図がありますが、いつの時代に生きる者たちに対しても、この神の救いを示す主の贖いの業として指し示されていくものではないでしょうか。
この箇所の結びは「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」というものです。後味の悪い終わり方に見えるかもしれませんが、ここに意味があると思います。神の恵みと厳しさが共に示されていく中で、この裁かれるべき、裁かれる他ないはずの私たちが神の恵みと慈しみの中に生かされ、天のエルサレムへの希望と喜びを抱きつつ歩むものとされるという恵みのメッセージを与えられるのではないでしょうか。この神の御業に触れることを通して、私たちが畏れつつ神に仕える歩みへと招かれていくことを覚え、感謝と信頼のうちに歩んでまいりたいと願います。
「礼拝と音楽」より

2020.06.28(日)の礼拝の週報

26│2020年06月21日 聖霊降臨4 信仰の道

週    句

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書11:28
説  教  「信仰の道」

ハバクク2:1~4、Ⅰヨハ2:22~29、ヨハ3:22~36、詩篇16:7~11。

「アンチエイジング」、「アンチコメント」等々、「アンチ?」という言葉を私たちは頻繁に耳にします。ロックの歴史にその名を残すパンクバンドの代表曲の歌詞がこの語から始まることを思い出しますが、「反キリスト」と訳されたアンティ・クリストス、ヨハネの手紙にのみ僅かな回数登場するだけの単語で、新約の中で広く用いられる言葉ではありません。しかし、それに類する表現は他にいくつもあり、当時の教会の中で「異端」的存在と対峙することが重要な問題であったことを窺うことができます。教会の「内」対「外」だけでなく、教会の内部の争いも深刻な影を落としていたことを想像するものです。
しかし、それにしてもなんと厳しい言葉が並ぶ箇所なのでしょうか。このような言葉を今、わたしたちがどのように受け止めるかが問われるわけですが、対立構造を強調する、あるいは異なる存在を排除するために用いるような読み方には賛同できません。
我こそは正当であって、異なる者は異端であり排除すべしというような感覚は、時に危険なものとなります。むしろ正しさとは何か、自分はどうあるのかということを「正統」対「異端」という意図を見出しうる箇所から問うてみたいと思わずにはいれません。牧師になりたての頃、大先輩から「自分は間違っているかもしれないと留保することが、特に真理に関する問題に対して向き合う真摯な姿だ」と教えられたことを思い出します。
ヨハネの手紙は「御子の内にとどまりなさい」と私たちに勧めます。この言葉を真に神と主イエスに従って生きるようにとの招きとして受け止める者です。神の前にへりくだり、打ち砕かれつつ謙虚なものとされ、多様な出会いの中で互いに受け入れ合い、認め合って生きる。この時代、信仰者が今一度心して受け止め、そこへと踏み出していくことが求められる歩みがここにあるのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.06.21(日)の礼拝の週報

25│2020年06月14日 聖霊降臨3 神の民の誕生

週    句

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカによる福音書10:16
説  教  「神の民の誕生」

申命6:17~25、ローマ10:5~17、ヨハ3:1~15、詩篇29:1~11。

「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ローマ3:22)とパウロはすべての人々に対して神の義が与えられると説きました。この罪深い人間の現実の中に神が一方的に値なしに恵みを注がれ、信じる者を義とされた。私たちの信じるところの原点がここにあります。
 パウロはその宣教活動の中で、時に大きな行き詰まりを覚えたことを想像します。すべてのものに開かれた良き知らせ、福音を宣べ伝える働きに召されていきましたが、「すべての人が福音に従ったのではありません」(10:16)という経験を実際には繰り返していったことを思います。これはいつの時代の宣教の働きにも当てはまることでしょうし、今日の教会もこの時代にあって様々な難しい状況の中にあり続けています。狭義の「伝道」という事柄だけにとどまらず、この痛みや矛盾に満ちた時代の中で、時に望みを失いかねない現実に直面するものであります。
 パウロはこのような難しさの中で、「キリストの言葉を聞く」ことに集中していきます。実に信仰は聞くことから始まると。それは旧約の時代においても、申命記において「主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り」と繰り返される言葉を人々が心に刻み続けてきた歴史に通じていきます。神の言葉、キリストの言葉に繰り返し聞き、何度も立ち帰る中で、私たちは神の救いの恵みの中に生かされていることを再確認し、そこから新しく歩み出す者とされていきます。そして、「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」とまさに語られるように、一人一人が福音の中に生かされている者として、世にキリストを証しする多様な働きへと召されていきます。神とキリストの言葉に聞き、日々招かれ召し出される恵みに与ってまいりましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.06.10(日)の礼拝の週報

24│2020年06月07日 聖霊降臨2 真理の霊

週    句

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
Ⅰコリント13:13
説  教  「真理の霊」

イザ40:12~17、Ⅰテモ6:11~16、ヨハ14:8~17、詩37:23~40。

 批判を受けることを覚悟で言いますが、「自分は救いの恵みに与った」というような言い方で描き出される個人的かつ情緒的、安穏とした感覚に昔から違和感を覚えてきました。
むしろ、救いの恵みに与るものとして、自らの欠け破れに気づかされ、打ち砕かれながらいかにキリストに従うのか…、日々その歩みが問われていくことを思います。福音を宣べ伝えることも、生きる現実の中での様々な問題を信仰者として担うこともすべてがこの問いの中に関わってきます。第一テモテでは信仰の戦いを戦い抜いた褒美としての「永遠の命」が示されますが、初代の教会の洗礼あるいは按手礼の際の勧告の言葉と言われるこの箇所から私たちは強い促しを受けることでしょう。
しかし、「立派に戦い抜」けと、ひたすら鼓舞することがなされる時、その勇ましい言葉に自分はついて行けないと感じる人たちがおられることを思います。例えば「がんばろう○○」と繰り返されたキャッチフレーズは、人々を励ました一面があることでしょうけれども、「頑張りたくても頑張れない」、「これ以上何を頑張れと言うのか」というような思いにも結びついたことを想像します。
この強い勧めの中に「万物に命をお与えになる神」という言葉を見ます。万物を造り、命を与え、生かし、救う神の存在です。「手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか」とイザヤ書は創造主なる神の業を語ります。多様な存在としてこの世に造られ、多様な生命のあり様に生かされている一人一人が、それぞれになす信仰の歩みを神は救い、導かれる。この創造主なる神の恵みと愛のもとに生かされているということを覚える時、私たち一人一人が真に主に従って生きるものとされ、「この神に誉と永遠の支配がありますように、アーメン」と神の御名を賛美するものとされていくのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.06.10(日)の礼拝の週報