29│2020年07月12日 聖霊降臨7 異邦人の救い

週    句

あなた方は恵みにより、信仰により救われました。この事は自らの力によるのではなく神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙2:8
説  教  「生命の回復」

ホセ14:2~8、使徒9:36~43、ヨハ4:43~54、詩編49:13~21。

タビタの奇跡物語は、使徒言行録の中でも特徴的なものと言えます。彼女は癒しの奇跡を受ける者として使徒言行録の中での最初の女性であり、また「婦人の弟子」と訳される言葉は新約聖書の中で唯一の箇所であり、そして彼女はキリスト教宣教が拡張されていく、その初期の働きに参与して代表的人物と評価されます(E.S.フィオレンツァ)。
彼女の詳細については分かりませんが、彼女が寡婦となった女性のために仕えていたことが明らかにされます。「弟子」と言われることから彼女が何らかの指導的立場にあったことが推測されますが、もしかすると他の女性たちと同様に経済的に強くないところで共同の生活をしていたのではないかとの見方もなされているようです。
当時の社会の中でも最も低くされ、奴隷とされてしまう、死の危険にさらされてしまう可能性も高かった女性たちに仕えたタビタ。彼女の死が即共にあった女性たちを危機にさらすものであったことは想像に難くありません。「泣きながら、ドルカスが一緒にいた時に作ってくれた数々の下着や上着を見せた」という女性たちの姿、ここにどのような思いが込められているのか、答えは一つではありませんし、それぞれが思い巡らすことは有益なことでしょう。
ペトロはこのような女性たちの姿を見、タビタを生き返らせようとします。それはその女性たちに連帯しようとするぺトロの姿であり、また失意のどん底にたたき落され、弱さに弱さを、困難に困難を塗り重ねられようとしている女性たちがそのまま放っておかれることはないという神の業が現わされていると受け止められます。それは主イエスの語られた言葉、行い、特になされた奇跡にも通じるものです。
人々を失望のうちに終わらせられない、弱さや困難の中にある人々を省みられる神の業に信頼しながら、それぞれが仕える働きへと召されていきたいと思います。
「礼拝と音楽」より

2020.07.13(日)の礼拝の週報

28│2020年07月05日 聖霊降臨6 異邦人の救い

週    句

互いに、重荷を負い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテアの信徒への手紙6:2
説  教  「異邦人の救い」

ヨナ4:1?11、エフェ2:11~22、ヨハ4:27?42、詩編126:1?6。

ニネべの町を滅ぼすことを中止した神の決定に大いに不満を覚え、怒りを露にするヨナに対して、神は「この大いなる都ニネべを惜しまずにいられるだろうか」と語りかけます。あまりに正直なヨナの反応は潔いと感じるほどですが、ヨナ書という短い書物の結びは、偏狭な民族主義に対する痛烈な風刺として読み取ることができます。
そして今、排外主義、自国優先主義がはびこるこの世界、この国の状況の中で、エフェソの信徒への手紙2章において語られる言葉は、燦然と輝く光を放っているように思えてなりません。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と宣言されるキリストによって、隔ての壁が取り壊されていきます。相互の不寛容や選民意識、敵意が滅ぼされていきます。そしてバラバラになっていたものが一つとされ、和解と平和が実現していくのです。
しかし同時に、「かなめ石はキリスト・イエス御自身」、「キリストによって」、「キリストにおいて」という言葉を、キリスト教こそが絶対であるという視点で読むならば、先の宣言はすべて無に帰すと言っても過言ではないでしょう。私の隣には私とは異なる別のもの、別の何かを大切にしておられる人がいるということを私たちは心していかねばなりません。
昨年亡くなられた医師の中村哲さんは「『共に生きる』とは美醜・善悪・好き嫌いの彼岸にある本源的な人との関係だと私は思っている」と記されました。(『天、共に在り』より)。キリストによって実現される「平和」とは、争いのない時がもたらされるということにとどまらず、異なる他者が共に出会い、互いに平和な関係が結ばれていくということを意味するのではないでしょうか。私たちは聖書が告げ知らせる和解と平和の福音に聞きながら、多様な出会いの中で平和を築き上げる歩みへと踏み出すものとされていきたいのです。
「礼拝と音楽」より

2020.06.28(日)の礼拝の週報

27│2020年06月28日 聖霊降臨5 天のエルサレム

週    句

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。
ルカによる福音書19:10
説  教  「天のエルサレム」

ミカ4:1?7、ヘブ12:18?29、ヨハ4:5?26、詩編84:2?13。

ヘブライ人への手紙12章では、旧約の時代と新約の時代を比較しながら言葉が紡がれていきます。その対比とは「モーセ、シナイ山」に対して「イエス、シオンの山」という形にまとめることができるでしょう。
天のエルサレムという目標を目指して前進しようというテーマは、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」という、12章冒頭の言葉を思い起こさせます。この地上におけるキリスト者たちの歩みについて問いかけを受けていきます。
旧約と新約の対比ということを考えると、裁きが頻出する旧約に対して、愛の満ちた新約というイメージが先行することがあるかもしれません。しかし、その対比は例えば「裁き」と「愛」というような分断されたものを描くものではなく、創造主なる神の御業の中に生かされる者たちに約束された救いが主イエスにおいて一つの形になって現れたという、神の救いの歴史の継続を私たちに示すものとして受け止められます。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」との言葉は、当時の迫害下に生きる人々に対して語りかけるという意図がありますが、いつの時代に生きる者たちに対しても、この神の救いを示す主の贖いの業として指し示されていくものではないでしょうか。
この箇所の結びは「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」というものです。後味の悪い終わり方に見えるかもしれませんが、ここに意味があると思います。神の恵みと厳しさが共に示されていく中で、この裁かれるべき、裁かれる他ないはずの私たちが神の恵みと慈しみの中に生かされ、天のエルサレムへの希望と喜びを抱きつつ歩むものとされるという恵みのメッセージを与えられるのではないでしょうか。この神の御業に触れることを通して、私たちが畏れつつ神に仕える歩みへと招かれていくことを覚え、感謝と信頼のうちに歩んでまいりたいと願います。
「礼拝と音楽」より

2020.06.28(日)の礼拝の週報

26│2020年06月21日 聖霊降臨4 信仰の道

週    句

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書11:28
説  教  「信仰の道」

ハバクク2:1~4、Ⅰヨハ2:22~29、ヨハ3:22~36、詩篇16:7~11。

「アンチエイジング」、「アンチコメント」等々、「アンチ?」という言葉を私たちは頻繁に耳にします。ロックの歴史にその名を残すパンクバンドの代表曲の歌詞がこの語から始まることを思い出しますが、「反キリスト」と訳されたアンティ・クリストス、ヨハネの手紙にのみ僅かな回数登場するだけの単語で、新約の中で広く用いられる言葉ではありません。しかし、それに類する表現は他にいくつもあり、当時の教会の中で「異端」的存在と対峙することが重要な問題であったことを窺うことができます。教会の「内」対「外」だけでなく、教会の内部の争いも深刻な影を落としていたことを想像するものです。
しかし、それにしてもなんと厳しい言葉が並ぶ箇所なのでしょうか。このような言葉を今、わたしたちがどのように受け止めるかが問われるわけですが、対立構造を強調する、あるいは異なる存在を排除するために用いるような読み方には賛同できません。
我こそは正当であって、異なる者は異端であり排除すべしというような感覚は、時に危険なものとなります。むしろ正しさとは何か、自分はどうあるのかということを「正統」対「異端」という意図を見出しうる箇所から問うてみたいと思わずにはいれません。牧師になりたての頃、大先輩から「自分は間違っているかもしれないと留保することが、特に真理に関する問題に対して向き合う真摯な姿だ」と教えられたことを思い出します。
ヨハネの手紙は「御子の内にとどまりなさい」と私たちに勧めます。この言葉を真に神と主イエスに従って生きるようにとの招きとして受け止める者です。神の前にへりくだり、打ち砕かれつつ謙虚なものとされ、多様な出会いの中で互いに受け入れ合い、認め合って生きる。この時代、信仰者が今一度心して受け止め、そこへと踏み出していくことが求められる歩みがここにあるのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.06.21(日)の礼拝の週報

25│2020年06月14日 聖霊降臨3 神の民の誕生

週    句

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカによる福音書10:16
説  教  「神の民の誕生」

申命6:17~25、ローマ10:5~17、ヨハ3:1~15、詩篇29:1~11。

「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ローマ3:22)とパウロはすべての人々に対して神の義が与えられると説きました。この罪深い人間の現実の中に神が一方的に値なしに恵みを注がれ、信じる者を義とされた。私たちの信じるところの原点がここにあります。
 パウロはその宣教活動の中で、時に大きな行き詰まりを覚えたことを想像します。すべてのものに開かれた良き知らせ、福音を宣べ伝える働きに召されていきましたが、「すべての人が福音に従ったのではありません」(10:16)という経験を実際には繰り返していったことを思います。これはいつの時代の宣教の働きにも当てはまることでしょうし、今日の教会もこの時代にあって様々な難しい状況の中にあり続けています。狭義の「伝道」という事柄だけにとどまらず、この痛みや矛盾に満ちた時代の中で、時に望みを失いかねない現実に直面するものであります。
 パウロはこのような難しさの中で、「キリストの言葉を聞く」ことに集中していきます。実に信仰は聞くことから始まると。それは旧約の時代においても、申命記において「主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り」と繰り返される言葉を人々が心に刻み続けてきた歴史に通じていきます。神の言葉、キリストの言葉に繰り返し聞き、何度も立ち帰る中で、私たちは神の救いの恵みの中に生かされていることを再確認し、そこから新しく歩み出す者とされていきます。そして、「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」とまさに語られるように、一人一人が福音の中に生かされている者として、世にキリストを証しする多様な働きへと召されていきます。神とキリストの言葉に聞き、日々招かれ召し出される恵みに与ってまいりましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.06.10(日)の礼拝の週報

24│2020年06月07日 聖霊降臨2 真理の霊

週    句

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
Ⅰコリント13:13
説  教  「真理の霊」

イザ40:12~17、Ⅰテモ6:11~16、ヨハ14:8~17、詩37:23~40。

 批判を受けることを覚悟で言いますが、「自分は救いの恵みに与った」というような言い方で描き出される個人的かつ情緒的、安穏とした感覚に昔から違和感を覚えてきました。
むしろ、救いの恵みに与るものとして、自らの欠け破れに気づかされ、打ち砕かれながらいかにキリストに従うのか…、日々その歩みが問われていくことを思います。福音を宣べ伝えることも、生きる現実の中での様々な問題を信仰者として担うこともすべてがこの問いの中に関わってきます。第一テモテでは信仰の戦いを戦い抜いた褒美としての「永遠の命」が示されますが、初代の教会の洗礼あるいは按手礼の際の勧告の言葉と言われるこの箇所から私たちは強い促しを受けることでしょう。
しかし、「立派に戦い抜」けと、ひたすら鼓舞することがなされる時、その勇ましい言葉に自分はついて行けないと感じる人たちがおられることを思います。例えば「がんばろう○○」と繰り返されたキャッチフレーズは、人々を励ました一面があることでしょうけれども、「頑張りたくても頑張れない」、「これ以上何を頑張れと言うのか」というような思いにも結びついたことを想像します。
この強い勧めの中に「万物に命をお与えになる神」という言葉を見ます。万物を造り、命を与え、生かし、救う神の存在です。「手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか」とイザヤ書は創造主なる神の業を語ります。多様な存在としてこの世に造られ、多様な生命のあり様に生かされている一人一人が、それぞれになす信仰の歩みを神は救い、導かれる。この創造主なる神の恵みと愛のもとに生かされているということを覚える時、私たち一人一人が真に主に従って生きるものとされ、「この神に誉と永遠の支配がありますように、アーメン」と神の御名を賛美するものとされていくのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.06.10(日)の礼拝の週報

23│2020年05月31日 聖霊降臨1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書4:6
説  教  「聖霊の賜物」

聖霊の賜物
エゼ37:1~14、使徒2:1~11、ヨハ14:15~27、詩104:24~30。

五旬祭の日に突然一同が聖霊に満たされるという聖霊降臨の出来事を描いた使徒言行録2章は、ペンテコステにおいて繰り返し読まれ続けています。初代教会の歩みの原点が聖霊に満たされるという体験にあるということは、その成立の背景が異なることを考慮に入れつつも、ヨハネ福音書20章でイエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われた出来事を想起させます。
「聖霊」と「風」、「息」が同じ言葉で表現されることはよく知られていますが、この2章で「(激しい)風」と「聖霊」は由来が同じの、少し異なる言葉で表されています。そして2節の「風」を現す語は使徒言行録17章25節において、すべての人に命と「息」と、その他すべてのものを与えてくださるのは創造主なる神であるとパウロが語る際に用いられています。
神は人間を創造された際に「命の息」を吹き込まれました(創世記2:7)。聖霊が降るその出来事の中で、まず激しい風が吹くような音が聞こえたということは、造られた一つ一つの存在が宣教の業に召し出されていくに際して、生命に対して働きかける神の業が示されている様を見る思いにさせられます。
使徒言行録の物語が描き出されていった時代、初代の教会は厳しい追害にさらされ、「生命」とは反対に位置づけられる「死」が身近に存在していたことを想像します。その初代の教会の歩み出しの中に、神が生命を生かすための「息・風」を示し、そこから人々が聖霊に満たされていったという出来事は、神が私たちをどのように生かし、招き、用いられるかということを大胆な形で表現しているのではないでしょうか。「枯れた骨」という人の目には生命からあまりにかけ離れた存在に語りかけ、「お前たちの中に霊を吹き込む」(エゼキエル書37:5)と働きかけられる神の業の中で、私たちそれぞれの働きが委ねられていくのです。
「礼拝と音楽」より

2020.05.31(日)の礼拝の週報

22│2020年05月24日 復活7 キリストの昇天

週    句

わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書12:32
説  教  「キリストの昇天」

キリストの昇天
列王下2:1~15、黙示5:6~14、ヨハ7:32~39、詩46:2~12。

「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」(ヨハネ7:33)との言葉は、イエスが、イエスをこの世にお遣わしになられた神のもとへ帰られるとの、昇天の出来事を読む者に想起させます。一方でそれを聞いたユダヤ人たちは、イエスが離散したユダヤ人の所へ行って、ギリシア人に教えるのかと考えます。イエスがどこから来られた方であり、どの領域に属する方なのかを理解している・いないというところからこの受け止めの相違が描き出されます。
ヨハネの黙示録では「あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ」たと、キリストがすべての人を贖われ、天にあって神の玉座の右に座しておられるイメージを語ります。このイメージは、先の福音書の言葉と重なって、キリストの昇天の後、福音が遍くすべての人に向けて告げ知らされ、広がり行く様を表していると受け止められるのではないでしょうか。
十字架の死から復活されたイエスは弟子たちを派遣されるにあたって、息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と言われました。主の昇天から使徒たちの時代へ。「“霊”がまだ降っていなかったからである」(ヨハネ7:39)という時から聖霊降臨の出来事へ。新しい時の始まりを、今私たちは予感するものです。
「わたしを信じる者は、……その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とイエスが大声で語られた約束が実現していく。生きた水が尽きることなく流れ出ていく、そのイメージのように聖霊の力が溢れんばかりに遍く人々に与えられていく。まさに神の御業の中に生かされていることを覚え、主の良き知らせを告げ知らせる業に連なっていくものでありたいと願います。
「礼拝と音楽」より

2020.05.20(日)の礼拝の週報

21│2020年05月17日 復活6 キリストの勝利

週    句

神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、悲しみを拒まれませんでした。
詩篇66:20
説  教  「キリストの勝利」

キリストの勝利
出エジ33:7~11、ローマ8:28~39、ヨハ16:25~33、詩8:2~10。

イエスの訣別説教の結びとなる箇所です。昇天日(5月21日)を前にして与えられたテクストは、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16:28)とのイエスの言葉を示します。そして受難と十字架の出来事を予感させると共に、主の昇天が告げられていきます。
地上において人々と共に生き、喜びも悲しみも、痛みもすべてを共に負うてくださった主イエスが天に昇られる。それは直接相まみえながらイエスと共にということが叶わなくなることを意味します。その意味では訣別、これまでとこれからではイエスと人々との関係が決定的に変わることとなります。しかし単なる別れで終わるものではないことがイエスの言葉から明らかにされていくのです。
主の受難に際して「散らされて、自分の家に帰って」しまうと予告された弟子たちの姿は、迫害下厳しい状況にさらされる初代の教会の人々の姿、さらには今日の時代の荒波の中で右往左往する私たちの姿を指し示すものとして受け止められます。その私たちに主イエスは力強く語りかけるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。どれほど多くの人々がこのイエスの言葉に勇気づけられ、励まされてきたことでしょうか。「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまヘり」と告白される主の昇天は、神の子である主イエスが私たちの王として天に凱旋され、今も生きて支配されているということを宣言します。そして新たな宣教の業がキリスト者に、教会に委ねられていくのです。
何者も「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:39)との信仰に立ち、神の愛の中にいつも生かされているという恵みを希望の礎としながら歩む者とされたい。神から委ねられた多様な働きを担っていきたいと願います。
「礼拝と音楽」より

2020.05.20(日)の礼拝の週報

20│2020年05月10日 復活5 聖霊の実

週    句

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩篇98:1
説  教  「聖霊の実」

聖霊の実
エゼ36:24~28、ガラ5:13~25、ヨハ15:18~27、詩106:1~5。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1・5)とのヨハネ福音書冒頭を彷彿とさせる構造が描かれます。15~16章はいわゆるイエスの訣別説教の箇所ですが、「世があなたがたを憎むなら」(15・18)とあるように、弟子たちに対する迫害、初代の教会に対する迫害が根底に横たわっています。
イエスに対して憎しみを向ける「世」(コスモス)が神から離反し、背いていく、その対立構造の中で自分が、あるいは他者がどちらに属するかといった議論がなされがちかもしれません。しかし「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(ヨハネ1・10)との言葉の通り、世もまた神の被造物であり、私たちはその世の現実のただ中で生きる者なのです。「あちら」とか「こちら」だという区分けではなく、罪深いこの私という現実をここに突きつけられる思いがします。同時に「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(ガラテヤ5・25~26)との戒めの言葉が聞こえてくるようでもあります。
しかしこの神から離れ、神に背く「世」に対して働きかけられるのが神の業であると知らされます。「弁護者」(パラクレートス)すなわち「真理の霊」が来るとき、キリストについて証しがなされると主イエスは語られました。
讃美歌406番は、神に背を向ける人に恵みを与え、和解をもたらし、闇の中に光をもたらし、頑なな心を変える聖霊の働きを描き出しながら、一人一人がキリストを証しする者として世に派遣される様を歌い上げます。
キリストの恵みと、神の愛がこの世に証しされていくために聖霊による力が与えられていくこと、この私が聖霊の力を受けつつ生かされ、用いられていくという恵みの現実に励まされながら、与えられた証しの生活をなすものとされていきたいと思います。
「礼拝と音楽」より

2020.05.11(日)の礼拝の週報