09│2020年02月23日 降誕7 奇跡を行うキリスト

週    句

今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
ルカによる福音書 18:31
説  教  「奇跡を行うキリスト」    :鳥井正也

申命8:1~6、フィリピ4:10~20、ヨハ6:1~15、詩95:1~11。

ヨハネによる福音書6:11
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

灰の水曜日から私たちはレントの時を迎えていきます。この期間は長い間、洗礼志願者の準備の期間と捉えてこられ、また「キリスト教会にとってキリストの受難を記念する悔い改めの時」とされてきました(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』)。人のおごり高ぶりが打ち砕かれ、真の悔い改めのうちに、キリストに従い行くものとしての姿、歩みを確かめていく。御自ら十字架を担い、苦難の道を歩まれたキリストの姿と出来事を心に刻み付けていく。そのような時を過ごしていきます。
「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(Ⅱコリント5:18)。十字架の主が私たちに歩むべき道を示され、「私に従いなさい」と招いてくださっている。その招きを受け悔い改め、新たにされながら歩んでいきたい。
「礼拝と音楽」より

2020.02.24(日)の礼拝の週報

08│2020年02月16日 降誕8 癒すキリスト

週    句

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。
へブル人への手紙3:5
説  教  「掘り出された岩穴」     :梶井義郎

癒すキリスト
ヨブ23:1~10、ヤコブ1:2~5、ヨハ5:1~18、詩32:1~17。

2020.02.16(日)の礼拝の週報

07│2020年02月09日 降誕7 教えるキリスト

週    句

わたしたちは、あなたの深い憐みのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。
ダニエル書 9:18
説  教  「共にいてくださる」     :梅田寿子

教えるキリスト
ヨブ22:11~28、Ⅱヨハ1~13、ヨハ8:21~36、詩125:1~5。

2020.02.09(日)の礼拝の週報

06│2020年02月02日 降誕6 新しい神殿

週    句

あなたの上には、主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
イザヤ書 60:2
説  教  「新しい神殿」         :梅田寿子

新しい神殿
列上8:22~30、コリ3:10~17、ヨハ2:13~25、詩48:9~15。

2020.02.09(日)の礼拝の週報

05│2020年01月26日 降誕5 宣教の開始

週    句

人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
ルカによる福音書 13:29
説  教  「〈その〉ガリラヤのカナで」 :梅田 環

宣教の開始
出33:12~23、Ⅰヨハ1:1~4、ヨハ2:1~11、詩19:2~7。

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。
ヨハネによる福音書 2:11

 「ガリラヤのカナで」、この言葉が冒頭と最後に位置づけられている聖書箇所です。カナ出身とされるナタナエルは、「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と、述べました(ヨハ1:46)。カナというところも比較的小さな集落であったそうです。
 このカナで、イエスが最初の奇跡を起こしたと、ヨハネ福音書は伝えます。「〈その〉ガリラヤの」と注釈をつけなければならないところです。そこにも、人々の暮らしがあり、生き生きとしたいのちの現場があるのです。イエスはそこにご自身の姿を現され、神の独り子としての最初の奇跡を起こされ、栄光を顕わされたのです。
 古代オリエントの婚礼の場は、通常、約一週間続けられたそうです。その最中、ぶどう酒が切れるということは喜びが表現されるために欠かせないものが失われたということであり、喜びの時が途切れることを意味します。また、当時、生活に身近なものであったぶどう酒は、人々の日ごとの糧であり、食卓そのものでもあります。生命が保たれ繋がれて行き、生命が共に生きる中で喜びを分ち合っていくその現場に、イエスが伴っておられ、そのところにおいて、奇跡が行われました。そのイエスの姿を、その時その時、その場所その場所で生きるひとりひとりの存在に目を留められ、そのひとつひとつの生命を愛されたことの証しとして見つめることができるのではないでしょうか。
 しかし、イエスは言います。「わたしの時はまだ来ていません。」人間に対する愛、限りないその愛が示されるその頂点は、十字架の出来事にほかなりません。

2020.01.25(日)の礼拝の週報

04│2020年01月19日 降誕4 最初の弟子たち

週    句

わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から恵みの上に、さらに恵みを受けた。
ヨハネによる福音書 1:16
説  教    「偉大なことを見る」    :梅田 環

最初の弟子たち
サム上3:1~10、ガラ1:11~24、ヨハ1:35~51、詩119:9~16。

さらに言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
ヨハネによる福音書 1:51

 「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と、同じガリラヤのカナ出身のナタナエルは言います。「こんな小さな村から……」という思いを抱いていたからではないでしょうか。〈3.11〉、東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故から9年の時が近づいています。2017年、当時の復興大臣による「東北でよかった」発言が重なって思い起こされます。
 一方、ヨハネ福音書7章の「メシアはガリラヤから出るだろうか」という言葉を見ると、当時の社会の中で、「中央」から見た「地方」への差別的な感覚をも垣間見るように思います。主イエスは、このような隔たりを取り払い、偏見の眼差しをそれとは異なる地平へと向けさせる圧倒的な招きを示します。この招きを受け、わたしたちは、日々新たにされ、新しく主に従い行く者とされて行くのです。
 使徒パウロは、かつての自身について、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」と、告白します。そのパウロが、主イエスとの出会いを通して、新たにされ、「福音を異邦人に告げ知らせる」者として立てられます。迫害者から福音宣教者へと変えられ、福音が異邦人へと広がり行くのです。
 神と主イエスの招きによって新しくされた人たちの姿を心に刻みつつ、このわたしも、主との出会いを通して新たにされる恵みに与っていると言うことを感謝し、また新たに、主に従い行く者にされたいと願います。

2020.01.19(日)の礼拝の週報

03│2020年01月12日 降誕3 イエスのバプテスマ

週    句

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
ローマの信徒への手紙 8:14
説  教    「見よ、神の小羊」    :梅田 環

イエスのバプテスマ
イザ42:1~9、エフェ2:1~10、ヨハ1:29~34、詩36:6~10。

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊だ。……
ヨハネによる福音書 1:29

 「神の小羊」は、新約聖書の中で、特にヨハネ福音書に特徴的な表現です。しかし、その小羊が「世の罪を取り除く」存在であるとは!「小羊」という存在と「取り除く」という行為が、直接的には、結びつくようには感じられないのは、わたしだけでしょうか。
 イザヤ書42章で、神は、ご自分が創造された世界に生きる者に「息」と「霊」を与えると言います。それは、40章と同じように、創造主としての神の姿を現しますが、その神が、人々に「息」と「霊」、すなわち、人を生かすための神からのものを与えるとの言葉に、神が、多様な生命を愛し、救いと恵みの内にそれらを生かすイメージを見ます。そして、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者」と、神の僕が遣わされる様が描かれます。この僕を通して、苦しみの中にある人々が救い出される様は、福音書に示されるイエスの足跡に結びつくものです。
 「神の小羊」としてのイエスは、小ささや弱さの中に生きる人々と共にあり、強さや大きいこととは対極の存在としての小羊です。この小羊が、世の罪を取り除き、人々を生かす存在として、この世に、神の愛を明らかにするのです。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3:16)。主イエスの、地上での歩み、そして、十字架への一つ一つの歩みと出来事の中に神の愛の全部が示されます。「神の小羊」としての主イエスを世にお与えくださった神の愛を覚えつつ、この方こそ、神の子、救い主であるとの信仰を深くする者でありたい。

2020.01.11(日)の礼拝の週報

02│2020年01月05日 降誕2 受肉の秘義

週    句

わたしたちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1:14b
説  教    「言はわたしたちの間に」:梅田 環

受肉の秘義
イザ40:25~31、コロ1:1~14、ヨハ1:14~18、詩103:6~13。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1:14

 「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」とイザヤは語ります。〈森羅万象〉という言葉について、広辞苑では、次のように説明します。「宇宙空間に存在する数限りない一切のものごと。万有」、「日葡『デウスシンラマンゾウヲツクリタマウ』」(第5版)。森羅万象にについて、人間は担当することはできません。イザヤ書の預言の言葉は、「光あれ」との言葉をもって世界を創られた創造主なる神の姿を明らかにしながら、その神のみ業に思いを寄せさせます。
 苦しみに直面し、「道が主に隠されている、裁きが神に忘れられた」と嘆く民に対し、創造主なる神は倦むこと、疲れることのない方として、「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」のです。人間には究め難い叡智をもって、人間に働きかけられる神の業が高らかに宣言されます。
 ヨハネ福音書1:14以下で繰り返される「恵み」という言葉(ヨハネ福音書においてここでのみ登場)は、「身を低くすること」や、「感謝」、さらには、「優雅さ」や、「美しさ」を意味します。これは、誰かに強制されるものではなく、自由なものです。神の側から、人間の資格などを問わずに、一方的、かつ、無償で与えられるもの、つまり、神の愛として、わたしたちに示されるものです。
 この世界を造りたもう神は、愛をもって、わたしたちを生かし、不断に、わたしたちに対して働きかけられます。この神の愛としての恵みが、主イエス・キリストにおいてわたしたちに表されるのです。

2020.01.04(日)の礼拝の週報

01│2020年01月01日 降誕 命名 キリストの降誕

イエス・キリストは、きのうも今日も、また、永遠に、変わることのない方です。
ヘブライ人への手紙 13:8
説  教   「光は闇の中で輝いている」:梅田 環

キリストの降誕
イザ62:6~7,10~12、テト3:4~7、ヨハ1:1~14、詩9:2~13。

光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
(聖書協会共同訳)
ヨハネによる福音書 1:5

 「光」という言葉から、どのような「光」を連想するでしょうか。闇夜の辺り一面を照らし輝くような光、あるいは、燭火礼拝でともされる一つ一つの小さな灯(あか)りのような光かも……。
 ヨハネによる福音書は、神の「言(ことば)」が、光として、この世に到来した、とクリスマスの出来事を表現しますが、わたしには、この光は、今にも、吹き消されそうな小さな灯火のようなものとして連想されます。しかし、この光が、人間を照らす光であり、「闇は光に勝たなかった」(聖書協会共同訳)のです。
 イザヤ書の語る、城壁の上に配置された見張り(62:6)にとって、朝の光によって夜の暗闇が打ち破られる様は、日々の繰り返しであったとしても、喜びや希望そのものだと想像できます。捕囚の後、かつて語られた預言が成就しないと感じ、神の真の救いはいつか? はたしてそれは来るのか? と、人々が懐疑的になった時代、第三イザヤは、新しい朝を待ち望む見張りの役を挙げ、神の救いの確かさ、人々が喜びと希望の内に生きる時、新しい夜明けの時が必ず来ることを、告知します。クリスマスは、まさに、この出来事を現しています。
 ヨハネ福音書は、この光について、「光は暗闇の中で輝いている」と、現在形で書き記します。神の救いは、今、ここに! このたびも共に祝うクリスマスが実現できました。全ての人のもとに「人間を照らす光」が与えられ、神から遣わされた独り子によってすべての人が生きるようになるためにと。神の愛がここに実現していることに感謝しつつ、クリスマス・シーズンを過ごしたいと思います。

2020.01.01(日)の礼拝の週報

54│2019年12月29日 降誕1 先 駆 者

週    句

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネによる福音書 1:14
説  教    祈られている私たち    :草苅祐子
ヨハネによる福音書 17: 20~26

東方の学者たち
イザ11:1~10、ガラ3:26~4:7、マタ2:1~12、詩145:10~21。

ところが、「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書 2:12

 「ユダヤ人の王」を捜す旅が、聖なる都エルサレムで完結すると思いきや、舞台はベツレヘムへと移されます。「ユダヤ人の王」として生まれた方を、当然のようにヘロデのもとに探し求めようとした占星術の学者たちの姿には、代々受け継がれた当時の「当たり前」が影響を及ぼしているかのようです。しかし、当時、寒村であったとされる「ユダの地、ベツレヘム」にてユダヤ人の王として、救い主としてお生まれになった主イエスは、人間の思い描く「常識」や「当たり前」を凌駕した神の恵みと救いの業を現されました。
 王宮に身を置くのではなく、ごく一般の人々の生活が根付く場所でお生まれになり、ベツレヘムの家の中で、地上での最初の歩みを始められた「ユダヤ人の王」。この方のご降誕を通して、これまで繋がるはずのなかった関係が繋がり、断たれていた交わりが回復する。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)とのみ言葉は確かなものです。クリスマスを迎える一つの意味を思い、回復と解放の喜びへと皆が招き入れられるのです。全ての人に与えられる恵みを告げ知らせる教会としての使命を確認したいと思います。
 と、同時に、教会が、キリスト者一人ひとりが、この世にあって、どこに立っているのか、立たねばならないのか、わたしたちの「当たり前」は、はたして、「当たり前」か。幼子主イエスを通して、今わたしたちに問われれているのではないでしょうか。

2019.12.28(日)の礼拝の週報