29│2019年07月14日 聖霊6 全ての人に対する教会の働き

週    句

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテアの信徒への手紙 6:2
説  教    「神が清めた物」      :梅田 環

全ての人に対する教会の働き
ルツ1:1~18、使11:4~18、ルカ17:11~19、詩22:25~32。

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
使徒言行録 11:9

 ペトロは、幻を見て、コルネリウスのもとへ向かい、彼にバプテスマを授けます。ところが、のちに、このことがエルサレム教会で、「割礼を受けている者たち」、つまり、ユダヤ人キリスト者から、問題にされます。それで、この出来事の当事者であるペトロは、弁明をしなくてはならなくなりました。
 ペトロが見た幻は、律法において汚れたものと定められていた食べ物を、食べるように、と勧められるものでした。それは、ある文化・風習において育てられた者にとっては、大きなタブーへの挑戦です。しかし、それは、どれほど主観的には乗り越えることが難しい・抵抗感を持つような行為であったとしても、「ある文化・風習におけるタブー」にすぎず、他の文化の枠組みにおいては存在すらしないものです。
 ペトロは、それを乗り越えることを、求められます。ペトロ自身の経験したことによれば、それを乗り越えさせるのが、「霊」の力です。「ためらわないで……行きなさい」と勧め、また、行った先で、ペトロが出会う人々に働きかけるのは「霊」です。ペトロは自分が見た幻について語り、タブーを乗り越えることを、共に経験できるように、仲間に語りました。
 自分たちの上に降ったのと同じ霊が「彼らの上にも降ったのです」と、自分たちの共同体がスタートした場所に仲間のキリスト者たちを立たせるペトロは、自分が証人となった「異邦人」が中心となる教会の成立を伝えます。こうして、ペトロへの神の言葉はユダヤ人キリスト者にも共有されたのでした。

2019.07.13(日)の礼拝の週報

28│2019年07月07日 聖霊5 個人に対する教会の働き

人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。
ルカによる福音書 19:10
説  教    「手引きしてくれる人」 :梅田 環

個人に対する教会の働き
エゼ34:1~6、使8:26~38、ルカ15:1~10、詩23:1~6。

宦官は「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」と言い、……フィリポに頼んだ。
使徒言行録 8:31

 フィリポが出会ったのは、エチオピアの女王に仕える男性(宦官)。彼は、聖書に親しみ、エルサレムに礼拝に来るほど、聖書の神に引きつけられています。しかし、彼は、その身体的な理由で、エルサレムの核心に近づくことはできないのでした。宦官であり、エチオピア人である彼は、申命記の定めによって、厳しく排除されるべき存在であったからです。こうして、自国においては、多大な権力を持つこの人は、なおそれによって埋められることのない求めを抱え、神殿に参詣し、そこでもまた、魂を周辺におかれたまま、帰途についたのでした。
 フィリポはこの男性に請われて、イザヤ書から始めて、イエスについて証ししました。イザヤ書53章に伝えられる「羊のように屠り場に引かれて行った」人物について「誰についてこう言っているのでしょう」と、問われたからです。フィリポによってイエス・キリストの福音に出会ったこの人は、道端の水辺においてバプテスマを希望し、その希望は叶えられます。
 天使に導かれ、エチオピアの男性に、フィリポは出会い、「手引きしてくれる人がなければどうして分かりましょう」という求めに応えて、聖書を解き明かしました。「異邦人」であること、また、律法の定めに触れる身体的な課題があること、さまざまなことを理由に、聖書の神から遠ざけられていたエチオピアの人は、聖書の伝える良い知らせに出会うことを願っていました。この人を、福音から遠ざけて来たのは、人間が作る宗教の約束事です。
 神は人間の造る隔てを超えて、求める人に福音を届けます。

2019.07.06(日)の礼拝の週報

27│2019年06月30日 聖霊4 キリストを信任する教会


週    句

疲れた者、重荷を負う者は、誰でも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28
説  教  「この方こそ『隅の親石』」 :梅田 環

キリストを信任する教会
申8:11~20、使4:5~12、ルカ8:40~56、詩52:3~11。

この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。
使徒言行録 4:11

 ペトロは、言葉で、イエスがキリストであることを証しするのみならず、その行いでも、キリストの力を証ししていたと、使徒言行録は伝えます(使徒3:6)。その癒しの出来事を目の当たりにしたエルサレム神殿の運営に関わる人々は、「だれの名によって」そんなことをしたのか、とペトロとヨハネに問いただしました。
 「ナザレ人、イエス・キリストの名による」癒しは、かつてイエス自身が行った癒しとは異なるものです。それは、イエス・キリストが、自分、そして、自分が出会っている人との間で、絶対的な力を有していると信じ、告白する者の存在がなければ、成り立たないものです。イエスが癒しを行う時には、イエスの上に、神の力が働いていました。けれども、イエスが不在のところで起こる奇跡はイエス・キリストを信じる存在にのみ働く力によるものです。
 ペトロが「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石になった」と言うとき、この言葉は「信じないもの」との断絶を意識させるものです。「あなたがた」は理解しないで、それを捨てる、ということをはっきり言っているからです。けれども、続けて、ペトロは、「他の誰によっても救いは得られません」と、その断絶を乗り越えて、「あなたがた」をこちらがわ、すなわち、イエス・キリストを信じる存在になることへと招きます。
 「わたしたちが救われるべき名」は、人の存在を回復し、回復を経験した者に、また他者を招くことへと向かわせるような力をもたらすものです。

2019.06.29(日)の礼拝の週報

26│2019年06月23日 聖霊3 教会の一致と交わり

週    句

あなたがたに耳を傾けるものは、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカによる福音書 10:16
説  教  「そうすれば、聖霊を受ける」:梅田 環

教会の一致と交わり
サム下7:4~16、使2:37~47、ルカ14:15~24、詩133:1~3。

「悔い改めなさい。イエスの名によるバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊を受ける……」。
使徒言行録 2:38

 ペトロの言うこの指示は、ペトロが説教で伝えたイエス・キリストの生涯を通して示された「福音」が教えることを大切にする生き方を選び取れ、という勧めです。
 イエスのいないところで(物語上、既にイエスは昇天している)「悔い改め」を伝えて、人の生きる向きを変えさせ「バプテスマ」によって新しいいのちへと招き「罪の赦し」を宣言することができるのは、教会です。イエスの十字架によって示された神の愛に従って、それに応えて生きることは、今、ここにある目に見える教会にメンバーとして加わることでした。それは「主が招いてくださる者になら誰でも」と、ひらかれている救いです。
 そして、多くの人がそこに加わり、心を一つにして神を待ち望んだ、と聖書は伝えています。ここに伝えられる使徒言行録の教会は、そこに加わることで、ある決定的な違いを人に付与する、人の生き方に刻印する教会です。「皆一つになり」「心を一つにし」「一緒に」いることができるのは、この共同体が「主が招いてくださる者なら誰にでも」開かれているからです。共同体の目的は、「神殿に参り」礼拝することと、「一緒に食事をし」、神の国での食卓を先取りすることによって、「神を賛美すること」でした。
 ただ、神を賛美するために神から招かれた者の集まりである教会は、誰をも排除しない共同体であるからこそ、一致することができるのです。わたしたちの教会は、今も、なお、そのような性格を持っているでしょうか。

2019.06.25(日)の礼拝の週報

25│2019年06月16日 聖霊2 教会の使信

週    句

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。
イザヤ書 6:3
説  教   「神の栄光を現す」 :佐野静樹

教会の使信
出19:3~8a,16~20、使2:22~36、ルカ10:17~24、詩8:2~10。

あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。
使徒言行録 2:36b

 聖霊を受けた弟子たちが一斉に語り出したあと、ペトロは「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と証しします。ペトロは、イスラエルの人たちによって、十字架にかけられて殺されたイエスが神によって復活させられた、と語りかけます。そして、詩編から「あなたの聖なる者を朽ち果てるままにはしておかれない」と引用し、ダビデによるイエス復活の預言としています。
 この証しの中で、ペトロは聞き手であるイスラエルの人々の過ちを大目に見ることはしません。「ナザレの人イエス」はイスラエルの人々の間で「奇跡と、不思議な業と、しるしとによって」神から遣わされた者であることを証ししていたのに、人々はそれを理解せずに「律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」と。
 けれども、この一連の出来事はペトロの語るところによれば、すべて神の主導する出来事です。神が、人々にイエスを引渡し、イエスを死の苦しみから解放し、復活させた、というのです。神は、イスラエルの人々の過ちから、復活という死の克服をもたらす。それが、ペトロの語りの中心になります。だからこそ、人は自分の過ちを正面から見据えることができます。
 この説教を通して、イスラエルの人々はペンテコステを眺めている立場から、当事者になることに招かれます。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです」と結ばれるメッセージはわたしたちをイエス・キリストの十字架と復活の出来事をどう受けとめ、生きるのか、との問いへと招きます。

2019.06.16(日)の礼拝の週報

24│2019年06月09日 聖霊1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4:6
説  教    「舌が一人一人の上に」 :梅田 環

聖霊の賜物
創11:1~9、使2:1~11、ルカ11:1~13、詩146:1~10。

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
使徒言行録 2:2〜3

 教会がどのように生まれたかを伝えるときに、聖書は、「一同が」「一つ」になっていること、人が、共通の願いを持って、一致していることを前提としています。しかし、続いて、「分かれ分かれ」「一人一人」に「舌」が与えられるとあり、人間の集団が「舌」を与えられるのは、その集団の中の個別、固有の存在に対してである、と言います。固有の存在、個別の存在が、神の霊を経験し、その「倍音」から何を聞き取るかは、それぞれの個体において異なっているものなのです。
 そのような経験を外側から言い表しているのが「あらゆる国から帰って来た」人々が「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」という表現でしょう。一つの霊を経験して、人は固有の音を聞き取ります。その人にとって、もっとも聖なる音、もっとも宗教的な、もっとも慰めと癒しを与えられる音において、神の霊を体験します。そして、それを伝えようとする時には、「一人一人」異なる多様な仕方で表現される(「ほかの国の言葉」)ことを聖書は保証しています。それは、つまり、そのような形で霊を経験した者、なんらかの「倍音」を耳にしたものは誰でも、その経験を、人とは違う、「別の言葉」で、語り始めることへと、招かれるということです。
 一同が「一つになって」いるところに「分かれ分かれ」に舌が与えられる、と描き出されるペンテコステの物語は、教会に連なる者ひとり一人に、自分の言葉でその経験を言い表す自由と責任を確認させてくれます。

2019.06.09(日)の礼拝の週報

23│2019年06月02日 復活7 キリストの昇天

週    句

わたしは、地上から上げられるとき、全ての人を、自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書 12:32
説  教    「すべての民を弟子に」 :梅田 環

キリストの昇天
エゼ43:1~7a、使1:12~26、マタ28:16~20、詩105:12~24。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
マタイによる福音書 28:19

 復活は弟子たちの作り話だという批判が投げかけられます。イエス・キリストを実際に目にすることのできる人も稀少である以上、信じていない人から、信じる根拠を問われるのは当然かもしれません。
 マタイ福音書は、その結びで、イエス・キリストを信じる根拠を、その「言葉」である、と示しています。復活のイエスに出会う人たちの間には「疑う者もいた」と言いますが、その彼らに伝えられるのは、イエスの言葉だけです。「天と地の一切の権能」をイエスが持つこと、それを「すべての民」に伝えて、イエスの弟子にして、イエスが「命じておいたことをすべて」守るように教えること……。イエスに従う者の中に、曖昧さや不信があったとしても、イエスの語る言葉は「すべて」欠けるところのないものです。そして、同時に、その言葉に従って、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け」ることも命じられています。
 つまり、イエス・キリストを信じる根拠は、その言葉のみであり、その言葉に従ってバプテスマを授けられた群れ〈教会〉が誕生していくということが、宣言されます。そして、イエスの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束で、福音書は結ばれます。
 こうして、最終的に、福音書が示す復活を信じる根拠は、信じる者が言葉を他者に伝えていくという行為、そして、さらに信じる者の輪が広がっていくという現象の中にある、ということが示され、また、信じる者たちのただ中に、イエス・キリストは存在する、と伝えます。

2019.06.01(日)の礼拝の週報

22│2019年05月26日 復活6 信仰に報いる主

週    句

神をたたえよ。神は、わたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれなかった。
詩編 66:20
説  教    「ひと言おっしゃって」 :梅田 環

信仰に報いる主
ダニ6:10~23、Ⅱテサ3:1~5、ルカ7:1~10、詩34:2~11。

わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。……ひと言おっしゃってください。
ルカによる福音書 7:6、7

 救いが、誰に対して、どのように、もたらされるのか、全く神の自由においてなされる、ということを、聖書は繰り返し語ります。なぜか。それは、人間が、救いを限定的に捕らえることが好きだからです。
 カファルナウムでイエスに出会う百人隊長は、その社会通念の境目に立つ人のようです。彼は、聖書の伝えるところによれば、ユダヤ人の間に信じられている信仰を理解し、その礼拝場所である会堂を支えるための助力を惜しまない人で、長老たちがイエスに執り成しをするほどの関係です。けれども、彼自身は、自分の部下の癒しをイエスに依頼するにも、直接会いに来るのではなく、長老に執り成しを頼みます。また、イエスがそれを実行しようとすると、「ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と、友人に伝えさせています。ユダヤ人が信仰する者に、深く敬意を寄せていたがゆえに、百人隊長は、自分自身を神の恵みから遠ざけるべき者、救いに入れられない者として、受け入れてしまっていました。
 威力がどのようなものかを職業的に経験してきた百人隊長は、確かにイエスにおいて働いている神の力を認識し、イエスを従うべき方として、見出しています。人が神に招かれるのはそのような信仰だけで十分である、と聖書は宣言し、百人隊長の部下は癒されます。
 誰が神に近づくことができるのか、それを決めるのは神であって、人間が線を引いてはならないのです。自分をも、他人をも、救いから遠ざけてはなりません!

2019.05.25(日)の礼拝の週報

21│2019年05月19日 復活5 神の子の自由

週    句

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編 98:1
説  教    「いのちを捨てる」 :梅田 環

神の子の自由
申7:6~11、ガラ3:23~4:7、ヨハ15:12~17、詩119:9~16。

友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書 15:13

 これは、イエスの愛の教えに従う者に対し、友のために犠牲の死を実践することを要求する掟というより、むしろ、別の意味をもって、響きます。それは、掟というより、確認の宣言とでもいうことのできるものです。イエスを信じて、イエスに従うものには、イエスを通して、既に、その愛を体験しているのではないか(!?)という気付きを促す言葉なのではないでしょうか。
 イエスは、命を捨てることで、人間を友と呼びます。イエスの愛の行いを通して、人は、友と呼ばれる存在になります。だからこそ、人間は、自立した存在として、自由に自分の行いを決することが求められています。イエスの命じる「互いに愛し合いなさい」という掟には、要求基準はありません。何をどのようになすことが「愛」なのか、友と呼ばれる人間は、自分に示された大いなる愛の内に、責任をもって見つけ出さなければならないのです。
 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』において、「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない」、「キリスト者はすべての者に仕える(ことがのできる)僕であって、誰にでも服する」という2つ命題をこう説明します。「信仰から、神への愛と喜びが流れ出、愛から、報いを考えずに、隣人に仕える自由で自発的で喜ばしい生活が流れ出るのである。なぜなら、わたしたちの隣人が(今)困窮し、わたしたちが余分にもっているものを必要としているように、わたしたちも(かつては)神の前で困窮して、神の恵みを必要としていたのだったからである」(徳善義和訳、教文館、2011)。

2019.05.18(日)の礼拝の週報

20│2019年05月12日 復活4 命のパン

週    句

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
コリントの信徒への手紙 二 5:17
説  教    「いのちのパン」   :梅田 環

命のパン
出16:4~16、Ⅰコリ8:1~13、ヨハ6:34~40、詩78:23~39。

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。……
ヨハネによる福音書 6:35

 イエスのこの言葉を人々が受け入れるのは、パンで満たされる経験があったからです。この聖書箇所に先立つ第6章の冒頭で、彼らはパンの奇跡を経験しており、既に、イエスは満腹させてくれる存在だと知っています。
 けれども、ここでは、イエスは、「パン」ではなく、「命のパン」について語り、そして、それは自分のことである、と言います。さらに、イエスのもとに来て、イエスを信じる者は、決して飢えることも渇くこともない、と語ります。イエスが伝えようとしているのは、比喩的な表現における「パン」です。
 それは、何か、や、誰か、によって満たされるしかないほどに、疲弊し、奪われた状態から、イエスに出会うことによって、その人が回復され、欠けが満たされていくということを、意味するものでしょう。それ以上、誰か、や、何か、によって満たされる必要はなくなるように、人が、自分で立つことができるようにするのが、「命のパン」です。そのような命のパンに触れる機会は、全ての人に開かれています。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われているとおりです。
 教会がこの言葉を生きようとするとき、スタートにおいて、パンは人を生かすものであることを忘れてはならないでしょう。けれども、パンは、人を、時間を超えて、十全に生かすものではなく、命のパンが与えられなければ、人の本来の回復はありません。すべての人が、満たされ自立して、その人本来のいのちのありかたを取り戻すために、「命のパン」によっていかされる教会はこのパンを世界に配ります。

2019.05.12(日)の礼拝の週報