42│2018年10月14日 聖霊降臨22 信仰による生涯

週    句

主がお前に求めておられるのは、正義を行い、慈しみを愛し、神と共に歩むことである。
ミカ 6:8
説  教    「その美しさを見……」  :梅田 環

信仰による生涯
出2:11~22、ヘブ11:23~28、マル14:66~72、詩26:1~12。

……モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
ヘブライ人への手紙 11:23

 ヘブライ人の子は全て殺せとの命令に背いて両親はモーセを生かした。ファラオの命令に背くことは死に値する。両親がその脅しに屈しなかったのは、モーセに「美しさ」を見たからです。「美しさ」とは、単に容姿が整っていることをいうのではありません。両親は、幼子を通して、まさに、いのちを創造された神を見たのです。
 実際、生まれたばかりの幼子を前にすると、神の存在・恵みを感じずにはいられません。何も持たず、何もできない幼子が、実は、わたしたちが心から欲している宝を抱いていることを知ることができます。しかし、成長するにつれ、その宝を見失ってしまいがちです。
 イエスは、墓場を住まいとする悪霊に取り憑かれた人に出会う。叫び、自傷行為繰り返すため、だれの手にも負えなかった。家族や実家があったようだが、帰ることも許されず何度も鎖で手足をしばられていた。周囲の人から疎まれていたその人とイエスは出会い悪霊を追い出す。イエスがそのようにされたのは、その人の内に隠された神の美しさを見ていたからではないでしょうか。わたしたちは、相手の置かれた状況や、相手に関する様々な情報でレッテルを貼る。そして、その人が生まれながらに持っている宝を覆い隠す。隣人の内に、また、自分自身の内にある宝を見失ったとき、隣人のいのちを、また、自分自身のいのちを傷つける行為に走ってしまうのかもしれません。
 イエスは、その覆い隠された宝を見、わたしたちに神の美しさが秘められていることを明らかにされたのです。わたしたちも、イエスに倣って、全てのいのちの内にある神の美しさに目を留めたい

2018.10.14(日)の礼拝の週報

41│2018年10月07日 聖霊降臨21 忍耐

週    句

ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて、食べ物をくださいます。
詩編 145:15
説  教    「絶えず教え、福音を告げ」:梅田 環

忍   耐
ダニ3:13~26、使徒5:27~42、マル14:53~65、詩37:30~40。

それで、使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び、……毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
使徒言行録 5:41〜42

 日本語の「忍耐」という言葉には、受け身的な印象があります。が、忍耐とは、納得できないことや受け入れがたいこと、傷つくことでさえ、反論せずに我慢することなのでしょうか。み言(ことば)は、理不尽な事柄も全て耐えよと言っているのでしょうか。
 今日の日課では、旧約、福音書、使徒書のすべてにおいて、暴力的な脅しにさらされている様が記されています。その状況に屈して、自分自身を押し殺すことが、わたしたちの経験する忍耐です。しかし、聖書が示しているのは、その状況に屈することでも、暴力によって応戦することでもありません。忍耐とは、「そこに留まり続ける」ことを意味しているのです。
 ペトロはどこに留まり続けたのでしょうか。捕らえられたイエスを裏切ったときの彼は、神のもとに留まることができず、人間の力に屈したのでした。しかし、そのペトロを、イエスは赦しました。その赦しには、ペトロに対する信頼があったのではないでしょうか。彼が、再び、神に立ち帰り、人々を神の恵みのうちに歩む道へと導く器となることを信じ、イエスがまずペトロに忍耐を持って留まり続けたからこそ、ペトロは、ここにこそ自分は立つべきだと悟ったのです。
 イエスの信頼はわたしたちにも注がれています。わたしたちに、希望を持って忍耐されているのは、イエスであり、神なのです。わたしたちも、その愛に答えて、隣人に対して、信頼と希望を持って、忍耐しつつ、み言(ことば)を伝える働きに努めようではありませんか。

2018.10.07(日)の礼拝の週報

40│2018年09月30日 聖霊降臨20 執り成し

週    句

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
ヨハネの手紙 一 4:21
説  教    「見倣う者となって欲しい」:梅田 環

執り成し
出32:7~14、ヘブ6:4~12、マル14:43~52、詩106:6~23。

あなたがたが……信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となって欲しいのです。
ヘブライ人への手紙 6:12

 不安に陥ると、わたしたちは手っ取り早く入手できそうな安心や依存先を求めます。しかし、聖書は、自分自身で救いを造り出すことや、不正を行う者への追従を許しません。それらは、わたしたちを生かすのではなく、滅ぼすことになるからです。いのちを与えた神は、わたしたちが生き生きと幸せを生きることを望まれる。しかし、安易な安心の裏には、過剰な負担が隠されているものです。わたしたちの力、時間、そして、自立心さえも奪い、それなしでは生きていけないようにしてしまいます。
 山口県岩国市には極東最大の軍事基地があり、戦闘機の爆音が昼も夜もひっきりなしに響く。基地を置く代わりに、商工観光の振起、騒音地域への住宅整備、子育て支援、など、「地域活性化への財源」と称して、交付金が与えられている。だから、文句を言うな、という内外からの無言の圧力を感じさせる。為政者は、これがなければ、市は衰退するという。この脅しによって、市民(わたしたち)は、知らず知らずの内に、依存させられ、自立心と力を奪われていく。
 この現実に生きているわたしたちを、成熟した人となり、社会に対応できるだけの信仰を養うように、と聖書は励ましてくれる。圧倒的な力がわたしたちを黙らせようとしても、しっかりとみ言葉に立ち、神による希望を語り続けなければなりません。
 エジプトから民を導き出し、生きる道を示された神、罪を赦し、愛を実現する生き方へと導かれた主イエスにこそ希望はあります。この根底的な希望にわたしたちは立ち続けます

2018.09.29(日)の礼拝の週報

39│2018年09月23日 聖霊降臨19 苦難の共同体

週    句

世に打ち勝つ勝利それはわたしたちの信仰です。
ヨハネの手紙 一 5:4
説  教    「信仰に踏みとどまる」 :梅田 環

苦難の共同体
創32:23~33、コロ1:21~29、マル14:26~42、詩43:1~5。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
コロサイの信徒への手紙 1:23

 「共同体としての苦難」と「個人が抱える苦難」、両者には大きな隔たりがある。必要な助けも共通することが多い。しかし、個人が抱える苦しみは千差万別であり、さらけ出すことが困難な場合も多々ある。個人的な悩みや苦しみは理解してもらえないのではないか、また、非難されて幾重にも傷つけられるのではないか。そのことを恐れて、心の奥深くに隠してしまうことはないだろうか。
 教会には、み言葉を伝える使命が与えられている。その相手は、それぞれに、痛みと苦しみを抱えている。そのような人々に何を語るべきなのであろうか。その苦しみは、本来、喜ぶべきもの、神から与えられた試練だ、と語るべきなのだろうか。苦しみの経験が喜びや幸せに勝る信仰体験であるとするならば、苦しむ人に手を差し伸べるどころか、さらに苦しみを与えてしまうだろう。苦しみを個人的なものとして押し付けてしまうならば、その人を孤独へと追いやってしまう。イエスは、十字架の苦しみをイエス個人のものとして押し付けられ、孤独の内に死なれた。そうして、共同体から切り捨てられ、孤独の中で苦しむ人々の友となられた。
 教会は、隣人を孤独へと追いやるためではなく、孤独に追いやられた人の隣人となるために遣わされている。その使命は重い。隣人と同じ経験をすることも、100%気持ちを理解することもできない。み言葉を語っても、その心に届かず、虚しく響いているようにさえ感じることもある。しかし、神は、み言葉が虚しく天に戻ることはないと約束する。神が共におられることを示す働きへと出かけよう。

2018.09.23(日)の礼拝の週報

38│2018年09月16日 聖霊降臨18 キリストに贖われた共同体

週    句

キリストは、死を滅ぼし、福音を通して、不滅の命を現してくださいました。
テモテへの手紙 二 1:10
説  教  「あなたの怒ることはよいことであろうか」:鳥井正也

キリストに贖われた共同体
出12:21~27、ヘブ9:23~28、マル14:10~25、詩96:1~9。

キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる…
ヘブライ人への手紙 9:28

 闇に支配されている人間は、雰囲気(空気)に流され、無罪の者に罪を着せ、死へと追いやる。これらの行動は、隣人だけでなく、自分自身をも、滅びへと到らせるもの。わたしたちは、そのことを知りながら、そうしなければ、生きる場所がないのではないかという不安に駆られ、良心、魂、賜物、いのちでさえも、闇の力に差し出す。神は、このような苦しみに押しつぶされている人々を見、救い、本来あるべき場所に連れ戻すために、イエスを世に送られたのだ。
 滅びへの道を歩むわたしたちを、イエスは、いのちの道へと連れ戻そうとする。イエスは、滅びゆくために、わたしたちのいのちを犠牲にする必要はない、と教える。そして、わたしたちが、今、現在、不当な扱いを受けていること、交わりから疎外されて、孤独にされていること、裏切られて、絶望していること、権力の言いなりになっている状況に目覚め、いのちを失う道ではなく、いのちを得る道に転換するよう、導く。
 贖いには、土地や奴隷を買い戻す、という意味がある。神は、イエスを「代価」として与えることによって、わたしたちのいのちとイエスのいのちを同等のものと見なし、わたしたちもイエスと同じく神の子であると宣言している。そこに、条件は、一切、ない。全てのいのちは、いのちの源である神の御手の内にあるのだから。
 闇に光を与え、いのちを与え、そのいのちを育み育てる救いのことばに、わたしたちの心を向けよう。

2018.09.16(日)の礼拝の週報

37│2018年09月09日 聖霊降臨17 奉仕する共同体

週    句

思い煩いは、何もかも、神にお任せしなさい。神があなたがたのことを、心にかけていてくださる。
ペトロの手紙 一 5:7
説  教    「慈しみは永遠に続く」  :梅田 環

奉仕する共同体
申15:1~11、Ⅱコリ9:6~15、マル14:1~9、詩112:1~10。

「彼は惜しみなく与え、貧しい人に施した。/彼の慈しみは永遠に続く」(詩112:9)/と書いてあるとおりです。
コリントの信徒への手紙 二 9:9

 イエスさまは、その生涯の間、貧しく、人に分け与えるお金も物も持ち合わせておられなかった。不足は人々と協力して補い合い、神の恵みを祝い喜んだ。そのようなイエスさまの生き方から、人々は「多くを与えられた」と喜びにあふれた。このイエスの姿から、わたしたちは「真の献げ物とは何か」という問いを、自分自身に、隣人に、教会に、そして、世界に、投げかけなければならない。
 パウロは、イエスが与えたものについて、詩編の言葉を引用し「慈しみ」であるという。その慈しみという種がわたしたちにも与えられており、パウロは、その種を蒔くという奉仕に勤しむよう勧めている。
 種は持っているだけでは目を出さないし、実を結ばない。蒔いてはじめて成長するのである。だから、いつまでも惜しんで種を持っておく人はいない。むしろ、蒔くべき時に、すべてを蒔いて、豊かな実りを信じ、希望を持って育てるのではないだろうか。慈しみという種も、だれにも与えず、自分自身の内に留めていては、何の変化も起こらないだろう、差し出してはじめて、芽を出し、成長し、実を結ぶ。神は、惜しみなく与えるようにと促しているのです。
 慈しみは正義と同義の言葉です。自分自身の欲望の達成のため、自分自身を守るために、他者を困窮させることは、正義ではありません。全ての人に目を注ぎ、豊かに与えることが、神の正義なのです。この正義に立って、慈しみと愛を行う日々を生きたいものです。物質的なもののみならず、愛を基とした働きすべてが、神によって育まれ、さらに実ることを信じましょう。

2018.09.08(日)の礼拝の週報

36│2018年09月02日 聖霊降臨16 生涯のささげもの

週    句

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを、何ひとつ忘れてはならない。
詩編 103:2
説  教    「神によって使徒とされた」:梅田 環

生涯のささげもの
列上21:1~16、ガラ1:1~10、マル12:35~44、詩119:73~80。

人々からでも、人を通してでもなく、イエス・キリストと、……神とにによって使徒とされたパウロ、
ガラテアの信徒への手紙 1:1c

 〈福音か、律法か〉(恵みか、裁きか)! ガラテアの人々は、パウロの告げる福音によって、新しい道を歩みはじめていた。しかし、律法をどうするのかという問題に直面していた。パウロは叱責するが、律法が書かれている文書も、神の言「聖書」である。取捨選択できるのか。パウロの語る〈律法からの解放〉とどう折り合いをつければよいのか、との問いがでて来るのも当然であろう。
 パウロは律法からの解放を語ったが、それは律法を捨てることを意味するものではない。パウロは、かつて、この律法が何を意味しているか、どう生きるべきか、を自分で考えることなしに思考停止に陥ったがゆえに、他者の信仰を受け入れられず、キリスト者を迫害した。キリストとの出会いによって、パウロは自分の思考や自由を奪う縄目から解放され、自由を得た。ガラテアの人々にかつての自分自身を見、なんとかしてこの呪縛から解き放たれるようにとの思いから、これほどの厳しい口調になってしまったのであろう。
 マルコ福音書では、律法学者とやもめが対比されている。権力を持つ律法学者は、やもめを食い物にしていた。財産等を横領し、その理不尽な扱いに、もの言わせず、諦めさせ、この権力者の保護がなければ生きていけないと思い込ませていた。財産のみならず、自分自身で判断する自由をも奪っていたのだ。そのやもめが、自分の足で、神のもとに向かい、心のままに捧げものをした。彼女は彼女を解放してくださる神に心を向け、自らの足で立っているのである。
 聖霊を受けた弟子たち、パウロも、自らの言葉で語った、自由を!


2018.09.02(日)の礼拝の週報

35│2018年08月26日 聖霊降臨15 最高の道

週    句

わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
マタイによる福音書 25:40
説  教    「最も大いなるものは愛」 :梅田 環

最高の道
ホセ11:1~9、Ⅰコリ12:27~13:13、マル12:28~34、詩62:2~13。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙 一 13:13

 〈あなたのためを思って言っているのよ!〉。言われたこともあり、言ったこともある言葉だ。それを聞くと、自分自身を尊重するよりも、まず、相手が何を求めているか、そして、それを果たすことができるかと考え、愛されるための努力をする。自分の思いは二の次になり、自分の心と体とがバラバラになり、疲れ果て、傷つく。
 最も重要な掟は何か、と尋ねられたイエスは、「愛すること」と答えている。パウロも「最も大いなるものは愛である」と宣言する。神がわたしたちを愛しておられるのだから、わたしたちも神を愛し、隣人を愛するのである。律法や神の言葉は愛するという生き方のための導き手であるはずだ。それを「こうしなければ愛されない」と教えるならば、「愛されていない」という不安を与え、「愛されるため」にどうすればよいか、と苦悩させることになる。このような悩みは自分自身を見失わせる。
 聖書は、失われたわたしたちのために、神が働かれていることを証ししている。ホセア書には、苦悩しつつ、心痛めつつ、民を愛する神の姿がある。その愛はイエス・キリストを通して示された。イエスは、愛されるために自分自身を失っている者を閉じ込めている囲いを打ち破られた。神の愛は、人知を超えた高さ・広さ・深さがある。
 そのイエスに従っていきようとするとき、パウロが言うように、「忍び、信じ、耐える」努力が必要になる。この努力によって、わたしたちは、自分の心の狭さを打ち破り、広大な神の愛に生きることができる。わたしたちは既に愛されているのだ!

2018.08.25(日)の礼拝の週報

34│2018年08月19日 聖霊降臨14 全ての人に対する教会の働き

週    句

彼は傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ書 42:3
説  教    「地の果てにまでも救いをもたらす光」 :梅田 環

全ての人に対する教会の働き
イザ5:1~7、使13:44~52、マル12:1~12、詩40:2~12。

……、『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』
使徒言行録 13:47

 ねたみは、幾度でも現れる感情である。ねたみに支配されると、自分自身を見失い、劣等感を抱き、相手に対して攻撃的になってしまいます。自分自身とかけ離れた人や状況に対してねたみを抱くことはほとんどない。ねたみは、自分の興味・関心の範囲にあるものに対して抱く感情で、「こうありたい」という願望の裏返しともいえる。
 なぜ、ユダヤ人は、神の言葉を聞こうとして集まった群衆にねたみを抱いたのであろうか。もし、異邦人に対して神の言葉が語られることが許せないのであれば、感じるのは、怒りや憤りであろう。パウロたちの人気がうらやましかったのであろうか。「ねたみ」という言葉には、「熱心」という意味も含まれている。
 ユダヤ人たちも、皆、み言葉や信仰生活に対して熱心であった。熱心になればなるほど、自分の信仰の正しさを絶対化し、そこから外れる者を排除してしまう危険性がある。ねたみに支配された人々は、パウロたちを追放したが、彼らの心は晴れなかったであろう。なぜなら、彼らが排除した人々や光景に、彼らの願望や憧れが現れており、それが自分自身にはまだ起こっていなかったからである。
 彼らの見たものは、人々が神の言葉を聞く生き生きとした姿や、敵対者をものともせずに大胆に語る姿、ユダヤ人と異邦人とが共に救いに与る姿だった。彼らが追い求めていた生き方を目の当りにし、これまでの熱心さにもかかわらず、それを実現できていないために、ねたみに燃えて、それらを排除したのではないだろうか。神に仕えているようで、実は自分自身に仕えているわたしたちの姿がここにある。

2018.08.19(日)の礼拝の週報

33│2018年08月12日 聖霊降臨13 新しい人間

週    句

神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には、恵みをお与えになる。
ペトロの手紙一 5:5
説  教    「心の底から新たにされて」:梅田 環

新しい人間
ミカ6:1~8、エフェ4:17~32、マル10:46~52、詩8:2~10。

滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け……
エフェソの信徒への手紙 4:23〜24

 エリコの盲人バルテマイに対する人々の、威圧的・差別的・暴力的な振る舞いは人間の関係を破綻させてしまうものだ。エフェソ書はそのような生き方を「古い生き方」と呼び、「古い人」を脱ぎ捨てよ、と勧める。古い生き方を続けるなら、さらに、神の命から遠ざかってしまいます。今、わたしたちは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけなければなりません。
 新しい人を着るために、イエス・キリストから学ぶことができます。バルテマイを非難し、暴力的に排除しようとする人々に、イエスは言われました。「あの男を呼んで来なさい」。人々を叱りつけたり、彼らを罰したりするのではありません。バルテマイのもとに駆け寄るのでもありません。彼らをバルテマイに近づけようとし、ご自分とバルテマイとの間を仲介させるのです。
 イエスに促され、人々は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、声をかけます。この瞬間、人々は古い人を捨て、新しい人を着たのです。バルテマイとの関係を切っていた人々が、彼との人間関係を再構築しようとするのです。背を向け、見下していた人々がバルテマイと同じ目線で、顔と顔とを遭わせる隣人として生きる道に方向転換したのです。これがイエスから学ぶ生き方ではないでしょうか。
 新しい命に生きるとは、神が創造された命を回復すること、対面し、対話して、祝福された共同体を創ることです。人間関係や被造物と人間との関係も、破れが顕著に現れている今、わたしたちは新しい人として生きる道へと招かれているのです。

2018.08.13(日)の礼拝の週報