25│2019年06月16日 聖霊2 教会の使信

週    句

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。
イザヤ書 6:3
説  教   「神の栄光を現す」 :佐野静樹

教会の使信
出19:3~8a,16~20、使2:22~36、ルカ10:17~24、詩8:2~10。

あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。
使徒言行録 2:36b

 聖霊を受けた弟子たちが一斉に語り出したあと、ペトロは「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と証しします。ペトロは、イスラエルの人たちによって、十字架にかけられて殺されたイエスが神によって復活させられた、と語りかけます。そして、詩編から「あなたの聖なる者を朽ち果てるままにはしておかれない」と引用し、ダビデによるイエス復活の預言としています。
 この証しの中で、ペトロは聞き手であるイスラエルの人々の過ちを大目に見ることはしません。「ナザレの人イエス」はイスラエルの人々の間で「奇跡と、不思議な業と、しるしとによって」神から遣わされた者であることを証ししていたのに、人々はそれを理解せずに「律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」と。
 けれども、この一連の出来事はペトロの語るところによれば、すべて神の主導する出来事です。神が、人々にイエスを引渡し、イエスを死の苦しみから解放し、復活させた、というのです。神は、イスラエルの人々の過ちから、復活という死の克服をもたらす。それが、ペトロの語りの中心になります。だからこそ、人は自分の過ちを正面から見据えることができます。
 この説教を通して、イスラエルの人々はペンテコステを眺めている立場から、当事者になることに招かれます。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです」と結ばれるメッセージはわたしたちをイエス・キリストの十字架と復活の出来事をどう受けとめ、生きるのか、との問いへと招きます。

2019.06.16(日)の礼拝の週報

24│2019年06月09日 聖霊1 聖霊の賜物

週    句

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4:6
説  教    「舌が一人一人の上に」 :梅田 環

聖霊の賜物
創11:1~9、使2:1~11、ルカ11:1~13、詩146:1~10。

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
使徒言行録 2:2〜3

 教会がどのように生まれたかを伝えるときに、聖書は、「一同が」「一つ」になっていること、人が、共通の願いを持って、一致していることを前提としています。しかし、続いて、「分かれ分かれ」「一人一人」に「舌」が与えられるとあり、人間の集団が「舌」を与えられるのは、その集団の中の個別、固有の存在に対してである、と言います。固有の存在、個別の存在が、神の霊を経験し、その「倍音」から何を聞き取るかは、それぞれの個体において異なっているものなのです。
 そのような経験を外側から言い表しているのが「あらゆる国から帰って来た」人々が「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」という表現でしょう。一つの霊を経験して、人は固有の音を聞き取ります。その人にとって、もっとも聖なる音、もっとも宗教的な、もっとも慰めと癒しを与えられる音において、神の霊を体験します。そして、それを伝えようとする時には、「一人一人」異なる多様な仕方で表現される(「ほかの国の言葉」)ことを聖書は保証しています。それは、つまり、そのような形で霊を経験した者、なんらかの「倍音」を耳にしたものは誰でも、その経験を、人とは違う、「別の言葉」で、語り始めることへと、招かれるということです。
 一同が「一つになって」いるところに「分かれ分かれ」に舌が与えられる、と描き出されるペンテコステの物語は、教会に連なる者ひとり一人に、自分の言葉でその経験を言い表す自由と責任を確認させてくれます。

2019.06.09(日)の礼拝の週報

23│2019年06月02日 復活7 キリストの昇天

週    句

わたしは、地上から上げられるとき、全ての人を、自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネによる福音書 12:32
説  教    「すべての民を弟子に」 :梅田 環

キリストの昇天
エゼ43:1~7a、使1:12~26、マタ28:16~20、詩105:12~24。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
マタイによる福音書 28:19

 復活は弟子たちの作り話だという批判が投げかけられます。イエス・キリストを実際に目にすることのできる人も稀少である以上、信じていない人から、信じる根拠を問われるのは当然かもしれません。
 マタイ福音書は、その結びで、イエス・キリストを信じる根拠を、その「言葉」である、と示しています。復活のイエスに出会う人たちの間には「疑う者もいた」と言いますが、その彼らに伝えられるのは、イエスの言葉だけです。「天と地の一切の権能」をイエスが持つこと、それを「すべての民」に伝えて、イエスの弟子にして、イエスが「命じておいたことをすべて」守るように教えること……。イエスに従う者の中に、曖昧さや不信があったとしても、イエスの語る言葉は「すべて」欠けるところのないものです。そして、同時に、その言葉に従って、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け」ることも命じられています。
 つまり、イエス・キリストを信じる根拠は、その言葉のみであり、その言葉に従ってバプテスマを授けられた群れ〈教会〉が誕生していくということが、宣言されます。そして、イエスの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束で、福音書は結ばれます。
 こうして、最終的に、福音書が示す復活を信じる根拠は、信じる者が言葉を他者に伝えていくという行為、そして、さらに信じる者の輪が広がっていくという現象の中にある、ということが示され、また、信じる者たちのただ中に、イエス・キリストは存在する、と伝えます。

2019.06.01(日)の礼拝の週報

22│2019年05月26日 復活6 信仰に報いる主

週    句

神をたたえよ。神は、わたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれなかった。
詩編 66:20
説  教    「ひと言おっしゃって」 :梅田 環

信仰に報いる主
ダニ6:10~23、Ⅱテサ3:1~5、ルカ7:1~10、詩34:2~11。

わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。……ひと言おっしゃってください。
ルカによる福音書 7:6、7

 救いが、誰に対して、どのように、もたらされるのか、全く神の自由においてなされる、ということを、聖書は繰り返し語ります。なぜか。それは、人間が、救いを限定的に捕らえることが好きだからです。
 カファルナウムでイエスに出会う百人隊長は、その社会通念の境目に立つ人のようです。彼は、聖書の伝えるところによれば、ユダヤ人の間に信じられている信仰を理解し、その礼拝場所である会堂を支えるための助力を惜しまない人で、長老たちがイエスに執り成しをするほどの関係です。けれども、彼自身は、自分の部下の癒しをイエスに依頼するにも、直接会いに来るのではなく、長老に執り成しを頼みます。また、イエスがそれを実行しようとすると、「ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と、友人に伝えさせています。ユダヤ人が信仰する者に、深く敬意を寄せていたがゆえに、百人隊長は、自分自身を神の恵みから遠ざけるべき者、救いに入れられない者として、受け入れてしまっていました。
 威力がどのようなものかを職業的に経験してきた百人隊長は、確かにイエスにおいて働いている神の力を認識し、イエスを従うべき方として、見出しています。人が神に招かれるのはそのような信仰だけで十分である、と聖書は宣言し、百人隊長の部下は癒されます。
 誰が神に近づくことができるのか、それを決めるのは神であって、人間が線を引いてはならないのです。自分をも、他人をも、救いから遠ざけてはなりません!

2019.05.25(日)の礼拝の週報

21│2019年05月19日 復活5 神の子の自由

週    句

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編 98:1
説  教    「いのちを捨てる」 :梅田 環

神の子の自由
申7:6~11、ガラ3:23~4:7、ヨハ15:12~17、詩119:9~16。

友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書 15:13

 これは、イエスの愛の教えに従う者に対し、友のために犠牲の死を実践することを要求する掟というより、むしろ、別の意味をもって、響きます。それは、掟というより、確認の宣言とでもいうことのできるものです。イエスを信じて、イエスに従うものには、イエスを通して、既に、その愛を体験しているのではないか(!?)という気付きを促す言葉なのではないでしょうか。
 イエスは、命を捨てることで、人間を友と呼びます。イエスの愛の行いを通して、人は、友と呼ばれる存在になります。だからこそ、人間は、自立した存在として、自由に自分の行いを決することが求められています。イエスの命じる「互いに愛し合いなさい」という掟には、要求基準はありません。何をどのようになすことが「愛」なのか、友と呼ばれる人間は、自分に示された大いなる愛の内に、責任をもって見つけ出さなければならないのです。
 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』において、「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない」、「キリスト者はすべての者に仕える(ことがのできる)僕であって、誰にでも服する」という2つ命題をこう説明します。「信仰から、神への愛と喜びが流れ出、愛から、報いを考えずに、隣人に仕える自由で自発的で喜ばしい生活が流れ出るのである。なぜなら、わたしたちの隣人が(今)困窮し、わたしたちが余分にもっているものを必要としているように、わたしたちも(かつては)神の前で困窮して、神の恵みを必要としていたのだったからである」(徳善義和訳、教文館、2011)。

2019.05.18(日)の礼拝の週報

20│2019年05月12日 復活4 命のパン

週    句

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
コリントの信徒への手紙 二 5:17
説  教    「いのちのパン」   :梅田 環

命のパン
出16:4~16、Ⅰコリ8:1~13、ヨハ6:34~40、詩78:23~39。

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。……
ヨハネによる福音書 6:35

 イエスのこの言葉を人々が受け入れるのは、パンで満たされる経験があったからです。この聖書箇所に先立つ第6章の冒頭で、彼らはパンの奇跡を経験しており、既に、イエスは満腹させてくれる存在だと知っています。
 けれども、ここでは、イエスは、「パン」ではなく、「命のパン」について語り、そして、それは自分のことである、と言います。さらに、イエスのもとに来て、イエスを信じる者は、決して飢えることも渇くこともない、と語ります。イエスが伝えようとしているのは、比喩的な表現における「パン」です。
 それは、何か、や、誰か、によって満たされるしかないほどに、疲弊し、奪われた状態から、イエスに出会うことによって、その人が回復され、欠けが満たされていくということを、意味するものでしょう。それ以上、誰か、や、何か、によって満たされる必要はなくなるように、人が、自分で立つことができるようにするのが、「命のパン」です。そのような命のパンに触れる機会は、全ての人に開かれています。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われているとおりです。
 教会がこの言葉を生きようとするとき、スタートにおいて、パンは人を生かすものであることを忘れてはならないでしょう。けれども、パンは、人を、時間を超えて、十全に生かすものではなく、命のパンが与えられなければ、人の本来の回復はありません。すべての人が、満たされ自立して、その人本来のいのちのありかたを取り戻すために、「命のパン」によっていかされる教会はこのパンを世界に配ります。

2019.05.12(日)の礼拝の週報

19│2019年05月05日 復活3 復活顕現二

週    句

わたしは良い羊飼いである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らに永遠の命を与える。
ヨハネによる福音書 10:27、28
説  教  「まさしくわたしだ」 :梅田 環

復活顕現 2
イザ51:1~6、1コリ15:50~58、ルカ24:36~43、詩4:2~9。

わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。
ルカによる福音書 24:39

 人間の体は老いかつ弱ります。しかし、その体をもってイエスは甦った(!)と、敢えて、福音書は語ります。ルカ福音書も、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われると、彼らは、恐れおののき、亡霊を見ているのだと、思います。古代の常識でも、体をもって甦ることなど、あり得ないことであり、幽霊に違いない、と思ったのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。
 十字架にかけられた時の体と同じ傷んだ体をもって復活のイエスが現れるということは、わたしたちもまた、その体を受け入れ、愛し、慈しむことへと招かれていることを意味しています。それは、自分の体であり、また、出会う相手の体のことです。そして、体を慈しむことがさらに広がっていき、出会う相手と、体ごと、本当の意味で、受け入れ合うことができたときに、お互いの関係は、キリストによって結ばれた関係〈教会〉になっていきます。
 こうして、聖書は具体的なもの、現実に存在するものの中に、復活のいのちを見ることへと、わたしたちを向かわせます。
 まるで恵みとは思えない、不便なことの多い、痛みの多い状態の中にあって、それでも、なお、そこに、恵みを見出すこと! 聖書の信仰は、わたしたちをそのような形で、生きること、愛すること、受け入れることへと招いているのです。

2019.05.07(日)の礼拝の週報

18│2019年04月28日 復活2 復活顕現一

週    句

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えてくださった。
ペトロの手紙 一 1:3
説  教    「栄光に入る」    :梅田 環

復活顕現 1
列下7:1~16、黙19:6~9、ルカ24:13~35、詩16:1~11。

メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。
ルカによる福音書 24:26

 「復活」の使信を受けとめきれない弟子たちが、混乱のエルサレムをぬけだそうとします。その道に、復活のイエスが伴い、それがイエスであると認識できない弟子たちに、問い掛けます。「その話しは何のことですか」。
 その問いは、弟子たちにとって、自分が経験したことを振り返り、回想させることになりました。ナザレのイエスへの期待、その十字架での死、遺体を見つけられなかった女性たちに与えられた「イエスは生きておられる」との天使の言葉までを、弟子たちは振り返り語ります。今、立っている場所から、出来事の起こるスタート地点へと、イエスの問いは、弟子たちを連れて行くことになるのです。
 そして、スタートから、もう一度、イエスは弟子たちと共に歩み、弟子たちがその出来事に生きることができるようにします。イエスがかける言葉は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」という問いかけです。既に知っているはずのこと、聞いているはずのことを、信じることができずに逃亡する弟子たちに、イエスは聖書の初めから全体にわたって、解き明かします。その道の終わりに、イエスはパンを裂き、その分ち合いの中で、弟子たちは復活の希望に生きることができるようになります。
 エマオへ行く途中のその道は、やり直しの道です。失敗し、逃げ出すその道を、復活のイエスは共に歩んでくれます。聖書の解き明かしとパンの分ち合いを通して、人が復活の希望に生きることができるようになる。わたしたちにとっての礼拝行為はこの「やり直しの道」。

2019.04.28(日)の礼拝の週報

17│2019年04月21日 復活1 キリストの復活

わたしは一度は死んだが、見よ、々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている。
黙示録 1:18
朗読劇  復 活 〜《ガリラヤ》へ行かん〜

キリストの復活
創9:8~13、ロマ6:3~11、ルカ24:1~12、詩30:2~13。

婦人たちが恐れて知に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を使者の中に捜すのか。
ルカによる福音書 24:5

 イースター、主の復活のメッセージの中心は、「ない」ことにあります。墓に行ってみると、そこにはイエスの体がなかったことが、イースターの指針の根本です。通常であれば、「ある」ことが大切であるとされるでしょう。信頼があること、希望があること、目的があること、守るべきものがあること、……。けれども、教会が宣教の基盤、その成立の基盤をおいているイースターは、「ない」ことから始まっています。イエスの体が「ない」ことが何を意味するのかということの理解が、教会の宣教を形作ってきました。
 そこでは、決して、ただ「ない」ことだけが語られているわけではありません。「ない」ということを発見した女性たちは、ないことの意味を思い出すように促されます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。それは、死と喪失にのみ向けられている眼差しを、いのちに向けさせる言葉です。「ない」ことは、失われたことを意味するのではなくて、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と語られたことの実現なのだ、と信じることに向けさせる言葉です。
 イエスが十字架にかけられ、苦しみながら死んでいくその姿を、なすすべもなく見守るしかなかった女性たちは、無力感に苛まれ、せめて、イエスの遺体にしかるべき手当をして慰めを得たいと願いました。それは、死と喪失に支配された行動です。
 しかし、空の墓は、その支配を断ち切り、異なるいのちのあり方に女性たちを立たせます。「ない」ことや失うことに怯えない生き方!

2019.04.20(日)の礼拝の週報

16│2019年04月14日 復活前1 十字架への道

週    句

人の子も、上げられねばならない。それは信じる者が皆、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 14:15
説  教    「起きて祈れ」    :梅田 環

十字架への道
イザ56:1~8、ヘブ10:1~10、ルカ22:39~53、詩22:2~22。

……、誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。
ルカによる福音書 22:46

 「棕櫚の主の日」の物語は、イエスが孤独の内に祈る場面から始まります。イエスは「 いつものように」「いつもの場所」で、祈ります。が、その日の出来事は、決して日常のようには展開しません。イエスは自分に近づく苦難を予感し、苦しみながら祈ります。自分から苦しみの杯が取り除かれることを願いながらも、それでも、「御心のままに」と、神に自分を従わせるイエスは、この一連の祈りを共有することのなかった弟子たちに、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と、命じます。それは、生理的に眠り込んでしまったことへの非難というより、これから先、困難が襲いかかる時に、そこに巻き込まれても、自分を見失うことがないように、という戒めです。
 そこに、ユダに率いられ、イエスを逮捕しにやって来た人々が登場します。その場は、騒然とし、混乱の中で、大祭司の手下の一人はイエスの仲間によって、耳を切り落とされてしまいます。その場は、暴力と悪意が支配する場所に、簡単に、なってしまうのです。
 イエスは、その人の傷をいやします。危機にも、混乱にも、先が見えない時にも、敵対する関係にあっても、誰に対しても、イエスは、神の救いを指し示します。暴力で自分を拘束しようとする祭司長たちに対して、今は「闇が力を振るっている」時なのだ、と、その行為の性質を正しく認識しています。
 けれども、イエスが指し示すのは、闇に敗北することのない光であり、憎しみと暴力に支配されることのない愛です。目の前に、苦難と闇と敗北が広がっている時に、その向こうに生み出されるべき世界を、イエスは指し示します。

2019.04.14(日)の礼拝の週報