05│2020年01月26日 降誕5 宣教の開始

週    句

人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
ルカによる福音書 13:29
説  教  「〈その〉ガリラヤのカナで」 :梅田 環

宣教の開始
出33:12~23、Ⅰヨハ1:1~4、ヨハ2:1~11、詩19:2~7。

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。
ヨハネによる福音書 2:11

 「ガリラヤのカナで」、この言葉が冒頭と最後に位置づけられている聖書箇所です。カナ出身とされるナタナエルは、「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と、述べました(ヨハ1:46)。カナというところも比較的小さな集落であったそうです。
 このカナで、イエスが最初の奇跡を起こしたと、ヨハネ福音書は伝えます。「〈その〉ガリラヤの」と注釈をつけなければならないところです。そこにも、人々の暮らしがあり、生き生きとしたいのちの現場があるのです。イエスはそこにご自身の姿を現され、神の独り子としての最初の奇跡を起こされ、栄光を顕わされたのです。
 古代オリエントの婚礼の場は、通常、約一週間続けられたそうです。その最中、ぶどう酒が切れるということは喜びが表現されるために欠かせないものが失われたということであり、喜びの時が途切れることを意味します。また、当時、生活に身近なものであったぶどう酒は、人々の日ごとの糧であり、食卓そのものでもあります。生命が保たれ繋がれて行き、生命が共に生きる中で喜びを分ち合っていくその現場に、イエスが伴っておられ、そのところにおいて、奇跡が行われました。そのイエスの姿を、その時その時、その場所その場所で生きるひとりひとりの存在に目を留められ、そのひとつひとつの生命を愛されたことの証しとして見つめることができるのではないでしょうか。
 しかし、イエスは言います。「わたしの時はまだ来ていません。」人間に対する愛、限りないその愛が示されるその頂点は、十字架の出来事にほかなりません。

2020.01.25(日)の礼拝の週報

04│2020年01月19日 降誕4 最初の弟子たち

週    句

わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から恵みの上に、さらに恵みを受けた。
ヨハネによる福音書 1:16
説  教    「偉大なことを見る」    :梅田 環

最初の弟子たち
サム上3:1~10、ガラ1:11~24、ヨハ1:35~51、詩119:9~16。

さらに言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
ヨハネによる福音書 1:51

 「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と、同じガリラヤのカナ出身のナタナエルは言います。「こんな小さな村から……」という思いを抱いていたからではないでしょうか。〈3.11〉、東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故から9年の時が近づいています。2017年、当時の復興大臣による「東北でよかった」発言が重なって思い起こされます。
 一方、ヨハネ福音書7章の「メシアはガリラヤから出るだろうか」という言葉を見ると、当時の社会の中で、「中央」から見た「地方」への差別的な感覚をも垣間見るように思います。主イエスは、このような隔たりを取り払い、偏見の眼差しをそれとは異なる地平へと向けさせる圧倒的な招きを示します。この招きを受け、わたしたちは、日々新たにされ、新しく主に従い行く者とされて行くのです。
 使徒パウロは、かつての自身について、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」と、告白します。そのパウロが、主イエスとの出会いを通して、新たにされ、「福音を異邦人に告げ知らせる」者として立てられます。迫害者から福音宣教者へと変えられ、福音が異邦人へと広がり行くのです。
 神と主イエスの招きによって新しくされた人たちの姿を心に刻みつつ、このわたしも、主との出会いを通して新たにされる恵みに与っていると言うことを感謝し、また新たに、主に従い行く者にされたいと願います。

2020.01.19(日)の礼拝の週報

03│2020年01月12日 降誕3 イエスのバプテスマ

週    句

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
ローマの信徒への手紙 8:14
説  教    「見よ、神の小羊」    :梅田 環

イエスのバプテスマ
イザ42:1~9、エフェ2:1~10、ヨハ1:29~34、詩36:6~10。

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊だ。……
ヨハネによる福音書 1:29

 「神の小羊」は、新約聖書の中で、特にヨハネ福音書に特徴的な表現です。しかし、その小羊が「世の罪を取り除く」存在であるとは!「小羊」という存在と「取り除く」という行為が、直接的には、結びつくようには感じられないのは、わたしだけでしょうか。
 イザヤ書42章で、神は、ご自分が創造された世界に生きる者に「息」と「霊」を与えると言います。それは、40章と同じように、創造主としての神の姿を現しますが、その神が、人々に「息」と「霊」、すなわち、人を生かすための神からのものを与えるとの言葉に、神が、多様な生命を愛し、救いと恵みの内にそれらを生かすイメージを見ます。そして、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者」と、神の僕が遣わされる様が描かれます。この僕を通して、苦しみの中にある人々が救い出される様は、福音書に示されるイエスの足跡に結びつくものです。
 「神の小羊」としてのイエスは、小ささや弱さの中に生きる人々と共にあり、強さや大きいこととは対極の存在としての小羊です。この小羊が、世の罪を取り除き、人々を生かす存在として、この世に、神の愛を明らかにするのです。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3:16)。主イエスの、地上での歩み、そして、十字架への一つ一つの歩みと出来事の中に神の愛の全部が示されます。「神の小羊」としての主イエスを世にお与えくださった神の愛を覚えつつ、この方こそ、神の子、救い主であるとの信仰を深くする者でありたい。

2020.01.11(日)の礼拝の週報

02│2020年01月05日 降誕2 受肉の秘義

週    句

わたしたちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1:14b
説  教    「言はわたしたちの間に」:梅田 環

受肉の秘義
イザ40:25~31、コロ1:1~14、ヨハ1:14~18、詩103:6~13。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1:14

 「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」とイザヤは語ります。〈森羅万象〉という言葉について、広辞苑では、次のように説明します。「宇宙空間に存在する数限りない一切のものごと。万有」、「日葡『デウスシンラマンゾウヲツクリタマウ』」(第5版)。森羅万象にについて、人間は担当することはできません。イザヤ書の預言の言葉は、「光あれ」との言葉をもって世界を創られた創造主なる神の姿を明らかにしながら、その神のみ業に思いを寄せさせます。
 苦しみに直面し、「道が主に隠されている、裁きが神に忘れられた」と嘆く民に対し、創造主なる神は倦むこと、疲れることのない方として、「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」のです。人間には究め難い叡智をもって、人間に働きかけられる神の業が高らかに宣言されます。
 ヨハネ福音書1:14以下で繰り返される「恵み」という言葉(ヨハネ福音書においてここでのみ登場)は、「身を低くすること」や、「感謝」、さらには、「優雅さ」や、「美しさ」を意味します。これは、誰かに強制されるものではなく、自由なものです。神の側から、人間の資格などを問わずに、一方的、かつ、無償で与えられるもの、つまり、神の愛として、わたしたちに示されるものです。
 この世界を造りたもう神は、愛をもって、わたしたちを生かし、不断に、わたしたちに対して働きかけられます。この神の愛としての恵みが、主イエス・キリストにおいてわたしたちに表されるのです。

2020.01.04(日)の礼拝の週報

01│2020年01月01日 降誕 命名 キリストの降誕

イエス・キリストは、きのうも今日も、また、永遠に、変わることのない方です。
ヘブライ人への手紙 13:8
説  教   「光は闇の中で輝いている」:梅田 環

キリストの降誕
イザ62:6~7,10~12、テト3:4~7、ヨハ1:1~14、詩9:2~13。

光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
(聖書協会共同訳)
ヨハネによる福音書 1:5

 「光」という言葉から、どのような「光」を連想するでしょうか。闇夜の辺り一面を照らし輝くような光、あるいは、燭火礼拝でともされる一つ一つの小さな灯(あか)りのような光かも……。
 ヨハネによる福音書は、神の「言(ことば)」が、光として、この世に到来した、とクリスマスの出来事を表現しますが、わたしには、この光は、今にも、吹き消されそうな小さな灯火のようなものとして連想されます。しかし、この光が、人間を照らす光であり、「闇は光に勝たなかった」(聖書協会共同訳)のです。
 イザヤ書の語る、城壁の上に配置された見張り(62:6)にとって、朝の光によって夜の暗闇が打ち破られる様は、日々の繰り返しであったとしても、喜びや希望そのものだと想像できます。捕囚の後、かつて語られた預言が成就しないと感じ、神の真の救いはいつか? はたしてそれは来るのか? と、人々が懐疑的になった時代、第三イザヤは、新しい朝を待ち望む見張りの役を挙げ、神の救いの確かさ、人々が喜びと希望の内に生きる時、新しい夜明けの時が必ず来ることを、告知します。クリスマスは、まさに、この出来事を現しています。
 ヨハネ福音書は、この光について、「光は暗闇の中で輝いている」と、現在形で書き記します。神の救いは、今、ここに! このたびも共に祝うクリスマスが実現できました。全ての人のもとに「人間を照らす光」が与えられ、神から遣わされた独り子によってすべての人が生きるようになるためにと。神の愛がここに実現していることに感謝しつつ、クリスマス・シーズンを過ごしたいと思います。

2020.01.01(日)の礼拝の週報

54│2019年12月29日 降誕1 先 駆 者

週    句

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネによる福音書 1:14
説  教    祈られている私たち    :草苅祐子
ヨハネによる福音書 17: 20~26

東方の学者たち
イザ11:1~10、ガラ3:26~4:7、マタ2:1~12、詩145:10~21。

ところが、「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書 2:12

 「ユダヤ人の王」を捜す旅が、聖なる都エルサレムで完結すると思いきや、舞台はベツレヘムへと移されます。「ユダヤ人の王」として生まれた方を、当然のようにヘロデのもとに探し求めようとした占星術の学者たちの姿には、代々受け継がれた当時の「当たり前」が影響を及ぼしているかのようです。しかし、当時、寒村であったとされる「ユダの地、ベツレヘム」にてユダヤ人の王として、救い主としてお生まれになった主イエスは、人間の思い描く「常識」や「当たり前」を凌駕した神の恵みと救いの業を現されました。
 王宮に身を置くのではなく、ごく一般の人々の生活が根付く場所でお生まれになり、ベツレヘムの家の中で、地上での最初の歩みを始められた「ユダヤ人の王」。この方のご降誕を通して、これまで繋がるはずのなかった関係が繋がり、断たれていた交わりが回復する。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)とのみ言葉は確かなものです。クリスマスを迎える一つの意味を思い、回復と解放の喜びへと皆が招き入れられるのです。全ての人に与えられる恵みを告げ知らせる教会としての使命を確認したいと思います。
 と、同時に、教会が、キリスト者一人ひとりが、この世にあって、どこに立っているのか、立たねばならないのか、わたしたちの「当たり前」は、はたして、「当たり前」か。幼子主イエスを通して、今わたしたちに問われれているのではないでしょうか。

2019.12.28(日)の礼拝の週報

52│2019年12月22日 降誕前1 告   知

週    句

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピの信徒への手紙 4:4、5
説  教    「主は…立ち上がられる」 :梅田 環

告   知
ゼカ2:14~17、ヘブ10:1~10、ルカ1:57~66、詩89:20~30。

全ての肉なる者よ、主の御前に黙せ。
主はその聖なる住まいから立ち上がられる。
ゼカリヤ書 2:17

 預言者ゼカリヤは、紀元前520年にその預言活動を始めたとされています。バビロン捕囚解放後20年弱を経たのですが、神殿再建がさまざまな事情によって進展していない状況にありました。
 幻を通して、主は語られます。神殿再建完了の暁には、「あなたのただ中に住まう」と。しかも、幻の最後には、「聖なる住まい」から立ち上げる、とさえ言われます。それは、天の住まいから立ち上がり、地上に再建された神殿にやって来られる、ということを意味するようです。捕囚中は、勿論、解放後も、なかなか思う通りにことが運ばない、その苦境の中で、しばしば、民は神の不在を感じていたかもしれません。その民に、神が「あなたのただ中に住まう」と約束される言葉は、人々を奮い立たせ、新しい希望を抱かせる力に溢れています。
 主が来られる時、「多くの国々」はわたしの民となる、と言います。神の救いは誰をも排除しない。「インマヌエル=神は我々と共におられる」が真実のことであることが証しされ、救いの広がり・確かさがここに明らかにされます。そして、この主が来られると描かれる様に、わたしたちは主イエスのご降臨を重ね合わせるのです。
 ヘブライ人への手紙の中で、キリストがこの世に来られた時、「ご覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と語られたとされます(ヘブ10:9)。様々な分断と隔ての溝が深くされてしまっているこの時代にあって、全ての人の救い主として主イエスがおいでくださるという恵み、そこからの喜びを共に分ち合うことの中に、クリスマスを祝う意味がより一層深められて行くのではないでしょうか。

2019.12.28(日)の礼拝の週報

51│2019年12月15日 降誕前2 先 駆 者

週    句

主のために、荒れ野に道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びて来られる。
イザヤ書 40:3、10
説  教    「義の太陽が昇る」     :梅田 環

先 駆 者
マラ3:19~24、Ⅰコリ4:1~5、ヨハ1:19~28、詩19:8~15。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。/その翼にはいやす力がある。/あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。
マラキ書 3:20

 聖書の民の経験と、今日のわたしたちが経験することは、全く同じではありませんが、ある時は重大な出来事、またある時は、それほど大きなこととは思われないかもしれない出来事を通して、わたしたちも信仰が揺らぐということに直面します。
 聖書に記されたいにしえの信仰者たちの問い掛け、心からの叫びや呻きはわたしたちの姿でもあり、わたしたちはさまざまな揺らぎの中に身をおきながら生きる者であると自覚させられるものです。これこそが「正しい」とか、これこそが「強い」とか、そういう認識の中に、わたしたちの危うさが潜んでいるのかもしれません。
 マラキ書の言葉は、その最後の部分で、神の救いのみ業を告げます。「義の太陽が昇る」!(3:20)。この光に照らされ、牛舎の子牛が躍り出て飛び回るイメージは、さまざまな揺らぎと迷いの中にある人々に対して、神は見捨てることなく救いの恵みを与えられることを宣言します。そして、「教え(トーラー)を思い起こせ」と命じられます。これは、ただ過去を思い起こせということではなく、神から与えられた教えを受け、それに根ざして生きよ、という促しのメッセージとして受けとめるべきでしょう。
 揺らぎ、惑い、迷う者を、神は見捨てず、愛される! その神の愛の現れとして、この世に与えられた主イエスの降誕を待ち望み、それぞれに神に従い、神と共に歩む姿を整えたい。それが主イエスを心の内にお迎えする備えとなるのではないでしょうか。

2019.12.14(日)の礼拝の週報

50│2019年12月08日 降誕前3 旧約における神の言

週    句

身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
ルカによる福音書 21:28
説  教    「羊飼いのいない羊のように」    :梅田 環

旧約における神の言
列上22:6~17、Ⅱペト1:19~2:3、ヨハ5:36~47、詩147:12~20。

彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。
列王記上 22:17

 「主の目に悪とされる王」(列上21:25)北イスラエル王アハブと対決した預言者ミカヤの事跡。
 ラモト・ギレアドへの攻撃を画策するアハブの周囲には数多くの預言者たちがいましたが、彼らは皆一様に「攻め上ってください」「殲滅せよ」と声を張り上げます。権力におもねり、王の意向に添ったことを「預言」として語る者たち、偽預言者! その言葉をもって、わが意を得たりとする王! ミカヤに対して「王に幸運を告げてください」と進言する王の使いの者たち! 御用学者の意見こそ全てとするような取り巻き政治屋たち! その横行する忖度! まるでどこかの国を見ているような様を、わたしたちは聖書の物語の中に見ます。しかし、聖書はそのような王の後ろ盾を得て保身に走ろうとする預言者と、その語る言葉に身を委ねる者たちを厳しく批判します。「人間の意思に基づいて語られたのではない」預言の言葉は「何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」とⅡペトロの言葉が鋭く指摘する通りです。
 「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハ1:14)との出来事を待ち望むわたしたちは、神の言葉にどのように聞くのでしょうか。神の言葉を受け、いかにかに生き、神に従う歩みをなすのでしょうか。今日は、日本がアジア/太平洋への戦争の道へと突き進んで行ってしまったことを憶える日でもあります。
 「殲滅せよ!」の言葉の対極として、「あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる」(詩147:14)と詩人が歌い上げる神の業が示されます。平和の君なる御子の降誕を待ち望みます。

2019.12.08(日)の礼拝の週報

49│2019年12月01日 降誕前4 主の来臨の希望

週    句

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書 9:9
説  教    「良い知らせを伝える者の足」  :梅田 環

主の来臨の希望
イザ52:1~10、ロマ11:13~24、ヨハ7:25~31、詩47:2~10。

いかに美しいことか
山々を生き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
イザヤ書 52:7

 戦い、それを神の名の下に美化された歴史としてではなく、人間の極めて愚かで醜い姿で聖書は描きます。他民族への侵略を繰り返して来た民が、バビロニアによって侵略される側に立たされて行くのです。
「する」側、「される」側、両者の経験をした聖書の民の歴史は、今日を生きるわたしたちに多様な形で問いを与えます。
 そして、この箇所、解放の告知、救いの約束の言葉は何と美しく力強いことか! と同時に、わたしたちが、何をもって「美しい」とするのか、固定化されがちな観念に迫って来る言葉が紡がれています。
 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、よい知らせを伝える者の足は」(イザ52:7)。「足」が美しいという預言者の言葉は、読む者たちをしばしば驚かせてきたに違いありません。しかも、この足は手入れの行き届いたものではなく、山々を生き巡ったために汚れ傷ついた足としてイメージされます。苦しみと困難のただ中におかれた民に、「平和」と「救い」、「恵みの良い知らせ」を告げるために、駆け回り、傷ついた姿に、預言者は美しさを見出したのです。行動し、語り、そのために傷つく姿、それは、アドヴェントを迎え、今、わたしたちが待ち望む主イエス・キリストの姿に重なるものです。
 差別され、退けられ、痛み付けられられる現実の中にある人々と出会い、各地を行き巡りながら、救いの良き知らせを告げられた主イエス。このお方がわたしたちのもとにもおいでになる。全ての人を救い、和解と平和の福音をもたらす神の独り子が与えられる。「全ての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」(詩47:2)

2019.11.30(日)の礼拝の週報