42│2019年10月13日 聖霊19 金持ちと貧者

週    句

世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
ヨハネの手紙 一 5:4
説  教   「御国を受け継ぐ者」:梅田 環

金持ちと貧者
アモ6:1~7、ヤコ2:1~9、ルカ16:19~31、詩73:21~28。

神は、世の貧しい人たちを敢えて選んで信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさった。

ヤコブの手紙 2:6

 こう、手紙の著者は述べます。それは、人間の目による豊かさと、神の前における豊かさの違いを明確に示すためです。教会は、どのような時でも、神の前における豊かさに生きることを追求しなければなりません。
 教会の中に人間的な序列を持ち込もうとする心情に対して、この手紙の著者は徹底的に抵抗します。たとえそれが世の中でしばしば見受けられる行為だとしても、著者はそれに抵抗します。なぜなら、それは、「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じる」こととは両立しないからです。
 イエス・キリストの栄光は、彼が傷を受け、血を流し、十字架で命を奪われることによって、現されました。イエスが、そのようにして、最も貧しい者と共に生き、死ぬことによって、全ての人間は、神の前に生きていてもよいものとされました。そのように教会は教えているのに、その教会に置いて、もし、人間が人間を格付けしたり、えり好みしたりするとしたら、それは、イエスによって死からいのちへと取り戻された者の集まりではなくなってしまうでしょう。
 社会の貧困率が上がってきているそうですが、それは、教会が手を伸ばし、教会に迎え入れられる人々がますます増えて来ているということです。経済的な困難に直面する時こそ、教会が主イエス・キリストの栄光に生きる時です。その、根本的な事実を、わたしたちは、心に刻んでおきたいと思います。

2019.10.12(日)の礼拝の週報

41│2019年10月06日 聖霊18 世 の 富

週    句

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
テモテへの手紙 二 1:10
説  教   「満ち足りることを知る」 :梅田 環

世 の 富
アモ8:4~7、Ⅰテモ6:1~12、ルカ16:1~13、詩49:2~21。

信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。

テモテへの手紙 一 6:6

 この手紙が当てられている教会は、地上のどの他の教会とも共通する、人間のさまざまな欲が支配する場所でありました。名誉や金銭への欲は「信仰」を与えられた人間の集まりである教会にさえも存在するのです。だからこそ、この手紙の著者は「信心」を問題にします。神に招かれ、「信仰」を与えられた人間の向かう先を示す、表に現れる人間の心としての、「信心」です。
 人間が信じる心としての「信心」の現れかたは多様でしょう。この手紙の著者によれば、自分が得をしようと思って、つまり、何らかの欲が満たされることを願って、「信心」があると、それは「ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争い」のもとになると言います。しかし、それがないところ、つまり、「満ち足りることを知る者」には、「大きな利得の道」であると言うのです。何らかのほかの目的がない、信心のための信心は、それに熱心であるほど、他の欲求から人間を解放し、自由にするからです。それこそが、人が世界で生きることの「利得」です。
 「信心」は、人が、いのちの歩みで経験するさまざまの喪失、さまざまの敗北によって、人が押しつぶされるようになることを、免れさせます。「信心」は、人のいのちの歩みを人間の欲求の間に置くのではなく、遠く神につなげようとするからです。
 「いのちを得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」という言葉が、わたしたちの内に実現する「信心」を追い求めようではありませんか。

2019.10.05(日)の礼拝の週報

40│2019年09月29日 聖霊17 十字架を背負う

週    句

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方のことを心にかけていてくださる。
ペトロの手紙 一 5:7
説  教    「共に喜び、共に泣く」 
           〜地域宣教を担うわたしたち〜:草苅隆幸

新しい人間
創37:12~28、コロ3:12~17、ルカ15:11~32、詩37:7~22。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
コロサイの信徒への手紙 3:12

 コロサイの教会に与えられている徳目表は他の書簡にも見られる一般的なものです。キリスト教に、また、キリスト教徒にとってのみ、それらが必要なわけでも、実行可能なわけでも、決して、ないものです。ギリシャ哲学においても要求される徳であったそれらのものは、しかし、キリスト者においては「主」が基準となっています。
 イエス・キリストによって悪や過ちから買い戻してもらった者であるから、これらの徳がキリスト者に求められるのだ、と言うのです。著者は、その徳の実践には、人間の意思や努力が必要だとは語りません。求めるべきは、キリストが人間に示してくださった「全てを完成させる愛であり、それに「与らせるために」招かれているところの平和です。
 この両者は、いずれも人間の外からやって来るものです。著者が伝えようとしていることは、その人間の外からやって来るものに対して、心開かれてあれ、ということ。それは、著者の伝えるところによれば、「言葉」を受け取り、「互いに教え」、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して、心から神をほめたたえ」ること、すなわち、礼拝行為です。
 キリスト者であることは、社会の中で生きる時に、高い倫理基準を持って生きることではありません。キリスト者であることは、神に生かされ、担われ愛された喜びと感謝を持って、礼拝する人間として生きることです。わたしたちも、著者の書き上げる徳目を喜び、力まないで、主の日の賛美を建てる礼拝者集団でありたい。

2019.09.28(日)の礼拝の週報

39│2019年09月22日 聖霊16 十字架を背負う

週    句

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
詩編 103:2
説  教    「新しく創造される」   :梅田 環

十字架を背負う
サム下18:31~19:1、ガラ6:14~18、ルカ14:25~35、詩142:2~8。

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
ガラテアの信徒への手紙 6:16

 ガラテアの教会には、「割礼」に重きを置く人々が生まれていました。割礼を受け、ユダヤ教の求める律法遵守の姿勢を貫くことで、神の救いに与ろうという考えです。しかしながら、パウロにとっては、それは、キリストの十字架の福音の意味を無くさせてしまうものでした。それゆえ、パウロはそれと闘わなければなりませんでした。
 イエスの十字架と復活が、その人の上にどのような意味を持つのかということを、パウロは「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対して、はりつけにされている」と表現しています。十字架が、人間の生にとって決定的な意味を持つことを「はりつけにする」と言い表すのです。
 十字架は、神の差し出す赦しを、イエス・キリストという形で、人間が受け取る場所です。人がどのような存在であったとしても、どのようなことをなしたとしても、なし得なかったとしても、人間のあり方に関わりなく、人は、十字架によって、神からの赦しを一方的に与えられています。パウロが、自分は、その十字架によって、「世」に対して、「はりつけ」にされたと言うとき、それは、パウロにとって、「世」の価値は意味のないものとなっていること、そして、パウロは、「世」の価値で生きてはいないことを伝えています。
 それゆえ、「世」の中で、軽蔑され、晒し者にされ、苦しい思いをすることもあります。パウロには、「世」の中で、評価されるものはなく、「十字架のほかに、誇るものが」何ひとつなかったのです。わたしたちも、十字架を背負う「新しく創造される」人の人生を生きたい!

2019.09.22(日)の礼拝の週報

38│2019年09月15日 聖霊15 神からの誉れ

週    句

わたしの兄弟であるこの最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしてくれたことなのである。
マタイによる福音書 25:40
説  教  「今していることを続ける」 :梅田 環

神からの誉れ
箴25:2~7a、Ⅱコリ11:7~15、ルカ14:7~14、詩31:15~25。

わたしは今していることを、今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会を狙っている者たちから、その機会を断ち切るためです。
コリントの信徒への手紙 二 11:12

 パウロは、コリントの教会では、「神の福音を無報酬で告げ知らせた」ことで、かえって教会から批判を受けてさえいたようです。なぜなら、コリントの教会は、パウロにとって、経済的支援を求められる教会ではなかったからです。パウロは、自分の困窮の際には、「マケドニア州から来た兄弟たち」に必要を満たしてもらっていますが、コリントの教会とはそうした関わりを持ちません。
 豊かな都市コリントの教会にはなくて、困難を生きる小さなマケドニア州の教会にはある、交わりの性質のゆえです。神において結びつけられた関係であれば、必要な時に必要なものを与えて欲しい、支えて欲しいと願うことができます。物怖じすることなく、他者の判断や評価をおもわんばかることなく、願い出ることができるものです。それは、人に対する行為ではなく、神に対する行為であるからです。けれども、神において結びつけられたはずの共同体が、そのような性質を失うことがあります。そこでは、支え支えられることは、人間の観点からの出来事になってしまいます。
 パウロは、コリントの教会に対して、「負担をかけない」ことで、この教会が、神の前での交わりを取り戻すことを願っています。
 「誰に」対してやった、とか、「誰が」やったとかいう、教会共同体の特定の個人に帰する行動ではなく、神に結ばれた人間として教会共同体に連なる者の交わりが、教会で、ブロックで、地方連合で、連盟で、どのようなされているかを振り返ってみましょう。

2019.09.14(日)の礼拝の週報

37│2019年09月08日 聖霊14 正しい服従

週    句

彼は傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ書 42:3
説  教  「弱い人を受け入れなさい」 :梅田 環

正しい服従
出23:10~13、ロマ14:1~9、ルカ14:1~6、詩92:2~16。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。
ローマの信徒への手紙 14:1

 ここに言う「信仰の弱い人」とは、肉食を断つことで、神に対して誠実に向き合うことができる、と考えている人のようです。それは従来習い行なって来た宗教行為であったかもしれません。しかし、キリスト・イエスの十字架と復活のゆえに、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない」(ロマ6:14)と教えるパウロによれば、そのような伝統的に正しい信仰の応答の姿と考えられたものは、もはや意味のない行為なのです。そこで、パウロは、十字架の福音の与える自由を生きることができない者を「信仰の弱い人」と呼びます。
 ここで、問題になるのは、そのように、何を食べるか何を食べないかというような点において、人を軽蔑したり、裁いたりすることが、教会の中におこっていたことでした。
 パウロは「各自が、自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」という言葉によって、この対立を収めようとします。それは、日常生活での振る舞いは、個人の選択・決断が重要であるということより、むしろ、他者の日常生活における振る舞いについて言及することが意味のないことであると、パウロが考えていることを示しています。
 パウロにとって、重要なのは、自由に生きる者も、自由に生きることができない者も、そのひとり一人が「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」といういのちを生きているのか、ということです。それぞれが個人の決断として「主のもの」として生きているか。そのような生き方こそが神への服従であり、それには、定型的なものは存在しません。それぞれの模索へとパウロは招く。

2019.09.08(日)の礼拝の週報

36│2019年09月01日 聖霊13 信仰の証し

週    句

神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。
ペトロの手紙 一 5:5
説  教   「御言葉を行う人になる」 :梅田 環

信仰の証し
アモ5:18~24、ヤコ1:19~27、ルカ13:10~17、詩119:73~80。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる人になっては行けません。
ヤコブの手紙 1:22

 「聞くのに早く、話すのに遅く、また、怒るのに遅いようにしなさい」と諭されています。よく聞き、自分の主張は抑えて、怒りに身を任せないように、という勧めは、感情的になり争いを引き起こすような人間関係に陥ることのないよう、人としての取るべき振る舞いを指示しているに過ぎないように、確かに、映ります。「藁の書」か?
 しかし、そのように振る舞うことを勧める根拠は、「人の怒りは神の義を実践しないから」と言われ、そこには人間の限界と神の絶対性がはっきりと認識されています。人に求められるのは、人間の相対的な正しさにおける良いことの実践ではなく「神の義」を求めることであり、そのためには、悪を捨て去り「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」と、命じられます。人間の中にある正しさや善を追求するというより、人間の外から来る御言葉を受け入れ、それに、自分を明け渡し、それによって、動かされなさいと勧められているのです。
 御言葉によって、動かされて生きることが「行う」ことであると、この手紙の著者は考えています。「行う」ことは目的ではなく、御言葉によって生きた結果である、ということです。ですから、「御言葉を聞くだけで行なわない者」が「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人」にたとえられているのは、著者が「御言葉」が人に変革をもたらすものだと信じているからです。
 「自由をもたらす完全な律法」である御言葉によって、人は、自由に自分から他者への奉仕に向かいます、そして、それが、「信心」として他者に認識される信仰になります。

2019.08.31(日)の礼拝の週報

35│2019年08月25日 聖霊12 主の来臨に備える

週    句

いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。
詩編 33:12
説  教  「生けるまことの神に仕える」:梅田 環

主の来臨に備える
エゼ12:21~28、Ⅰテサ1:1~10、ルカ12:35~48、詩121:1~8。

どのように生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望む……
テサロニケの信徒への手紙 一 1:9〜10

 困難が続く日常なのに、他者に対して寛容であり続け、自らの将来に希望を持ち続けることは、常人には到底なし得ないことです。ところが、テサロケには、そのような人がたくさんいたようです。パウロは「あなたがた一同のことを、いつも神に感謝しています」と書き始めるこの手紙の中で、テサロニケの教会の人々のありようをあたたかい眼差しで描き出します。「信仰によって働き、愛のために労苦し」「主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」と言われるテサロニケの教会は、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びを持って御言葉を受け入れた」教会でもあります。
 地上の歩みが決して順調ではないところに生まれたこの教会は、それにも関わらず、喜びと愛に満ちた姿で存在し、「信仰が至るところで伝えられる」ものとなっていました。それは、テサロニケの教会に強固な信念に立つ人々ばかりが集っていたからではなく、この教会が、「御子が天から来られるのを待ち望む」ことで、自分たちの地上の時間を神の時間としっかり結びつけていたからです。
 神の時間と結びつけられることで、地上の生の困難は、神の与える希望の前に、克服されます。預言者エゼキエルは「日々は長引くが、幻は全て消え失せる」という言説が蔓延し、日常の中に救いの希望が擦り切れてしまった時代に、神の言葉は「もはや引き伸ばされず、実現する」と、宣言しました。そして、捕囚の日々の困難の中でなお、イスラエル民を神の希望のもとに結びつけました。
 わたしたちも、時代の困難の中で、希望を神の時間に繋ごう。

2019.08.25(日)の礼拝の週報

34│2019年08月18日 聖霊11 隣   人

週    句

すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。
ルカによる福音書 12:48
説  教    「共に喜び、共に泣く」  :梅田 環

隣   人
出22:20~26、ロマ12:9~21、ルカ10:25~42、詩122:1~9。

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人と交わりなさい。……
ローマの信徒への手紙 12:15〜16

 神に受け入れられるであろう人の生き方がどのようなものなのか、また、人は神の前でどのように生きればいいのか。その答えは極めて単純です。使徒パウロは、手紙の中で、「愛」を生きることについて、語ります。それは、共同体の中で、互いに尊重し、他者をもてなし、自分を苦しめる者のために祝福を祈ることです。パウロが命じる数々の行いは、毎日の生活に極めて密着しています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」。それらは決して特別な人生のシーンで起こることではなく、人が日常で出会うことです。
 そして、パウロは、こうした具体的な行動を向ける相手を「互いに」「相手を」「すべての人と」「すべての人を」という言葉で表現しています。この指示を実践しようとする「あなたがた」にとって、愛を行う相手は「互い」であり、「すべての人」ですから、常に愛の行いは双方向です。
 隣人とは誰か、と問われたイエスは、律法の専門家に、追いはぎに襲われた人のたとえを語り、祭司やレビ人が素通りするところ、通常ユダヤ人が関係を持つことのないサマリヤ人がこの人を助けたと言います。イエスは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と結びます。
 聖書が教えるのは、隣人とはだれであるかを定義するものではなく、誰かへの愛の実践の結果として、隣人に「なる」ものであるということです。その双方向の関係を生きることが人のいのちの姿です。

2019.08.18(日)の礼拝の週報

33│2019年08月11日 聖霊10 苦難の共同体

週    句

光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と、真実が生じるのです。
エフェソの信徒への手紙 5:8、9
説  教  「正しい良心を願い求める」 :梅田 環


苦難の共同体
列上19:9~21、Ⅰペト3:13~22、ルカ9:51~62、詩13:2~6。

バプテスマは、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
ペトロの手紙 一 3:21b

 著者は、まず、「義のために迫害を受けるのであれば、幸いです」と言います。それは、イエスの教えの中に伝えられるものであり、イエスを主と信じる者が大切に伝えて来た、信じる者へ贈られる基本的な慰めです。貧しい者、悲しむもの、平和を造り出す者、個々のキリスト者は、この言葉から、自分の置かれている状況、被っている困難を振り返り、なおそこに、約束を見いだすことができるはずです。イエスは、どのように生きることを伝えたか、そして、どのように救い主となったのか、そこに、しっかりと立つことを、この言葉は求めます。
 「あなたがたの抱いている希望」がどのようなものであるのか、語ることができるようにしていなさいという勧めは、この困難を乗り越えるために重要なことです。なぜなら、その希望がどのようなものなのかがはっきりしてさえいれば、人からの中傷も、誹(そし)りも、真にその人の核を損なうものにはなり得ないからです。
 キリストは、人々を神のもとへ導くために、苦しみ、いのちを捨てました。この世に生きるキリスト者は、そのキリストを通して、神のものとなる希望へと生きています。その希望をつなぐのが「神に正しい良心を願い求める」行為としてのバプテスマである、と著者は言います。
 世界が偽りを語るとき、教会は真実に立ちましょう。世界が互いに貪るとき、教会は分ち合いを生きましょう。世界が命を破壊するとき、教会は平和を語りましょう。わたしたちがその立ち位置から逃げ出さないために、バプテスマは、わたしたちに与えられているのです。

2019.08.18(日)の礼拝の週報