39│2020年09月20日 聖霊降臨17 上に立つ人々

週    句

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださる。
ペトロの手紙一 5:7
説  教  「上に立つ人々」

エレ50:4~7、Ⅰペト2:11~25、ヨハ10:1~6、詩編23:1~6。
難しい箇所です。確かに「旅人」「仮住まいの身」と呼べる状況下、迫害下に生きた人々に対する教えですが、「この世の権力に服従せよ」との様な言葉を、今私たちがどう受け止めるのか。また、召使たちに主人への服従を求める言葉には特段の注意が求められます。同時に、体制に従順であることを良しとし、批判的態度に対して罵声が浴びせられるようなこの国の社会を思うと、このような箇所を見過ごさないことに意味を感じます。
「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(2:15)は、キリスト教・キリスト者に対する誹謗中傷を「無知な発言」としているので本来の文脈とは異なりますが、今日の世の中にあってキリスト者の生き方に結びつけて読むことができようかと思います。
教会とキリスト者には世にあって世のために生きる者・共同体としての使命が委ねられています。教団戦責告白において「国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるに‥・」と、私たちがなすべき務めに忠実でなかったと罪責が告白されていることを忘れてはなりません。愛する故に、相手が誤った方に向いているときには批判し、態度を明らかにする。旧約の預言者たちの言葉通りですし、エレミヤも「我が民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ山の中を行き巡らせた」(50:6)と語ります。そしてこの世の権力の前で苦しみ、それに決して迎合しなかった主イエスが語られた言葉もそれに通じています。
教会とキリスト者がこの世にあって世のためにいかに生きるのか。一人一人に「見張りの使命」が委ねられていることを心して、み心を求めつつ歩むものとされたいと願います。世を真に支配されるキリストを見つめつつ今を生きるこの世での確かな歩みをなし、示された業に励むものとされてまいりましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.09.20(日)の礼拝の週報

38│2020年09月13日 聖霊降臨16 神に属する者

週    句

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
詩編103:2
説  教  「神に属する者」

エレ28:1~17、Ⅰヨハ5:10~21、ヨハ8:37~47、詩編65:6~14。
Ⅰヨハネがもう一度取り上げられています。2章では「反キリスト」という何とも厳しい語も登場しながら、「正統」対「異端」という対比の中で「御子の内にとどまりなさい」と勧められました。5章においても「神の子を信じる人」「信じない人」という同じような構図を見ますし、「死に至る罪」を犯す人に対する厳しい姿勢も明らかにされています。
当時の教会の状況を思いつつ、しかし同時に対立構造を煽り異なるものを排除するように読むのではなく、「神の子を信じる人」という自己理解の中でいかに「神のみ心に適うこと」を求めていくかということが問われるように思います。それはイエスが「神に属するものは神の声を聞く」(ヨハネ8:47)と語られたことにつながるものでしょう。
Ⅰヨハネは「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります」(5:16)と、祈りのすすめをします。祈りはキリスト者個人として、共同体として、その歩みの根幹をなします。主イエスも祈ることについて多くのことを教えられました。そしてⅠヨハネにおいて、祈りが自己目的達成のため、利己的なものとしてなされるのではなく、他者のためのとりなしの祈りとして教えられるところに意味を見出すものです。
利己的な論理で他者が傷つこうが構わないという風潮がまかり通りかねない現実にあって、利他的に祈りをなしなさいとの教えは、祈りを通して私たちの生きる根幹が整えられていくものです。「何事でも神のみ心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」(5:14)。この確信に基づいて、他者のために祈りが繋がれていくところを神はみ心として受け止めてくださるのではないでしょうか。そしてキリスト者が、教会が「神の子を信じる人」として、この世にあって委ねられた使命を果たしていくことになるのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.09.13(日)の礼拝の週報

37│2020年09月06日 聖霊降臨15 新しい人間

週    句

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたことなのである。
マタイによる福音書25:40
説  教  「新しい人間」

出エジ13:17~22、エフェ5:11~20、ヨハ8:12~20、詩編98:1~9。

「光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8b)という言葉は、多くのキリスト教幼児施設で大切な聖句として受け継がれてきたことでしょう。「光の子として歩む」ようにとの勧めの直前で「以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」(5:8a)と言われているように、「あなたがた」という存在が光そのものであるということ、その光とされた者がいかに主に従って生きるか、という問いが5章の前半部分で語られていきます。
5章では「光」と「闇」の他にも「愚かな者」と「賢い者」(15節)との対比もなされます。これらの言葉から、ヨハネ福音書においてその冒頭からなされる「光」と「闇」という記述を思い起こすと同時に、「わたしは光である。私に従うものは暗闇を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)とのイエスの言葉が響いてきます。
世の中が混乱する中で、私たちは不安を覚え、心が騒ぎ、そこから生じるいら立ちを他者に向けてしまうことがしばしばあります。差別や排除が助長され、弱い者がさらに弱くされていく。私たちはこのようなことが起きうることをこの約半年の間実感させられて来ました。しかも、その当事者としての姿を持ち合わせていることを覚えないわけにはいきません。
様々な要因により人の心が闇に支配される時、されそうになる時、「世の光」としてこの世に来られ、人間一人一人の存在を招き、「主にあって光となる」ように導き、光の子として歩ませてくださる主イエスの業を心に刻んでいきたいと思います。この私が光とされる、そして同時にわたしの隣人も同じように光とされている。この光として命が輝く様を共に喜び合いたいのです。その喜びを分かち合い、ともに感謝して生きるところに、主のみ心が示されていることを信じつつ歩むものとされたいと願います。
「礼拝と音楽」より

2020.09.13(日)の礼拝の週報

36│2020年08月30日 聖霊降臨14 霊に従う生き方

週    句

彼は傷ついた葦を折ることなく暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ42:3
説  教  「霊に従う生き方」

出エジ34:4~9、ロマ7:1~6、ヨハ8:3~11、詩編87:1~7。

6章からの議論に続いて、律法から自由になるということをパウロは比喩を用いて語っています。が、この個所について大きな問題点を指摘しないまま通り過ぎることはできません。2~3節は、女性が男性に従属するという価値観に基づいており(「結婚した女」は田川訳では「男の下にある女」)、この個所を読む際には充分に注意を払わねばなりません。
聖書は人間という存在について、ありきたりな成功体験ではなく、失敗と過ちを繰り返しながら生きる姿として描き出しています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とのイエスの言葉に民衆がみな立ち去って行ったことはこの現実を端的に表しているかもしれません。今日の視点からするとパウロとて様々な問題を内包した存在であることは間違いありません。そのパウロが罪に支配された状態として「肉(サルクス)」という言葉をもって言い表しています。この「肉」に相対する存在として「霊」が挙げられています。神の子である主イエスが人間の罪深い現実の中に肉の姿を持って現れられ、そして十字架の死をもって人に罪が贖われていく。そして聖霊降臨の出来事において「霊」が人々に与えられ、そこからまた新しい働き、歩みが始められていきます。
私たちが自らの欠け破れに気づかされ、この私が赦され、新たにされ、そこからまた生かされていく恵みに与っていくということを知る時に、主の受難、復活、昇天、聖霊降臨の一つ一つの出来事が、自分にとっての出来事となっていきます。そして「“霊”に従う新しい生き方」で神に仕えていくものとされていくのです。「主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」(出エジ34:9)とのモーセの言葉はわたしたちの祈りの言葉でもあります。
「礼拝と音楽」より

2020.09.01(日)の礼拝の週報

35│2020年08月23日 聖霊降臨13 神からの真理

週    句

神は、高慢なものを敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。
ペトロの手紙Ⅰ 5:5
説  教  「神からの真理」

ヨブ28:12~28、Ⅰコリ2:11~3:9、ヨハ7:40~50、詩編15:1~5。

「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っている」(Ⅰコリ1:12)と、手紙の冒頭の勧めにて言い表されているような分派争いが、当時のコリントの教会に存在していたとされています。
東日本大震災の発生当時、「一つになろう」というような言葉を頻繁に見聞きしました。そのすべてを否定するまではしませんが、「がんばろう」との呼びかけと並んで強い違和感を覚えていました。「一つになる」という言葉のもとでかえってその「一つ」の外に置かれてしまう存在があります。今年私たちが置かれている状況においてもそれは同じでしょう。「一致」が求められる中で起きうる危うさと共に、先ほどの分派争いにおいて顕著に表れる問題を考えてみたいと思います。
「お互いの間にねたみや争いが絶えない」(3:3)との箇所の「ねたみ」は「熱心」という意味も有しているそうです。自らの正当性や正統性が主張され、正しさが熱心に追い求められるときに、「ねたみ」や争いが生じていく。初代の教会が有していた課題は、今日の様々な社会の状況、私たちの生きる状況にも当てはまってくるものですし、人間の本質的な課題を明らかにしていくものでしょう。
パウロが教会を畑にたとえ、そこに多様な働きがなされること、そして成長させてくださるのは神であると強調します。何派が上位だとか、どこに属しているから優位だというのではありません。誰もが抱きがちなそのような感情を、パウロはたとえを用いて一蹴します。一人ひとりが多様な働きを担い、多様な生命に生きる、その一人ひとりを神が慈しみをもって育ててくださる。このことにあらためて気づかされ、他者の異なる働き、異なる大切にしていることなどを尊びながら交わりを形成する時、真の意味で「一つになる」ということがなされていくのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.09.01(日)の礼拝の週報

34│2020年08月16日 聖霊降臨12 信仰による勝利

週    句

いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として、選ばれた民は。
詩編33:12
説  教  「信仰による勝利」

士師6:36~40、Ⅰヨハ5:1~5、ヨハ7:1~17、詩編146:1~10。

Ⅰヨハネにおいて、「勝つ」という言葉が散見されます。ここで使われている「勝つ(=勝利)」という語はヨハネの黙示録とⅠヨハネに顕著な語ですが、今日の箇所の少し前、2章と4章では「悪い者」「偽預言者」に勝ったという文脈で用いられています。「世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」(5:4)との言葉から、当時の教会が置かれていた様々な状況、特に「打ち勝つ」ことを求めねばならない困難な状況を垣間見ることができますし、そのような状況の中でも、イエスをキリストと信じる信仰によって歩もうとした人々の姿など感じ取ることができます。
しかし、「勝つ」ということを語る際に、注意深くならねばならないと、常日頃考えています。私たちは「~に勝つ」「打ち勝たねばなりません」という言葉を約半年間聞いてきたことでしょう。しかしその「勝つ」ことが目指されていく中で、現実に今直面している苦難の上にさらに苦難を重ねられてしまった人たちの存在、それぞれの生きづらさの中に置かれてしまっているのにそれを他者から顧みられない人たちを思うものです。もし「勝つ」という勇ましい言葉の背後で小さくされた人たちの存在が蔑ろにされるのならば、「勝つ」ということは一体何なのだろうかと考えずにはいられません。
「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(5:2)と語られます。今日の状況や文脈に重ね合わせるならば、神の愛の眼差しの中にすべての生命が置かれていることを見出すことができるでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(4:7)との教えも受けながら、造られた一つ一つの生命が互いに尊び合い、愛し合うことが進められていく。その中で、「世に打ち勝つ」ということの意味を私たちが知っていくのではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.09.01(日)の礼拝の週報

33│2020年08月09日 聖霊降臨11 聖餐

週    句

多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。
ルカによる福音書12:48
説  教  「聖餐」

箴言9:1~11、Ⅰコリ11:23~29、ヨハ6:41~59、詩編78:23~39。

「わたしがあなた方に伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち…」この第一コリントの箇所は、聖餐式において繰り返し読まれ、また聞かれてきた言葉です。11章において「主の晩餐」についての指示、制定、その守り方に関する論が展開されていきます。初代の教会、ことにコリントの教会における主の晩餐のあり様については様々に論じられてきており、また今日の教会においてもそれぞれの伝統や理解の中で多様な聖餐が行われています。ここで聖餐に関する議論を深める余白はありませんが、「パンを取り、感謝の祈りをささげて、それを裂き、与える」という4つの行いがここに提示されています。
「聖餐」を表す語もまた多様ですが、近年エウカリスティア(「感謝の祈りをささげて」)に当たるギリシア語が、呼び名としてエキメニュカルな対話の中で好んで用いられるとのことです。聖餐の意味を表すものとしてこの語が持つ意味を思わされます。
主イエス・キリストが私たちのために苦しみを負われ、自ら十字架の死を引き受けていかれた。裂かれたパンと杯を受けることを通して、私たちは主の救いの業を思い起こし、この私もその業の中に入れられているという恵みの現実を知らされていきます。そして、様々な分裂の危機にあったコリントの教会に対してパウロが共同体の一致を説いたように、イエスを主と告白するすべての者が等しく共同の食卓へと導かれていきます。この救いと招きに与り、共に座す恵みを覚える時、私たちは感謝せずにはいられない、感謝の祈りをささげずにはいられません。救いに与る、招きを受けるという体験から、私たちはそれぞれの形で主と共に、主に従う生き方へと導かれていきます。感謝と喜びのうちにこの招きを受け、一人一人に委ねられた働きを担う者とされていきましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.08.11(日)の礼拝の週報

32│2020年08月02日 聖霊降臨10 命の糧

週    句

光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。
エフェソの信徒への手紙5:8,9
説  教  「命の糧」


列王上17:8~16、ローマ14:10~23、ヨハ6:22~27、詩編68:2~11。

パウロは教会内の具体的な課題への勧告として、人間同士の関係を取り上げています。コリントの信徒への手紙一においてもこの課題が切実なものとして取り上げられていますが、まだ訪れたことのないローマの教会に対してこのような具体的課題について書き送るということは、この課題がどこにおいても、いつの時代も起きうることであるということを如実に表しています。三人集まれば派閥が生まれるとはよく言ったものです。
もちろん、この個所では教会内のこと、特に「信仰」を巡る事柄の中で議論がなされていますが、教会にとどまらず、この世界の様々な状況に当てはまることは言うまでもありません。しかもそれが「強い」と「弱い」という対比の中でなされていることから、より深い闇を感じます。あるいは、「清さ」と「汚れ」という概念において、これまでの歴史の中で一体どれだけの人々が傷つけられ、苦しめられ、退けられてきたことでしょう。パウロはそのような裁き合いについて、もう終わりにしようと言います。さらに自己絶対化によって異なる存在を切り捨てることは「もはや愛に従って歩んでいません」とさえ指摘するのです。
誰しも自分が大切にしていること、自分が拠りどころとしていること、これだけは譲れないことを有しています。それはアイデンティティに関わる問題です。しかし、私の隣には自分とは異なることを大切にしている人がいることに心が向けられて行かない。「兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15)との言葉は、この私の視点を異なる他者のあり様へと向けさせていきます。キリストが宣べ伝えた神の国は「聖書によって与えられる義と平和と喜びなのです」との言葉を、平和聖日のこの日、心に刻み、違いを超えて互いに受け入れ、尊び合う中で平和を実現するものとしての歩みを始めましょう。
「礼拝と音楽」より

2020.07.29(日)の礼拝の週報

31│2020年07月26日 聖霊降臨9 破局からの救い

週    句

あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属するもの、神の家族です。
エフェソの信徒への手紙2:19
破局からの救い
イザヤ43:1~13、使徒27:33~44、ヨハ6:16~21、詩編54:3~9。

古代の航海が今日の航海よりもはるかに危険に満ちていたことは今更言うまでもありません。旧約の時代のヨナの船旅、ガリラヤ湖の上で嵐に巻き込まれる舟等々、聖書の様々な場面が思い浮かびますし、海が神と敵対する竜の住む所と認識され、また陰府を象徴するものとされてきた言葉などを見出します。
パウロはその宣教旅行において船旅を繰り返してきました。福音を宣べ伝えるために出立する中で、聖書には書かれていない危険に遭遇したことも一度や二度ではなかったでしょう。そして今回の船旅は、囚われの身となったパウロが他の囚人たちと共に護送されるためでした。着く先に何が待ち構えているのか、決して先行き明るいものではないことを悟らずにはいられません。その船が嵐に巻き込まれるとは、宣教者が直面する数多の困難を象徴するようでもあります。
しかしここでパウロは主体的に、かつ極めて前向きな姿勢で人々に働きかけます。意気消沈する人々に対し、「生き延びるために必要だから」と食事を勧め、「頭から髪の毛一本もなくなることはありません」と励ますのです。
そして一同の前で「パンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ」る。それは主イエスがかつて人々の前でパンを分け与え、皆が満たされたことを想起させます。この嵐のただ中に主イエスが共におられる、神の守りがあるという確信が、パウロを突き動かしていたのでしょう。
一人の人間の人生の旅路、しばしば舟に喩えられる教会の歩み、その一つ一つもまた時に嵐によって吹き飛ばされてしまいそうになるようなものかもしれません。しかしその船旅に、旅路に主イエスが共におられるという確信に立つ時、私たちは恐れながらも前を向くものとされ、悲しみが喜びに、絶望が希望に変えられていくものではないでしょうか。
「礼拝と音楽」より

2020.07.29(日)の礼拝の週報

30│2020年07月19日 聖霊降臨8 復活の希望

週    句

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書43:1
説  教 「私だ。恐れることはない。」:片山寛牧師
ヨハネによる福音書6:16~21

復活の希望
ミカ7:14~20、使徒24:10~21、ヨハ5:19~36、詩編96:7~13。

エルサレムの神殿の境内で逮捕されたパウロは、カイサリアへと護送され、総督フェリクスに対する訴えが起こされます。すでに様々な人々がパウロの命を狙い、陰謀が渦巻いていた中での護送、告発であり、舞台は使徒言行録の最後の部分、エルサレムからローマの途上にあります。
パウロはここで疫病のような人間であり騒動を引き起こす者、ナザレ人の分派の首謀者、神殿の冒涜者との罪状を着せられていますが、総督フェリクスの前で堂々と弁明を行います。ルカ文書に顕著に表れる「弁明する」という言葉は、裁判制度に由来する述語で、キリスト者であるが故の敵意と拘留が前提なっているとされます。パウロとしては身の危険が迫る中でなされるこの「弁明」は、まず法廷における自らの無罪の立証のためになされますが、それにとどまらず、キリスト教信仰の核心について語る、宣教としての要素を持ったものとして進んでいきます。それはこの出来事の舞台設定を考えると驚くほかはないものでありましょう。
「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が」(ミカ7:18)と予言者が語るその言葉を信じるパウロは、「『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました」(使徒22:8)と人々の前で語る通りの体験を通して、かつての迫害者から福音を宣べ伝える者へと変えられていきました。弟子たちが、その姿変えられ、宣教者として遣わされていった、復活の主イエスとの出会いにも通じるものを見る思いがいたします。復活の主が私に語りかけ、この私を赦し、私と共におられる。そのことを信じる時に、パウロは危機の中にあっても大胆に語りました。私たちもまた、それぞれの形で、主共にいます幸いと喜びを語り、希望に生きる信仰者としての歩みをなしていきたいと思います。
「礼拝と音楽」より

2020.07.20(日)の礼拝の週報