03│2019年01月13日 降誕3 最初の弟子たち

週    句

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
ローマの信徒への手紙 8:14
説  教   「わたしは罪深い者」:梅田 環

最初の弟子たち
出18:13~27、使16:11~15、ルカ5:1~11、詩101:1~8。

シモン・ペトロは……「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
ルカによる福音書 3:22b

 「網を降ろし、漁をしなさい」と、イエスは命じます。その言葉を聞いた漁師たちは反論しました。おそらく、この状況では、魚が捕れることはないだろう、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスの言葉に従ってみると、漁師たちは思いもかけない大漁に恵まれます。
 漁師シモンは、想像することのできなかった大漁を目にして、イエスが共にあることのゆえか、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白します。言葉に従って、網を降ろしてみたのは、シモンであるのに、自分は「罪深い」と。それは、しゅうとめのいやしや、霊に取り憑かれた人のいやしなどが既に与えられているにもかかわらず、なお、イエスがどのような方であるかの本質を理解していなかった、自分の姿についての言葉であるのです。
 イエスは、シモンが諦めたところに声をかけ、シモンが理解しないことについて勧めます。そして、イエスはシモンが信じないところに招きます。
 イエスにとって、シモンの側の準備や理解や経験などは、問題になりません。イエスが招くとき、招かれた者に求められていることは、ただ、「降ろしてみましょう」という、確信がないながらも、何かの可能性に開かれることだけです。自分の確信や可能性がないところに、まだ何かの可能性があるかもしれないことに開かれることだけです。そこにある可能性とは、神の力が働く可能性です。そこへ向けて開かれることへと、イエスは招きます。

2019.01.13(日)の礼拝の週報

02│2019年01月06日 降誕2 イエスのバプテスマ

週    句

闇が去って、既にまことの光が輝いている。
ヨハネの手紙 一 2:8b
説  教  「声が天から聞こえた」:梅田 環

イエスのバプテスマ
ヨシュ3:1~17、使10:34~48a、ルカ3:15~22、詩104:24~30。

……すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
ルカによる福音書 3:22b

 バプテスマのヨハネは、同時代の人々にとって、不安の時代に進むべき指針を示してくれる人物として映っており、人によっては「もしかして、彼がメシアか?」と思っていました。けれども、ヨハネ自身はそれを否定し、水でバプテスマを行う自分は、聖霊と火でバプテスマを授ける「来るべき者」に並ぶことはできない、と言いました。
 ヨハネは、自分が何に従っているのかを、知っていました。ヨハネは、より大きな神の意志・より明確な神の意志の前に、自分を従わせることを知っていたのです。やがて、ヨハネのもとに、イエスがやって来ますが、そこでは、イエス自身の口を通して、イエスが何者であるかが語られることはありません。ただ、外から観察されたこととして、イエスのバプテスマに際して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から届いたことが伝えられます。イエスも、また、ヨハネの理解がどのようなものであり、また、周りの受け止めかたがどのようなものであるとしても、より大きな神の意志に自分を従わせるものとして登場するのです。
 神の意志に自分を従わせたヨハネの生涯は、彼がその過ちに直目するようにと迫った領主へロデとの対立により、投獄と死をもって結ばれます。
 バプテスマによって、読者(民衆/わたしたち)の前に姿を表すイエスは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉をどのように聞く(生きる)のか、福音書を読む者は、イエスに備えられている十字架への道を思い起こすことになります。

2019.01.06(日)の礼拝の週報

01│2019年01月01日 降誕 命名日 キリストの降誕

週    句

全てを、主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
コロサイの信徒への手紙 3:17
説  教    「言は肉となって……」  :梅田 環

言の受肉
イザ52:7~14、ヘブ1:1~6、ヨハ1:1~14、詩2:1~12。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネによる福音書 1:14a

 ヨハネ福音書には、マタイ福音書やルカ福音書のような降誕物語は記されていません。また、マリアやヨセフといった降誕物語の中心人物はだれも登場しません。他の福音書では「マリア」という一個人の名前が挙げられ、神の子を宿した女性として讃えられています。しかし、ヨハネ福音書に、神の子の母は登場しません。ヨハネ福音書は言います。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。
 人となられた神の言葉は、マリアという特別な女性に与えられたのでもなければ、ベツレヘムという遠い町にお生まれになったのでもありません。今、生きているわたしたちのもとに来られ、わたしという存在が神の子を宿す器とされたのです。
 しかし、神の子がその住まいとされたわたしたちは、立派な器ではない。もろく、はかなく、弱い存在です。荒れた部分、闇の部分があり、そこには、自分と相容れないものは排除したいという暴力的な思いさえあります。この弱さをもったわたしたちの中に、救い主は来られた。それも、わたしたちと同じ弱さをもった肉なる存在として。そして、神の言葉で、わたしたちの弱さや傷に触れ、癒してくださる。
 また、わたしたちが自己中心的な考えに陥り、他を排除しようとするとき、わたしたちを対話と和解と共生へと導く知恵を与えてくださる。なぜなら、神の言葉の受肉は個人的な事柄に留まるのではないからです。「わたしたちの〈間〉に宿られた」と記されているように、わたしと隣人の間に立ち、わたしたちを繋ぎ合わせる橋としてお生まれになったのです。

2018.12.31(日)の礼拝の週報

54│2018年12月30日 降誕1 東方の学者たち

週    句

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
ヨハネによる福音書 1:14
東方の学者たち
イザ61:1~11、Ⅰヨハ1:1~2:2、マタ2:1~12、詩21:2~8。

ところが、「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書 2:12

 時代の困難の闇が深まるとき、その現実を変革してくれる存在「メシア」を、人々は待望します。神が立てる「メシア」とはどのような存在であるのでしょうか。東の国からやって来た占星術の学者たちにとっては、それはそもそも「星」が教える存在でありました。当時、世界の常識では、偉大な人物の誕生や死に際しては、天文的な変動が起こる、と考えられていたため、占星術の学者たちも、そのような特異な天文現象の分析により、妥当とした場所を尋ねて、ユダヤにやって来ました。
 ところが、占星術の学者は、ユダヤの地に到着すると、星を見るのを止めてしまいます。そして、星のみを見て、それに従うのではなく、学者たちは「メシア」が生まれるはずの場所を、人間の「王」のいるところだと判断してしまうのです。
 聖書の民に約束されているメシアは、「貧しい人に良い知らせを伝え」、「打ち砕かれた心を包み」、「捕らわれ人には解放を告知」するために、立てられるものです(イザ61:1)。そのようなことを行う者は、現実の人間の為政者、人を支配する者ではあり得ません。地上の為政者には、そのような導きを期待することは、到底、できません。
 占星術の学者たちは、自分たちの過ちを知ります。学者たちは王のいるところを離れ、もう一度、星に従って道をたどり、今度は何の変哲もない家の中にいる「幼子」を見出します。幼子へと導かれた学者たちは「喜びにあふれた」、と物語られます。メシアを見出すことは、時に、常識に邪魔され、見誤ることもあるものです。

2018.12.29(日)の礼拝の週報

53│2018年12月24日 誕前聖夜 人となったロゴス(言)

今 夜 の 聖 句

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネによる福音書 1:1

言は肉となってわたしたちの間に宿られた。
ヨハネによる福音書 1:14a
おはなし    言は人の光であった!  牧 師

言(ロゴス)は人の光
イザ45:22~25、フィリ2:1~13、ヨハ1:1~14、詩98:1~9。

その光は、まことの光で、世に来て、全ての人を照らす。
ヨハネによる福音書 1:9

 キリストの誕生日は、極めて神学的な理由で、12月の25日と定められました。それは北半球に住む人間が、最も闇が濃くなることを肌で感じる時だからです。そこで、闇を克服する光の到来として、古代のキリスト者はキリストの誕生日を冬至に設定したのです。
 ヨハネ福音書の語り出しは、「言と光」という抽象的な表現で,イエス・キリストの働きを言い表します。それは、人間の生きる場所の混沌に,光をもたらす秩序(言)としてのキリストであり、人間がそこを生きなければならない暗闇を照らす松明(光)としてのキリストです。キリストとしてのイエスに出会うことによって、混沌と暗闇の中にあるわたしたちのいのちの歩みは意味あるものになる、とヨハネ福音書は考えています。
 しかしながら、同時に、秩序は混沌の中でこそ意味をもち,光は闇との対比においてこそ,人間を照らすものとなる。そうであるならば、言と光は、混沌の暗闇において、わたしたちを導くものとして存在するのであり、混沌と暗闇を世界から完全に駆逐する力を持つものではないのでしょう。ただし、それは、混沌と暗闇の支配力を決定的に無力化するものなのです。わたしたちが、それに圧倒され、取り込まれ、押しつぶされそうになるときに、踏み留める働きをなすものです。
 わたしたちの人生の歩みは、クリスマスを越したからといって、明日から万事が好転するわけではありません。冬至を過ぎても、わたしたちを取り巻く闇は、深く濃いままです。けれども、冬至の翌日から、少しずつ、日が長くなっていくように、言を得て、光に照らされたわたしたちは、その闇を抜け出すための希望を得ています。言が、わたしたちの明日を照らすことを信じ、受けとめようではありませんか

2018.12.26(日)の礼拝の週報

52│2018年12月23日 降誕前1 告 知

週    句

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピの信徒への手紙 4:4、5
説  教    「ひとつの若枝が育ち」 :梅田 環

告   知
イザ11:1~10、Ⅰコリ1:26~31、ルカ1:26~38a、詩89:20~30。

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根から一つの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。
イザヤ書 11:1

 政治指導者の失敗や経済的疲弊のあと、人間が世界に期待するべきものは何でしょうか。預言者イザヤはそれを端的に「一つの若枝」と言い表します。その人物には霊がとどまるが、それは正しく人を導くことのできる能力をこの人物に与えるもの、「主を知り、畏れ敬う霊」であるといわれます。
 造られたものとして、いのちに対する畏敬の念を持っていること、そのことこそ何よりも重要な、崩壊を経験した人々のための導き手の資質です。その霊に満たされたものに導かれる世界では、いのちの調和が生み出されるのです。それをイザヤは、自然界に存在する生き物の姿によって描き出しています。肉食獣と草食獣とが調和して生きる世界、それは、弱い者、傷を抱える者が、虐げられることなく、むさぼられることなく、生きることのできる世界の幻であるのです。
 この言葉を受け取った人々は、そのような世界をもたらす者を「平和の王」として待望しました。そこにおける平和は、ただ戦争のようないのちを損なう行為が存在しないということだけを意味するのではありません。また、それは、世界に困難があっても自分の内面には、平安が保たれる、というようなことでもありません。そこにおける平和は、そこに存在するものすべてが、内面的にも、外面的にも、全く健康で安全に保たれた状態で存在することのできる関係がある、ということを意味しているのです。
 世界の平和は、大きな暴力によって保たれているように見えますが、預言者は、全く暴力によらない平和を追求する幻を見ます。

2018.12.22(日)の礼拝の週報

51│2018年12月16日 降誕前2 先駆者

週    句

主のために、荒れ野に道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びて来られる。
イザヤ書 40:3、10
説  教    「娘シオンよ、喜び躍れ」 :梅田 環

先 駆 者
ゼファ3:14~18、Ⅰテサ5:16~24、ルカ1:5~25、詩85:2~14。

娘シオンよ、喜び躍れ。/……お前の主なる神はお前のただ中におられ、/勇士であって勝利を与えられる。
ゼファニア書 3:14、17

 輝かしい戦勝の喜びに満ちたイメージです。軍事的な敗北を経験したイスラエルの民が、そのような神の先導する戦勝のイメージを豊かに育てたことは、歴史的な経験を反映するものかもしれません。
 しかし、このような言葉が語られる前には、「その日」として、主の怒りが、余すところなく、あらわにされる日が来ることが、語られます。「主の日」とも呼ばれるそのときは、神ご自身が不正をただし、不義を絶つときであり、イスラエルの間に広がる悪を滅ぼし尽くす神の怒りの描かれかたは、凄まじいものがあります。
 その敗北に、意味を構築することが必要であったイスラエルの人々は、バビロニア捕囚を、このようにして、神による教育的な出来事として歴史の中に消化していきました。
 自分のかかわる不正や不義と向き合うことを、神は、否応なく人に求めます。そこからは誰も逃げられないものであり、逃げるべきではないのです。なぜなら、そのような裁きのときを経て、のち、神はその民を回復するからです。それは、人々が偽りから離れ、不正を行うことを止め、再び、神を求めて生きようと願う、という形で、生き方を変えて神に立ち帰るという回復を、神は人々にもたらします。
 そのようなイスラエルに与えられる幻が、主がただ中におられる、という冒頭のイメージです。ですから、そこにおける「勇士」のもたらす勝利は、単純に戦争に勝利するというようなことではありません。敗北を通してしか勝利しない、喪失を経験するからこそ回復をもたらす、そのような主が、わたしたちのただ中に来るときを待望しよう。

2018.12.17(日)の礼拝の週報

50│2018年12月09日 降誕前3 旧約における神の言

週    句

身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
ルカによる福音書 21:28
説  教    「〈わたし〉の口から出る言葉」    :梅田 環

旧約における神の言
イザ55:1~11、ロマ15:4~13、ルカ4:14~21、詩19:8~11。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も虚しくは、わたしのもとに戻らない。
イザヤ書 55:11a

 捕囚の身から解放されたイスラエルの人々は、ユダの地に帰還することが許されました。しかし、人によっては、50年も離れていたユダの土地は、もはや、故郷とは言いがたく、バビロニアで生まれ育った世代にとっては、まさしく見知らぬ土地でしかありません。民の中には、荒れ果てた見知らぬ土地に赴いて生活を再建するよりも、バビロニアで暮らす方が良いと考える人もいました。預言者は、そんな人々に向かって、ユダに戻って、神の言葉を基本に据えた関係に生きる社会を作ろう、と呼びかけなければなりませんでした。

2018.12.10(日)の礼拝の週報

49│2018年12月02日 降誕前4 主の来臨の希望

週    句

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書 9:9
説  教  「〈主は我らの救い〉と呼ばれる」    :梅田 環

主の来臨の希望
エレ33:14~16、ヤコ5:1~11、ルカ21:25~36、詩25:1~14。

『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
エレミヤ書 33:16

 民を正しく導こうとしない指導者によって、混乱し、苦難を味わう人々に対して、神は「若枝」を与えると約束し、その王は「主は我らの救い」と呼ばれる、と言われます(23章)。苦しみの中に導き手を求める人々に対して、正義の王が与えられる、その約束は不正がはびこる世界の一筋の光りです。ところが、エレミヤの預言の中では、この約束が実現する様子は描かれません。この言葉を語ったあと、エレミヤはバビロニアによる占領と捕囚を預言します。不吉なことばかりを口にするエレミヤに、王は腹を立て、牢につないでしまいます。
 指導者は全うな政治を行うことをせず、正しい道に立ち帰らない。その結果、国民が戦争被害を免れ得ないことが明らかになるときに、33章で、もう一度同じ預言が繰り返されます。神が「正義の若枝を生え出させる」、とエレミヤがあらためて預言するとき、その若枝は、「王」とは呼ばれません。現実の政治指導者は決して「公平」や「正義」という、人々が心から待ち望んでいるものをもたらすことは、ない(!)。それが、もはや、エレミヤにとって避けようのない明白な事実となっていたからです。
 こうして、かつて、「王」に結びつけられていた「主は我らの救い」という名前は、ここでは、個人ではなく、エルサレムという街に結びつけられます。政治指導者への不信の中、「主は我らの救い」という名は、人ではなく、街、小さなもの・個別的なものではなく、より普遍的なものに結びつけられています。
 「主は我らの救い」と呼ばれるべきは、地上の指導者でもなければ、暴力の進行している街でもないことを心に刻もう!アドベントの今

2018.12.01(日)の礼拝の週報

48│2018年11月25日 降誕前5 王の職務

週    句

腰に、帯を締め、ともし火をともしていなさい。
ルカによる福音書 12:35
説  教    「三十歳で王となり……」 :梅田 環

王の職務
サム下5:1~5、Ⅰコリ15:20~28、ルカ23:35~43、詩18:47~51。

ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムで……。
サムエル記下 5:4〜5

 イスラエルの王となったダビデは、統一王国を築き、人々に豊かさと繁栄をもたらしました。圧倒的な強さを示す王に、人々は誇りを持ちました。その後、多くの苦難を経験した古代イスラエル人は、ダビデの末裔からダビデのような王が誕生するのを待ち望みました。
 ところが、待ち望んでいた王であり救い主であるイエス・キリストは、王位に就くどころか、貧しいまま。貴族たちと交流するのではなく、罪人、病人、こども、社会の周縁に置かれた人々と寝食を共にし、神の恵みを分ち合いました。最終的には捕らえられ、十字架で死に、罪状書きには、「ユダヤ人の王」と記されます。
 そのユダヤ人の王が十字架上で語ったのは、罪人に向けた「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉でした。死を迎える恐怖の時、人々が見捨てる時でさえ、「あなたを見捨てない。あなたと共にいる」と、約束してくださっている。そう、すべての人が神の救いに与るとの約束を、最後の最後まで語り続けたのです。
 イエスの姿は、ダビデとは正反対。ダビデは武力で強さを誇り、人々を癒す竪琴を奏でることができ、人々から愛され、権力も与えられた。しかし、全てを持ち合わせているかのように思える偉大な王といえども、完璧な人間ではなく、欲望に支配されて権力を乱用する場面も多々あった。そのような王のもとでは、真の意味でわたしたちが解放されることはあり得ません。わたしたちは、どのような王を心の内に迎えるのか。他者を打ち倒し、自分の富を増やそうとする王か。欲望のためには、他者の犠牲も厭わない王か。

2018.11.28(日)の礼拝の週報